23区住居表示の実施状況(6)

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16. 豊島区

・開始...長崎一丁目~五丁目・南長崎一丁目~六丁目(昭和39年11月1日)

・最終実施...要町一丁目~三丁目・千川一丁目~三丁目・高松一丁目~三丁目・千早一丁目~四丁目(平成元年11月27日)

・未実施地域...なし

豊島区は元々の町の数が少なかったのにもかかわらず、池袋か駅を中心に町域・町名ともに大きく変更された。特徴としては、池袋を冠する地名の大量増殖と、住居表示の完了まで長い時間がかかったことが挙げられる。

最初の昭和39年に実施されたのは、最も南西部に位置する長崎・椎名町である。長崎はそのまま町名を引き継いだが、椎名町は南長崎に変えてしまった。変えた理由は不明だか゛、帝銀事件の忌まわしい記憶でもあったのだろうか?

その後はしばらくストップするが、昭和41年に池袋周辺に手をつけて、西池袋・東池袋・南池袋の各町が誕生した。元々の(旧)池袋は、池袋駅東口周辺と池袋駅の西側一帯を指す地名だったのだが、池袋駅より東側のの西巣鴨・雑司ヶ谷町の東半分と日ノ出町の全域を呑み込んで、全て池袋を冠する名になってしまった。44年には池袋の一部がさらに独立して「池袋本町」が誕生。当初の町名は「北池袋」を予定していたが、もともと池袋の本村だったことに由来するもので、まだ納得感がある。

※さらに、昭和45年には堀之内町と西巣鴨の一部が「上池袋」になった。そのまま堀之内を予定していたところに、杉並区堀ノ内と紛らわしいという理由で変更になったようだが、それを言ったら妥協の産物で各所に現れた「中央」やら「中央町」はどうなのだろうか。

前述の通り、西巣鴨は今の西巣鴨の交叉点周辺から、大塚駅・サンシャイン付近まで達する非常に広大な町域を持っていたのだが、東池袋・上池袋の独立のほか、翌昭和44年の住居表示で大塚駅周辺は全て南大塚・北大塚となり、西巣鴨は交叉点付近の狭い町域が残るのみとなった。大塚の名は元々の大塚とは関連なく、国鉄の大塚駅が地名にフィードバックされたもので、新宿区高田馬場と似た匂いを感じる。

さて、豊島区の住居表示は上池袋・北大塚・西巣鴨等の昭和45年実施分をもって一旦ストップしてしまう。この時点で、区西部の一帯(高松・千川町・要町・千早町)と分離独立した後に駅西北部だけ残っていた(旧)池袋一丁目~四丁目だけとなっていた。

池袋については、残ったこの町域をどのような地名にするつもりだったのかは不明だが、池袋駅近くの一帯だけ地番そのままで残る姿はなかなか珍しいものだった。20年近くそのままだったが、結局平成元年8月にほぼそのまま住居表示が施行され、「池袋」を名乗った。なのでなぜ何も冠しない「池袋」が駅西北部にあるのかと言えば、結局住居表示をしそびれた残りの部分だったからという以上の理由はない。

区西部は、元々昭和14年4月に町名改正で新設されたものである。なぜここまで遅れたのかは不明だが、結局平成元年11月に町名から「町」を落として町域はほぼそのままで施行され、ようやく豊島区の住居表示は完了した。全体として見返すと、方角+山手線の駅名がやたらと目立つ結果となった。

17. 板橋区

・開始...相生町・中台一丁目~三丁目・西台一丁目・若木一丁目~三丁目(昭和38年11月1日)

・最終実施...大門・徳丸五丁目~八丁目・四葉一丁目~二丁目(昭和47年12月1日)

・未実施地域...なし

板橋区の住居表示の特徴としては、世田谷区のように、旧来の町名はほぼ残されたことがまずは特徴であろう。それに加えて、昭和30年代に市街地化に伴って継続的に実施していた町域の分離独立が住居表示に際してもそのまま維持され、丁目を持たない単独町名が多く残ることも特徴となっている。

戦後の人口増加と急速な市街地化に伴い、区は昭和30年代に区画整理や町名の分離独立を積極的に行っていた。例えば、昭和30年以前の地図では、区の南部は(旧)板橋町と(旧)上板橋町で大部分を占めていたが、昭和31年4月の双葉町・富士見町・本町・大和町の分離独立を皮切りに、毎年数個の町が新設され、昭和38年4月の三園町の新設まで続いた。

この時までは町名新設は住居表示とは関係なく実施されていたが、昭和38年11月の相生町(←志村中台町の一部)の新設時は住居表示の施行時期に引っかかってしまっていた。本来であれば、住居表示に際してはこの当時は単独町名の施行はほぼ認められていなかったが、区側の押し切りで町名新設と同時に住居表示が施行された。

住居表示の最初期から、新住所も「町」つき、しかも単独町名での施行というのは、町名を集約しようと目論んでいた当局からすればいきなりの例外であり、早くも住居表示のほころびが見えた瞬間でもある。「前例」ということで、その後の渋谷区大山町等の単独町での施行も問題なく実施された。そういう意味では、相生町には足を向けて寝られない(?)。町名は志村坂下小学校脇の三田線沿いに架かる橋から名づけられたが、川は暗渠になり、今は国際興業バスのバス停に残るのみである。

その後の住居表示実施においても、元々の各町の町域が広かったこともあり、ほとんどは町域の分離新設のみであった。ほぼ唯一の例外が「小茂根」(昭和40年5月)で、小山町・茂呂町・根ノ上町の3町統合で成立した。見ての通り旧町から一文字ずつ取ったもので、それほど不自然さは感じないが、ここだけ統合しなくてもという気もする。

旧町名が引き継がれなかった所としては、坂下・東坂下(←長後町)がある。長後町の由来不詳のため、志村坂の坂下に変更したとも言われるが、理由は定かではない。

前述の町名新設は昭和38年に志村西台町・志村中台町から相生町のほか若木が、昭和40年に(旧)板橋町から加賀が、(旧)上板橋町から桜川が分離された。それ以降は旧町名を中心にそのまま町域調整を行い新住所に移行することが続いた。大規模な新設としては、昭和44年3月に区北部の一帯が団地造成に伴って「高島平」がこの時代唯一である。

それ以降、昭和45年~46年にかけては、昭和30年代に分離独立した各町がそのまま住居表示されていった。町名を作って間もないこともあり、統合するのも問題があるということだろう。それも昭和47年1月には終了し、最後まで残っていた東武練馬駅の北側、首都高の南側の町域についても、旧町名の徳丸・四葉を名乗ることとして完了した。このとき、新大宮バイパスと首都高が合流する辺りに大門町が独立新設されたが、この地域だけ何らかの独立要望があったのだろう。

18. 練馬区

・開始...桜台四丁目~六丁目・練馬一丁目~三丁目(昭和38年2月1日)

・最終実施...豊玉上一丁目~二丁目・豊玉北一丁目~六丁目(平成2年1月1日)

・未実施地域...西大泉町1197番地

練馬区は東京23区の中で最も早く住居表示を開始した区である(※モデルケースで試験的に実施された荒川区荒川を除く)。まずは必要性の高い都心寄りから手がつけられることになり、南町の一部が独立して桜台・練馬を名乗った。桜台が四丁目~六丁目と中途半端なスタートとなっているのは、昭和37年から町名整理を開始した所で、既に南町の一部から羽沢町・栄町が分離し、桜台一丁目~三丁目が新設されていたためである。ただし先行分離されたこれらの町の住居表示については長い間住居表示から取り残され、実施は昭和62年とかなり遅くなった。

板橋区と同じく、そもそもの一つ一つの町域が広かったこともあり、新町名は基本的に旧町名の名前を引き継ぎ、広い町域については町名が新設された。そうならなかったのは(旧)練馬町の北町・仲町・南町くらいで、単に練馬町を3つに分割しただけの名前では味気ないということか、上述の町名以外にも昭和40年7月に平和台・氷川台・錦・早宮が新設され、今は北町が残るのみである。

板橋区の違いとしては、住居表示の進行が遅かったことが挙げられる。上記の練馬区東部の住居表示を昭和41年までにあらかた完了した後は1年に1~2町程度とかなりスローペースになった。これ以降の完全に新しい町名の新設は昭和44年9月の光が丘と昭和46年8月の三原台程度である。中でも光が丘は米軍施設のグラントハイツの返還(昭和48年)を前にして区が決定したもので、全域が光が丘1番となった。今のように一丁目~九丁目に分割されたのは入居が始まる昭和58年9月のことである。

昭和45年以降は、前述の通り旧町域をそのまま活かした住居表示が主流となる。変更があったのは、石神井周辺で(旧)上石神井・下石神井から石神井町・石神井台(昭和45年7月)・上石神井南町(昭和59年6月)の分離と、(旧)関町が関町北(昭和53年1月)・関町南(昭和59年6月)・関町東(昭和60年1月)に分割された程度であろう。

おまけで、大泉地区の旧町はおおよそそのまま住居表示が実施されたが、東大泉町→東大泉、西大泉町→西大泉...となる中で、北大泉町だけ「大泉町」と本家を名乗るような変更をしたのが謎である。大泉地区の中では一足先に住居表示を実施したこともあり(昭和55年1月)、抜けがけというべきか。

このように昭和50年代に土支田・関町北・大泉の各町・上石神井南町・関町南・立野町と進んだ後、昭和60年に上石神井・関町東、昭和62年にかつて新設した小竹町・栄町・桜台・羽沢を完了させて、ようやく残るは豊玉の名を冠する各町のみになった。隣の中村北・中村・中村南は町名はそのままに昭和47年9月に実施しているだけに、なぜここだけ住居表示が最後まで残ったのかは分からない。結局、昭和64年1月に豊玉中・豊玉南が、平成2年1月に豊玉上・豊玉北に施行し、ようやく区全域でほとんどが完了した。実に最初の実施から37年近くが経ってからのことであった。

「ほとんど」と書いたのは、わずかに未実施地域が残るためである。一部には有名な飛地で(http://www.geocities.jp/ur_route_neo/nishioizumi.html)(http://www.toukou-t.com/s_toukou/archives/h_tobichi.htm)、埼玉県新座市片山に囲まれた一角に東京都の住所が鎮座している。昔の新田開発の際に伴うものかどうかは不明だが、昭和49年に新座市と練馬区の間で、新座市への編入をすることで合意はされたものの、住民の反対でそのままになっている。このような経緯からして、今後とも埼玉県への編入でもない限り、住居表示が実施されることはなさそうである。

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