2008年10月アーカイブ

局番号のひみつ

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通常、都営バスで局番号と言えば、バスの車体の側面に書いてある

「N-F463(北)」

の、N-F463の部分ということになっている。しかし、この言い方はあまり正確とは言えない。昭和41年3月に電算化に備えて局番号を制定したときの記述では、以下のように局番号の書式を定めるとなっている。

例)15M501/15...型式 M...年度 501...通し番号

このときに、車体には従来から書かれていた営業所の記号をあわせ、「C-M501」のような表記になった。これが昭和49年に分かりやすさも兼ねて営業所名をつけて「C-M501(新宿)」と書かれるようになるわけだが、なぜか正式な「局番」の上2ケタは車体表記から漏れてしまった。型式なぞ内部管理だけで分かればよく、車体表記する必要性がないと考えられたためだろう。

(H20.11.1追記:目黒新橋さんより:バスラマインターナショナルに記述あり。「制定当初は車種・車台型式を示す2ケタの数字を中扉後ろの外板下方に表示していましたが、慣れるにつれて表示をやめました」とのこと。青白の美濃部カラーに塗り替えられた段階で消えてしまったようだ)

そのため、この2ケタの数字はほとんど表からはお目にかかれない数字になってしまった。しかし、1輌ごとに存在する車輌台帳には局番の項に「15M501」のように書かれているわけで、今なお管理上の番号の仕組みとしては生き残っているわけである。そういうわけで、「都営バスの局番ではメーカーや型式を区別していない」というのは正確な表現とは言えない。旅客案内上の表記であれば正しいが、正式な局番では識別可能と言える。

この2ケタの数字の概要だが、10の位は1,2...いすゞ 3,4...日野 5,6...三菱 7,8...日デ(民生)で、一般車(特定車を含む)が奇数、貸切車が偶数となる。ここは昭和41年3月の制定時から現在まで変わっていない。ちょうど当時の都営内シェア順に数字を振っているのが興味深い。1の位は制定当時は最古参の車から順に振ったようだ。資料がどこかにあったはずなのだが現在行方不明なので記憶で書くと、振り方はなぜか1つ飛ばしだった(11, 13, 15,...)と思う。

(H20.11.1追記:普通に11, 12, 13...と振っていた。ただし、必ずしも古い順に振ったわけではない。ボンネットとリアで並び順を分けている場合もある)

その後は新しい型式になるたびに、使っていない数字を使っていった。既に存在しなくなった型式の数字は使いまわされたため、数字だけで一意に型式が決まるわけではない。例えば31ははるか昔のセンターアンダーフロアのBD34(昭和33~36年度)あたりに使っていたと思うが、その後昭和49年度~52年度のRE100SRに、さらに近年のしおかぜ用リエッセに使い回されているようだ。

型式が増えていくにつれ、当然ながら0~9だけでは足りなくなったためか、下1桁に英字も使われるようになった。確認できるので最も古いのは昭和60年度~のP-HT233BAの「3B」である。その後は中型やらリフトやらCNGやらで型式種類が爆発的に増加したため、さまざまな英字が使われるようになった。細かい仕様差で型式番号を分けていた(例えば、Z代ではグリーンリバー用の都市新バスが入ったが、通常の都市新バス[5F]とニーリングつきの車[52]を区別していた)。

といってもほとんどお目にかかることのない数字のため、全貌を把握するのはかなり難しい。1年しかいなかった試験運行の燃料電池バスもきっと番号が存在したとは思うが、今となってはナゾである。1輌しかいない車にも当然ながら番号が与えられる。冒頭のN-F463は、1輌だけの日野CNGノンステップだが、この形式で表した番号は

「3XF463」

となる。当然ながら、型式「3X」はこの車でしか使われていない。

局番は、わかっているようでもナゾだらけ。

 

昭和57年3月29日、閉所直前の志村の一覧。営業所の前の路線はとうの昔に廃止され、営業エリアの離れにある車庫とあっても閉鎖も必然だったのだろう。最盛期は110輌を数えたものの、末期は76輌まで減車されていた。車も路線も近隣の営業所に分散されていった。冷房車は9輌、大型幕車はK代の7輌のみ。前期のため、あの赤黄スズキカラーである。昭和56年7月の入籍だったため、志村の地にいたのはわずか半年だった。

y_5703.png

基本的に、車輌については路線の多くを引き継ぐ北に転出したが、巣鴨も一定数存在し、さらには日産ディーゼルが杉並・葛西に行ったのが興味深い。葛西はこの当時、江東から一定数の日産ディーゼル車を受け入れていたものの、杉並は最初で最後の日産ディーゼルである。

もっとも、直後昭和57年6月にはK代後期の入籍で入れ替えに除籍されてしまい、わずか3ヶ月の命であった。やはり日野でない上に経年車ということもあって杉並営業所のヒエラルキーでは一番下だったのだろうか? 何せ、杉並はこの時点ではワンマン兼用車として導入した昭和44~45年度のV・W代が大量に残っているので、年次を考えるのであれば当然X代より前に除籍されるはずだからだ。もっとも、これらV・W代も昭和57年度のL代導入でほとんどが除籍されるのだが、タイミングとしてはあくまでも志村からのX代除籍が先になっている。

巣鴨に移籍した分は、北1箇所ではそんなに大量に受け入れられないという事情もあったのだろう。北には都合43輌転入したが、このタイミングで最後まで残っていた昭和43年度後期のS代5輌を除籍、滝野川時代からの古参のいすゞ車を巣鴨・新宿などに(たぶん)24両転出させ、差し引き13輌増としている。巣鴨も当然ながらかなりの車輌増となっている(最古参のR・T代7輌を入れ替えで除籍したのみで、転出は見当たらない)。ただし、結局巣鴨に移動した分は昭和58年11月の移動で北に全車移動し、代わりに北から滝野川時代のいすゞ車を引き受けている。

これに加え、昭和62年2~3月の今井~北の交換という3段階の変化を経て、北は日産ディーゼル車に統一されるのだが、それはさておきもう一つ目立つのがX代の除籍である。志村のX代は昭和46年4月入籍なので、11年も持っていないことになる。MOTTAINAI。昭和61年2月まで持った杉並のX代(昭和46年11月入籍、14年3ヶ月)とはえらい違いだ。

 

 

続いて営業所ごとの動きにとりかかってみる。出入を把握することで、車輌の動きをかなり正確に把握することができるためだ。

一例として昭和54年4月の早稲田を。昭和43年のトロリーバス代替・46年の都電代替で大量の新車が入ったため、車輌の構成としては相当いびつな構成になっている。

昭和43年度 三菱(三菱ボディ) MR410 42輌(R588~R629)

昭和46年度 三菱(呉羽ボディ) MR410 21輌(W407~W427)

昭和52年度 三菱(三菱ボディ) MR410-3UA 7輌(E558~E564)

昭和53年度 三菱(呉羽ボディ) MP107K-3U 7輌(F115~F121)

計77輌、年度別に分けてもわずか4種類のみ。超画一的とも言える。このような車庫の場合、平均車齢を車庫ごとになるべく差をつけないという交通局の方針もあるため、大量に入った車は大抵途中で少しずつ転出/除籍して行き、代わりに新車もしくは中間世代の代が入っていくことで、いびつな構成をならしていくという手法が採られていく。事実、この時点で既に、F代と入れ替えでR511~R517が青戸・南千住に、E代と入れ替えでW400~W406は渋谷に転属している。

この直後にG代が入る(冷房車込みのG361~G367)が、このときもW407~W412を渋谷に転属させている。ただし、それでも多くは入れ替えで除籍された。R代は昭和55年4月~57年7月の数段階に分かれて除籍することで影響を薄めたが、それでも代わりのH代は21輌も入っている。

昭和59年3月のW代死滅時はだいたいこんな感じ。B494~496は末期の転属にあたるが、転属してきて最後のW代を押し出して除籍させた。

昭和47年度 三菱(三菱ボディ) MR410改 1輌(Z401) ←南千住からの転属

昭和49年度 三菱(三菱ボディ) MR410-2UA 3輌(B494~B496) ←南千住からの転属

昭和49年度 三菱(呉羽ボディ) MR410-2UA 1輌(B529)

昭和52年度 三菱(三菱ボディ) MR410-3UA 7輌(E558~E564)

昭和53年度 三菱(呉羽ボディ) MP107K-3U 7輌(F115~F121)

昭和54年度 三菱(呉羽ボディ) MP107K-3U 7輌(G361~G367)

昭和54年度 三菱(呉羽ボディ) K-MP107K-3U 7輌(G464~G470)

昭和55年度 三菱(呉羽ボディ) K-MP107K-3U 21輌(H185~H205)

昭和56年度 三菱(呉羽ボディ) K-MP107K-3U 7輌(K478~K484)

昭和57年度 三菱(呉羽ボディ) K-MP107K-3U 7輌(L578~L584)

昭和58年度 三菱(呉羽ボディ) P-MP118K 7輌(M314~M320)

計75輌。

R・W代の除籍の代わりではH・K・L・M代が連続で入ったが、今度はこれらの車の末期に旧世代の車(L代くらいまで)が排ガス基準強化で一斉に除籍されることになり、平成2年~3年のW・X代が大量に入ることとなった(Wは19輌、Xは18輌)。

途中で大江戸線の改編に伴う移動や減車を挟んだものの、今度はW・X代の除籍時期が出始めたため、H・K・L代がいずれも大目に導入されている。ということで英字が1周する間に車輌はふた回りするが、歴史は回ることを実感できる......かもしれない。

 

生存報告

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この一月ほど、趣味的には車輌データの総仕上げ中。
5年がかり、10人ほどの知恵と記憶を結集してようやくここまで来た。

あともう一息。しかし、昭和61年より平成13~14年の動きのほうが不明点が多いってのはどうよ。

toeicar_tmp_1.png

 

つねづね思うことだが、真に完璧なデータの状態を100とするなら、100に到達するのはまず不可能だ。賭けてもいい。

50まではすぐに行く。70も1ヶ月あれば行く。80は半年は必要だろう。90は1年。95は3年。そして、自信を持って98と言い切るには5年は必要だと思う。ここから先は茨の道とでも言うほかない。たとえ完璧主義であろうとも、同人誌やWebにまとめるにはある程度で折り合いをつけて研究成果を発表するほかなく、本を書くときはいつも「こんな不完全な部分を残していていいんだろうか」という自問自答との戦い(?)とも言える。と書くとカッコよく見えるが、実際はどこかであきらめをつけるわけで、自分の調査力が及ばないのは悔しいことこの上ない。98の結果を発表して、残り2を埋める人に出会うのを根気よく待つしかない、と、思うことにしている。

最近はありがたいことに新しい出会いもあり、大きく進みそうだ。車輌データは98に行ったといえるかどうか。

路線については......10年も続けたから多分「99」と言いたいところ......だが。

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