2008年7月アーカイブ

ようやっと夏の新刊が入稿。今までのスケジュールだと、7月上旬には大抵入稿を終わらせているので、ここまで引っ張って遅れたのはもしかしたら初めてかも。

主に、どうもやる気になるまで全然筆が進まなかったり、ドラクエ5DSを買ってビッチ嫁デボラがサイコウすぎたりしたためだが、ドラクエ5の話は次に回すとして......

とりあえず今回の表紙はこんな感じで。出入庫と[学06]がそれぞれ表紙になりました。

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題材は以下の通り。前巻で入れそこねたものも救済。

・出入庫の後編、・[品98]と[井98]、・[学03]と[学06]、・[305]、・[里48]、・東砂五丁目

今回は久しぶりに大陽印刷に持っていったが、入稿時の原稿チェックで奥付が昔の刷った別の印刷所になっていることに気づき、謝りながら修正。これははずかしい。

須田町まで来たので近くのまつやにでも寄ろうかと思ったら休日は休みらしい。さすが神田。仕方ないので近くの小諸そばに入る。もう少し2枚もりの量を多くしてくれてもいいのに。

星間飛行

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現在放送中の「マクロスF」の星間飛行が結構いい感じだ。

マクロスと言えば、初代の「私の彼はパイロット」「愛・おぼえていますか」を代表として、割といい曲を送り出しているが、これらと同じような曲のにおいを今に再現したのは凄い。具体的には、この平成20年のご時世とは思えないB+級アイドルっぽさの香り。いわゆるアイドルっぽい歌だが、'80年代前半の泥臭さとは一線を画した、'80年代後半あたりをピンポイントに再現したかのような感じがした。聴いていて思い出したのがきまぐれオレンジロードだったりYAWARA!だったりしたためだ。

そう、ここまで書いて何週か聴いて思いあたったが、この曲は「雨にキッスの花束を(今井美樹)」に激しくそっくりだ。特にサビのコード進行はスライドさせただけでほとんど同じ。スペースの区切りが4分音符の長さとして、だいたいこんな感じに聞こえる。

(星間飛行)

A♭  →  →   →  Gm  →  Cm  →

りゅう せい にー まー たー ーがっ てー あな

Fm  →   B♭ →  Gm  →  C   →

たに きゅう こう かー -oh ーoh ーー --

 

(雨にキッスの花束を)

( お もい)

Fm  →  B♭  → E♭  →  Cm  → 

ーが けな いー プロ ーポ ーズ ース クラ

Fm  →  B♭  → Gm  →  C  →

ーン ブル のー どま ーん なか ーう そで (しょー)

 

ちなみに歌詞は松本隆御大。作曲は菅野よう子といずれも第一人者。歌詞は詩的な表現といいシンプルな言葉といいいつもの感じだが、菅野よう子はAメロ→Bメロのあたりにそれっぽさを感じるものの、独自色はちょっと控えめな感じで、20年くらい前のアイドルソングをオマージュして再現しようとした感じがした。ということでまだ聴取ループ中。

原稿作業が数時間止まっていたのでそろそろ再開。

久々に東武バス一日乗車券を握りしめて足立区をめぐる旅に出る。暑かった。

都内だけでなく、埼玉県内も使えたらいいのになー...と思う今日この頃。関西のツーデーやスリーデーのような、加盟社局のバス路線は全て乗り放題というようなのでもいいから東京圏でも出してくれないだろうか。

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(クリックで拡大)

舎人ライナーに伴う改編で大幅に系統番号を再編して、重複しすぎだったり西新井に「西」と「新」の両方があったりと意味不明だった系統番号を付け直したおかげで慣れない部分もあるが、昔よりは大幅に良くなったと思う。そのおかげかLED行き先だらけになっていた。

メインイベントは一日2回にまでなってしまった[王30]を乗るところ。多分[王30]は都営時代の最後に乗ったくらいで、東武便は7年ぶりくらい。[王49]と同じ西側区間はそれなりに、東側区間も固定客が数人はいる模様だった。ただ、環七の渋滞があるとキツいだろうなぁ......とも思う。

あと[見21]がすごい。路地を入っていって普通の生活道路のような道ばたにつけられた停留所に停まるというコミュニティバスのような設定。さすがに車種はポンチョになるが、夕方の便は全区間立ち客が出るほどの盛況ぶりだった。

前の続き。

何せ広島にまともに行ったのは14年ぶりで、路面電車に低床連接車(グリーンムーバー)が大増殖していて驚く。かねてから市内の中心部を貫通し、宮島線に直通する2系統は連接車が入っていたが、なかなかの頻度でやってくる。100万都市の市内交通需要を路面電車で捌くのはなかなか大変な面があるかもしれないが、基幹系統に連接車を集中投入することで、需要にこたえているのだろう(2系統は原則として単車での運行はない模様)。ただ、乗り降りのスムーズさはどうしても気になるところだが、後でwikipediaを見ると平成23年目途で信用乗車制度を導入するとのことなので、これが一つの試金石になりそうだ。

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▲バスセンター(そごう)前。こう見ると長い

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中心街に作られた地下街シャレオを抜けて球場へ。人ごみを避けて入口までアクセスできるのはいいが、市民球場が移転したら球場前の立派な地下街入口はどうするのだろうか。再開発待ち?

地下街の終点、球場に上がる出口の前には上のような壁画のようなポスターがある。ナゴヤドームや横浜スタジアム(地下鉄関内)、マリンスタジアム(海浜幕張)にも同じような球団応援ポスターがあるが、なかなかセンスが超越しているような......。

ちなみにシャレオの由来は「おしゃれ」をひっくり返しただけというのみ秘密。コンサドーレ札幌やヨネッティ王禅寺よりスゴい気もするが秘密。

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広島市民球場は本当に市街地の真ん中にある。いまどき珍しい立地になってしまったが、これも今年限り。球場も14年ぶりだったが、中はあまり変わっていない。それぞれの出入口と客席入口がほぼ直結になっていて、球場内の周回通路がないのはさすがに厳しいか......。

広島-ヤクルト戦。客はなかなかの入り。ただSS席でも4,000円で買えて、しかも当日券が直前に購入可能というのはなかなか嬉しい。

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広島市民球場の大型ビジョンは、塁に出た選手が緑色で表示される。これ、ほかの球場ではあまり見たことがない。なかなかよい試みだと思う。ただし、書体がまんまMSゴシックとMS明朝というのは大変いただけないので、新球場のビジョンではよりデザインについて再考を促したい? ところ。

14年前に見た広島-中日戦も、確か序盤に広島が8点か9点くらい大量リードしてたのが途中で中日が打者一巡で中盤から追い上げたなぁと思っていたら似たような展開に。しかし最後は粘って12回であえなく引き分け。チャンスは何回もあったが、残念ながらあと一歩がどちらも出なかった......にしても、途中で雨は降ったりしたが、  1回で2.5試合分くらいの密度はある見ごたえのある試合だった。

引き分けだとヒーローインタビューも何もないのが残念。

おまけ。

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回の途中でグラウンドに現れたドナルド教祖。YMCAにあわせてアメリカンな振り付けで踊っていたが、なんかタイアップでもしているのだろうか。

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選手登場時(投手交代、代打etc.)に出る表示。球団ごとに特色があって面白い。選手名のちょっと斜体をかけた新ゴというのが、何ともいえない'90年代前半っぽさを醸し出している。

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3回ごとに現れたカップヌードル軽トラ。近寄ってみると、栄養成分表までパッケージを完コピーしている。これもスポンサー活動の一環なのだろうか。12回終了後も3塁寄りに停まって展示していた。なお、残念ながら湯気は出ない。

 

一週間前にXbox360の通信対戦麻雀 闘龍門(←通称マチャアキ)をしながら、「広島に行くのはどう?」と話が出て、2日前にようやく決定。宿は前日。いつもながら行き当たりばったりな旅のはじまり。

新横浜からのぞみに乗って広島に。コンセントがないと死ぬデジタル中毒者揃いなので、N700系の指定を取ってもらう。何と座席の両側(A・E席)にそれぞれコンセントが備え付けられている。

あとそれぞれのLED表示盤がなりデカくてびっくりする。行き先表示もフルカラーかつ次の停車駅も出るという親切仕様で、E233系みたいだ。

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広島駅からは市内線で紙屋町へ。昼はお好み焼きしかないということで同行者おすすめの店が行ってみると更地になっていたり、良さそうな店がなかったりということで紙屋町をしばらくさまよって「みっちゃん」(広島では有名な屋号)に入る。

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▲更地になってしまった近くで偶然見かけた物件。一時は「ここに入ろうか」という案も出たものの、この推薦はどうかという話になり流れる。 しかもこれでは今なら水田わさび推薦だ。

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▲みっちゃん(いせや)のそばダブル。おいしゅうございました。

渋谷駅再開発

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東京都の6/30のお知らせで「渋谷駅街区基盤整備方針」が公表されていた。

http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2008/06/20i6u300.htm

4年後(平成24年)に東横線が地下に潜って、副都心線と直通するのを機に、東横店の再開発や、あまりにも分かりにくい駅周辺の構造や歩行者の動線、旧態依然としたバスターミナル(特に西口側)を見直そうというもので、しばらく前から有識者で再編整備を検討していたものだが、基本方針がようやく出てきた。かつての案では、渋谷駅上にガレキの塔みたいな建物が建ったり2階全域にペディストリアンデッキがあったりと色々な案があったような気もするが、全体としては素直に使いやすい感じになるようだ。

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ポイントは

●駅ビル(東横店)は分離状態を改め、駅の南側に建築

●埼京線(湘南新宿)は山手線と並行に移設

●西口広場は南北に分離、バス専用とし一般車乗り入れ禁止

●西口タクシー乗り場は地下に移設

●銀座線は文化会館連絡通路上に移設(駅が1面1線のように見えるが......)

●3Fは山手線・埼京線・銀座線の統合巨大コンコースに

●東口バスターミナルは北側に移設

●鳥瞰図によると山手線ホームが1面2線に(先祖がえり?)

渋谷駅の工事はいつまで経っても終わりそうにない。

少し思った点をいくつか。

●西口が一般車通り抜け不可として、周辺に移行してパンクしないだろうか? 通り抜けはタクシーがほとんどだから大丈夫だったりするのだろうか。

●銀座線の降車ホームはどこになるのか。

●バスプールの容量は足りるか。

●埼京線の新南端が現ホームの北端に引っかからないだろうか。

●というか、渋谷川は...

●忘れ去られた新南口とホテルメッツはどうするのか。超長い連絡通路?

7/1~7/31まで、東京都都市整備局にてパブリックコメント絶賛受付中らしいので、興味のある方はどうぞ。

19. 北区

・開始...赤羽北一丁目~三丁目・赤羽台三丁目~四丁目・桐ヶ丘一丁目~二丁目(昭和39年6月15日)

・最終実施...田端一丁目~六丁目・中里一丁目~三丁目・西ヶ原一丁目(追加)(昭和51年5月1日)

・未実施地域...なし

北区は、町の構成をそのまま新町名に移行した地域と、従来の地名を無視して整理統合した地域に大きく分けることができる。多くは前者だが、赤羽駅周辺と国鉄線西側の台地部分のみ大きく変えられ、袋町・赤羽町・稲付の名を冠する各町が赤羽北・赤羽台・赤羽西・赤羽南・西が丘・桐ヶ丘の各町へと町名が変更された。

それ以外は丁目の境もほぼそのまま新町に移行しており、他の区と比べても珍しい。これは、昭和20年代後半から丁目をつけるなどの整備を行っており(滝野川町→滝野川一丁目~七丁目、西ヶ原町→西ヶ原一丁目~四丁目)、住居表示の際も特に変える必然性がなかったからだろう。ただし、戦前から丁目方式で整備した地区(王子・豊島など)は街区方式ではなく、どちらかというと道路方式に近いため、例えば王子では北本通りの両側に一丁目~五丁目が並んでおり、住居表示の際もこのまま維持された。

北区の住居表示は昭和39年から始まり、地域に関係なくハイペースで進み、昭和42年5月の上十条・神谷・志茂・十条仲原への実施で、残すは区の南端にある(旧)田端町・中里町と、赤羽駅の東口付近の岩淵町近辺のみになっていた。しかしここで、住居表示の実施はぱったり止まってしまう。

※滝野川七丁目のみ昭和43年5月に実施された。滝野川一丁目~六丁目に遅れること3年半、なぜここだけ遅れたのかはよく分からない。

岩淵町については、当初は赤羽に全て吸収する予定だったものが、地元の反対により止まった状態になっていたためである。結局住民の訴えが実り、昭和46年7月に赤羽・赤羽南が住居表示で誕生し、岩淵町の西半分は赤羽一丁目・二丁目に吸収されたものの、翌昭和47年2月に残りの部分が岩淵町として住居表示が実施され、町名は残った。

残った田端地域はなぜここまで遅れたのかは不明である。昭和44年5月に、駅東側の田端操車所のほうが東田端として独立した後は長い間塩漬けになっていたが、ようやく昭和51年5月に田端一丁目~六丁目となり、中里町も中里一丁目~二丁目となって、住居表示を全域で完了した。

20. 荒川区

・開始...町屋一丁目~八丁目(昭和38年6月1日)

・最終実施...荒川一丁目~八丁目(昭和43年3月1日)

・未実施地域...なし

荒川区は昭和初期の区成立の時点で町名を整理しており、区内には尾久町・日暮里町・三河島町・町屋・南千住町の5町しか存在しなかった。これをそのまま住居表示すれば良さそうなものだが、そうしなかった。

昭和36年10月に都内初のモデルケースとして、三河島町の大半と町屋の一部を合わせて整理を行い、「荒川」(一丁目~八丁目)とした。区役所があって区の中心だから区の名前をつけた、というだけの安直なもので、三河島の名が難しいというわけでもなく、地名から抹消してしまったという意味では天下の愚行と言うほかない。なお、荒川は正式に住居表示が終了したわけではなく、昭和43年3月の実施をもって正式に終了した。

町名が少ないこともあって住居表示は比較的早期に終了したが、各町の境は大幅に改変され、日暮里町は三河島町の南部を呑み込んで東日暮里・西日暮里に分割した。尾久町は西尾久・東尾久に分割され(納得できるのはこれくらいか)、南千住町はそのまま南千住となったものの、丁目は原型をとどめずに変えられた。

比較的納得感があるのは広かった尾久の分割くらいで、それ以外は住居表示に伴う改変の悪い見本のようにしか見えないのが残念なところである。

 

16. 豊島区

・開始...長崎一丁目~五丁目・南長崎一丁目~六丁目(昭和39年11月1日)

・最終実施...要町一丁目~三丁目・千川一丁目~三丁目・高松一丁目~三丁目・千早一丁目~四丁目(平成元年11月27日)

・未実施地域...なし

豊島区は元々の町の数が少なかったのにもかかわらず、池袋か駅を中心に町域・町名ともに大きく変更された。特徴としては、池袋を冠する地名の大量増殖と、住居表示の完了まで長い時間がかかったことが挙げられる。

最初の昭和39年に実施されたのは、最も南西部に位置する長崎・椎名町である。長崎はそのまま町名を引き継いだが、椎名町は南長崎に変えてしまった。変えた理由は不明だか゛、帝銀事件の忌まわしい記憶でもあったのだろうか?

その後はしばらくストップするが、昭和41年に池袋周辺に手をつけて、西池袋・東池袋・南池袋の各町が誕生した。元々の(旧)池袋は、池袋駅東口周辺と池袋駅の西側一帯を指す地名だったのだが、池袋駅より東側のの西巣鴨・雑司ヶ谷町の東半分と日ノ出町の全域を呑み込んで、全て池袋を冠する名になってしまった。44年には池袋の一部がさらに独立して「池袋本町」が誕生。当初の町名は「北池袋」を予定していたが、もともと池袋の本村だったことに由来するもので、まだ納得感がある。

※さらに、昭和45年には堀之内町と西巣鴨の一部が「上池袋」になった。そのまま堀之内を予定していたところに、杉並区堀ノ内と紛らわしいという理由で変更になったようだが、それを言ったら妥協の産物で各所に現れた「中央」やら「中央町」はどうなのだろうか。

前述の通り、西巣鴨は今の西巣鴨の交叉点周辺から、大塚駅・サンシャイン付近まで達する非常に広大な町域を持っていたのだが、東池袋・上池袋の独立のほか、翌昭和44年の住居表示で大塚駅周辺は全て南大塚・北大塚となり、西巣鴨は交叉点付近の狭い町域が残るのみとなった。大塚の名は元々の大塚とは関連なく、国鉄の大塚駅が地名にフィードバックされたもので、新宿区高田馬場と似た匂いを感じる。

さて、豊島区の住居表示は上池袋・北大塚・西巣鴨等の昭和45年実施分をもって一旦ストップしてしまう。この時点で、区西部の一帯(高松・千川町・要町・千早町)と分離独立した後に駅西北部だけ残っていた(旧)池袋一丁目~四丁目だけとなっていた。

池袋については、残ったこの町域をどのような地名にするつもりだったのかは不明だが、池袋駅近くの一帯だけ地番そのままで残る姿はなかなか珍しいものだった。20年近くそのままだったが、結局平成元年8月にほぼそのまま住居表示が施行され、「池袋」を名乗った。なのでなぜ何も冠しない「池袋」が駅西北部にあるのかと言えば、結局住居表示をしそびれた残りの部分だったからという以上の理由はない。

区西部は、元々昭和14年4月に町名改正で新設されたものである。なぜここまで遅れたのかは不明だが、結局平成元年11月に町名から「町」を落として町域はほぼそのままで施行され、ようやく豊島区の住居表示は完了した。全体として見返すと、方角+山手線の駅名がやたらと目立つ結果となった。

17. 板橋区

・開始...相生町・中台一丁目~三丁目・西台一丁目・若木一丁目~三丁目(昭和38年11月1日)

・最終実施...大門・徳丸五丁目~八丁目・四葉一丁目~二丁目(昭和47年12月1日)

・未実施地域...なし

板橋区の住居表示の特徴としては、世田谷区のように、旧来の町名はほぼ残されたことがまずは特徴であろう。それに加えて、昭和30年代に市街地化に伴って継続的に実施していた町域の分離独立が住居表示に際してもそのまま維持され、丁目を持たない単独町名が多く残ることも特徴となっている。

戦後の人口増加と急速な市街地化に伴い、区は昭和30年代に区画整理や町名の分離独立を積極的に行っていた。例えば、昭和30年以前の地図では、区の南部は(旧)板橋町と(旧)上板橋町で大部分を占めていたが、昭和31年4月の双葉町・富士見町・本町・大和町の分離独立を皮切りに、毎年数個の町が新設され、昭和38年4月の三園町の新設まで続いた。

この時までは町名新設は住居表示とは関係なく実施されていたが、昭和38年11月の相生町(←志村中台町の一部)の新設時は住居表示の施行時期に引っかかってしまっていた。本来であれば、住居表示に際してはこの当時は単独町名の施行はほぼ認められていなかったが、区側の押し切りで町名新設と同時に住居表示が施行された。

住居表示の最初期から、新住所も「町」つき、しかも単独町名での施行というのは、町名を集約しようと目論んでいた当局からすればいきなりの例外であり、早くも住居表示のほころびが見えた瞬間でもある。「前例」ということで、その後の渋谷区大山町等の単独町での施行も問題なく実施された。そういう意味では、相生町には足を向けて寝られない(?)。町名は志村坂下小学校脇の三田線沿いに架かる橋から名づけられたが、川は暗渠になり、今は国際興業バスのバス停に残るのみである。

その後の住居表示実施においても、元々の各町の町域が広かったこともあり、ほとんどは町域の分離新設のみであった。ほぼ唯一の例外が「小茂根」(昭和40年5月)で、小山町・茂呂町・根ノ上町の3町統合で成立した。見ての通り旧町から一文字ずつ取ったもので、それほど不自然さは感じないが、ここだけ統合しなくてもという気もする。

旧町名が引き継がれなかった所としては、坂下・東坂下(←長後町)がある。長後町の由来不詳のため、志村坂の坂下に変更したとも言われるが、理由は定かではない。

前述の町名新設は昭和38年に志村西台町・志村中台町から相生町のほか若木が、昭和40年に(旧)板橋町から加賀が、(旧)上板橋町から桜川が分離された。それ以降は旧町名を中心にそのまま町域調整を行い新住所に移行することが続いた。大規模な新設としては、昭和44年3月に区北部の一帯が団地造成に伴って「高島平」がこの時代唯一である。

それ以降、昭和45年~46年にかけては、昭和30年代に分離独立した各町がそのまま住居表示されていった。町名を作って間もないこともあり、統合するのも問題があるということだろう。それも昭和47年1月には終了し、最後まで残っていた東武練馬駅の北側、首都高の南側の町域についても、旧町名の徳丸・四葉を名乗ることとして完了した。このとき、新大宮バイパスと首都高が合流する辺りに大門町が独立新設されたが、この地域だけ何らかの独立要望があったのだろう。

18. 練馬区

・開始...桜台四丁目~六丁目・練馬一丁目~三丁目(昭和38年2月1日)

・最終実施...豊玉上一丁目~二丁目・豊玉北一丁目~六丁目(平成2年1月1日)

・未実施地域...西大泉町1197番地

練馬区は東京23区の中で最も早く住居表示を開始した区である(※モデルケースで試験的に実施された荒川区荒川を除く)。まずは必要性の高い都心寄りから手がつけられることになり、南町の一部が独立して桜台・練馬を名乗った。桜台が四丁目~六丁目と中途半端なスタートとなっているのは、昭和37年から町名整理を開始した所で、既に南町の一部から羽沢町・栄町が分離し、桜台一丁目~三丁目が新設されていたためである。ただし先行分離されたこれらの町の住居表示については長い間住居表示から取り残され、実施は昭和62年とかなり遅くなった。

板橋区と同じく、そもそもの一つ一つの町域が広かったこともあり、新町名は基本的に旧町名の名前を引き継ぎ、広い町域については町名が新設された。そうならなかったのは(旧)練馬町の北町・仲町・南町くらいで、単に練馬町を3つに分割しただけの名前では味気ないということか、上述の町名以外にも昭和40年7月に平和台・氷川台・錦・早宮が新設され、今は北町が残るのみである。

板橋区の違いとしては、住居表示の進行が遅かったことが挙げられる。上記の練馬区東部の住居表示を昭和41年までにあらかた完了した後は1年に1~2町程度とかなりスローペースになった。これ以降の完全に新しい町名の新設は昭和44年9月の光が丘と昭和46年8月の三原台程度である。中でも光が丘は米軍施設のグラントハイツの返還(昭和48年)を前にして区が決定したもので、全域が光が丘1番となった。今のように一丁目~九丁目に分割されたのは入居が始まる昭和58年9月のことである。

昭和45年以降は、前述の通り旧町域をそのまま活かした住居表示が主流となる。変更があったのは、石神井周辺で(旧)上石神井・下石神井から石神井町・石神井台(昭和45年7月)・上石神井南町(昭和59年6月)の分離と、(旧)関町が関町北(昭和53年1月)・関町南(昭和59年6月)・関町東(昭和60年1月)に分割された程度であろう。

おまけで、大泉地区の旧町はおおよそそのまま住居表示が実施されたが、東大泉町→東大泉、西大泉町→西大泉...となる中で、北大泉町だけ「大泉町」と本家を名乗るような変更をしたのが謎である。大泉地区の中では一足先に住居表示を実施したこともあり(昭和55年1月)、抜けがけというべきか。

このように昭和50年代に土支田・関町北・大泉の各町・上石神井南町・関町南・立野町と進んだ後、昭和60年に上石神井・関町東、昭和62年にかつて新設した小竹町・栄町・桜台・羽沢を完了させて、ようやく残るは豊玉の名を冠する各町のみになった。隣の中村北・中村・中村南は町名はそのままに昭和47年9月に実施しているだけに、なぜここだけ住居表示が最後まで残ったのかは分からない。結局、昭和64年1月に豊玉中・豊玉南が、平成2年1月に豊玉上・豊玉北に施行し、ようやく区全域でほとんどが完了した。実に最初の実施から37年近くが経ってからのことであった。

「ほとんど」と書いたのは、わずかに未実施地域が残るためである。一部には有名な飛地で(http://www.geocities.jp/ur_route_neo/nishioizumi.html)(http://www.toukou-t.com/s_toukou/archives/h_tobichi.htm)、埼玉県新座市片山に囲まれた一角に東京都の住所が鎮座している。昔の新田開発の際に伴うものかどうかは不明だが、昭和49年に新座市と練馬区の間で、新座市への編入をすることで合意はされたものの、住民の反対でそのままになっている。このような経緯からして、今後とも埼玉県への編入でもない限り、住居表示が実施されることはなさそうである。

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