2008年6月アーカイブ

そろそろ新刊書かなければ......。

13. 渋谷区

・開始...上原一丁目~三丁目・大原町・神山町・松濤一丁目~二丁目・富ヶ谷一丁目~二丁目(昭和38年7月1日)

・最終実施...鶯谷町・宇田川町・恵比寿西一丁目~二丁目・恵比寿南一丁目~三丁目・神山町・桜丘町・猿楽町・神泉町・神南一丁目~二丁目・代官山町・道玄坂一丁目~二丁目・南平台町・鉢山町・円山町・代々木神園町(昭和45年1月1日)

・未実施地域...なし

のっけから言うと、渋谷区の住居表示実施方針はよく分からない。昭和38年7月と23区の中でも相当早いスタートだが、最初の住居表示から「大原町」「神山町」と、単独町名でそのまま「町」つきで実施したかと思えば、山手線の東側では大胆に町名整理を行っていたりする。

渋谷区は、大まかに町域が分けられていた北側の旧・代々幡町と千駄ヶ谷町の部分と、細かい町名に分かれていた旧・渋谷町に大別される。このうち、区の北側、小田急線・明治神宮から北側の部分については昭和33年~36年にかけて、地番整理とともに町名の整理が行われ、千駄ヶ谷・代々木・笹塚・幡ヶ谷・本町・初台・西原・元代々木町の各町に大きく整理された。(この時までは「代々木」の町名は存在しなかった)

このときは住居表示の実施ではなかったものの、住居表示に際しても隣接の町域と修正を行った程度で、原型は昭和30年代に完成していたことになる。この地域の住居表示は昭和43年1月・44年1月にまとめて行われた。

南側の区域に関しては一部を除き町名変更が激しい。そもそも、渋谷町の区域には、恵比寿通(恵比寿駅から田町行きのバス通り)・八幡通(青山学院脇から並木橋~代官山)・上通(R246旧道の青山~渋谷駅~道玄坂上の部分)・下通(渋谷橋~天現寺橋の間の明治通り)・栄通(ハチ公口から東急本店脇~旧山手通りの部分)など、通りに沿って存在する細長い町域がいくつか存在した。ただし、ブロック単位で町名を付けていった街区表示式の住居表示とは相性が悪いようで、大掛かりに整理された。

※住居表示の方法として、沿道に番号を振る「道路方式」もある。通り沿いに専用の地名を用いる正に上述のような方式で、海外では今でもよく見られる。

まずは昭和35年2月に恵比寿駅の東側が整理され、下通・公会堂通・衆楽町・長谷戸町・山下町などの一部ずつを統合して、恵比寿南・恵比寿西・恵比寿東の各町名が誕生した。ただし昭和40年代の住居表示の際はもう一度再編成され、恵比寿東は新たな住所である「東」「恵比寿」に吸収されて消えてしまった。それ以外にも山手線の東側は整理の度合いが大きく、原宿と穏田は統合時にモメて線路の向かいの神社から借りてきて「神宮前」に、「東」も常盤松と氷川でモメた挙句に方角一文字の住所になってしまった。

それと比べると山手線の西側の部分は細かい町名が残っているが、この地域は最後の住居表示になったところであり、色々と抵抗があったのかもしれない。ただし、ここについても「八幡通」「上通」「大向通」等を吸収して町域調整を行った結果、以前の町域とは色々と異なっている。なお、渋谷駅近辺のみ新たに「道玄坂」「神南」が作られたが、道玄坂一丁目と桜丘町に吸収されて消えてしまった大和田町が少しかわいそうである。

14. 中野区

・開始...江古田一丁目~二丁目・江原町一丁目~三丁目・松が丘一丁目~二丁目(昭和38年10月1日)

・最終実施...中央一丁目~五丁目・本町一丁目~六丁目・南台一丁目~五丁目・弥生町一丁目~六丁目(昭和42年6月1日)

・未実施地域...なし

中野区は旧・中野町と野方町の2町から成り立っているが、他の区と同じように町の密度が旧町によって異なり、北の野方町は町の数が少なく、町域も大まかに分かれているだけの状態だったが、南の中野町は細かい町が数多く存在した。このため、住居表示に際しては、北側は分割して新たに町を起こし、南側は大胆に統合した。実施時期についても、前期の昭和38年~41年は野方町、それ以降は中野町域と綺麗に分かれている。

北側の分離独立した地域としては、(旧)江古田→江古田・江原町・松が丘・丸山、(旧)鷺宮→鷺宮・上鷺宮・白鷺・若宮があるが、それ以外は旧町名をほぼ引き継いでいる。鷺宮については、いずれも鷺宮を由来とする町名にしたのが面白い。

南側は、数ある町名をまとめ、大久保通り・神田川・方南通りで輪切りにして、わずか6つにまとめることとなった。これで町名がまとまるはずもなく、いずれも無難な名前になった。本町通(青梅街道沿いに存在した町名)を継いだ「本町」や駅周辺の「中野」はまだ納得できるが、「中央」(←本町通・小淀町・塔ノ山町・宮前町・仲町・上町・橋場町・宮園通・川添町の各一部)というのはどうだろうか。区の中央にあるわけても区役所があるわけでもない。「南台」は単に区の一番南にある台地だから、「弥生町」は迷ったうえに、弥生時代の遺跡が多く出土したことから何とか名づけた(そういう意味では弥生時代の元ネタとなった文京区弥生とは順番が真逆)。これらの地域はまとめて最後の住居表示実施となったが、北側よりもモメる内容となったためだろう。今では丸の内線の中野富士見町駅が旧住所を主張するのみである。

15. 杉並区

・開始...井草一丁目~五丁目(昭和38年9月1日)

・最終実施...荻窪一丁目~五丁目・松庵一丁目~三丁目・成田東一丁目~五丁目・成田西一丁目~四丁目・西荻南一丁目~四丁目・南荻窪一丁目~四丁目・宮前一丁目~五丁目(昭和44年11月1日)

・未実施地域...なし

杉並区も広い区であるが、どちらかというと早い時期に住居表示が完了した。元からさほど町域は細かく分かれていなかったが、世田谷区とは方針が異なり、そのまま町名を活かして住居表示を行っていくのではなく、町域に関しては分割・統合をかなり激しく行っている。

代表的なところでは旧町で中央線にまたがっているものについては、全て中央線を境に分割された。高円寺→高円寺北・高円寺南、阿佐ヶ谷→阿佐谷北・阿佐谷南、上荻窪→上荻・南荻窪といったあたりが分割例であるが、この分割や新町名への移行の過程で、不思議な名づけがいくつかある。

・西荻窪を分割したら西荻北・西荻南(「窪」はどこに!?)

・阿佐ヶ谷は分割したら阿佐谷北・阿佐谷南(文字数が多いとでも言うのか)

・大宮前は「宮前」に(大宮八幡宮に由来するのに「大」を取ってどうする)

・成宗と西田町と東田町を統合して2分割して「成田東」「成田西」(分割するんだったらそもそも統合する意味が...)

・方南町は例によって「方南」(町を取ると異様に名前の坐りが悪くなる良い見本)

・天沼はちょっと広いからといって分割しようとしたら分離後の名前でモメて北側が「本天沼」(仲良く「北天沼」「南天沼」で良いが、分割する広さにも見えない。特に北側が天沼発祥の地ということもない)

また、旧井草町域についはて比較的細かい地名が残っていたが、ここについては統合された。例えば最初のモデルケース実施となった井草は矢頭町・住吉町・八成町・正保町(+上井草町)を統合している。それ以外も駅名や地名の代表を新地名として採るケースが多く、おおむね素直な移行であったが、周囲の分割例を見るに、統合しなくても良かったのではとも思う。

※広めだった(旧)上高井戸・下高井戸からは北側の井の頭線沿線を分離して「高井戸西」「高井戸東」「浜田山」の3町を新設した。上・下と東・西が混在する不思議な地名だが、駅名から採ったと思えば他よりはマシな名づけだろう。ただし、「高井戸東」は高井戸駅の東ということであり、高井戸地域の東側ではないことに注意されたい。

施行については、区の北側は昭和41年までにスピーディーに進み、ほぼ住居表示を終えたが、そこからはしばらくストップしてしまう。昭和43年7月の梅里・大宮・堀ノ内・松ノ木の住居表示実施でようやく再開した後は進みも早く、昭和44年の3回の実施で残る南側の高井戸・荻窪・久我山の辺りを一斉に変更し、全ての地域で完了した。

「富士フイルム、アンチエイジング化粧品CMに大物2人」

http://www.asahi.com/business/update/0625/TKY200806240369.html

CMがネットで見られるとはよいご時勢になったものです。→http://www.ffhc.jp/products/astalift.html

松田聖子は相当幅広く曲/詩の提供を受けているが、さすがに中島みゆきからの提供はなされていない。実はほとんど接点のない2人だが、ファンということで見ずにはいられない。

それぞれの楽曲は「時代」と「渚のバルコニー」だが、「時代」のCMというとどうしても郵政省の年賀はがきを反射的に思い出すので、どうかなぁとも思ったが......でも他に適当なのがあるかと言われてもなかなかないのでいいのだろう。「毒をんな」とか「夢だったんだね」とか出されても困るしな!

中島みゆきは全体的に声と合わせてラジオDJ風味。ややミスマッチか。あと、このCMの松田聖子がここ最近とは違うシンプルな感じで、前より若返っている気がして怖い。いやすごい。

10. 目黒区

・開始...東が丘一丁目~二丁目・八雲一丁目~五丁目(昭和39年7月1日)

・最終実施...青葉台三丁目~四丁目・大橋一丁目~二丁目・駒場一丁目(追加)(昭和44年1月1日)

・未実施地域...なし

目黒区は郊外の区の中では、割と早い時期に住居表示を完了している。細かい町名が多く残っていた西側の旧・碑衾(ひぶすま)町と、上目黒・中目黒・下目黒と大まかにしか住所が分かれていなかった東側の旧・目黒町に大別されるが、前者は町名整理を行い、後者は新たに町域を新設することで対処した。

昭和39年~41年にかけては主に碑衾町域、42年~44年にかけては目黒町域で実施されていった。柿の木坂・自由が丘・緑が丘・中根といった町はほぼそのまま新町名に受け継がれたが、町域を統合したところはどこもモメたようで、新町名はどれも無味乾燥な名前になってしまった(例:唐ヶ崎町・鷹番町→中央町、宮ヶ丘・富士見台・高木町→南、芳窪町・大原町→東が丘)。それほど旧町の数が多かったとも思えず、わざわざ統合する意義はどれほどあっただろうか。

一致して「衾」を新住所に推した旧・衾町も、当用漢字にないからという理由でむりやりひねった挙句「八雲」になったのもかわいそうだと言える。月光原・宮が丘・清水・富士見台など、沿線の東急バスのバス停はそのまま旧町名を残しているところも多い。

目黒町域については、上目黒・中目黒・下目黒・目黒に再編成され、周縁の部分は新たに町名を起こして分離独立した。特に町域の広かった旧・上目黒は、中心部を除き独立し、大橋・青葉台・東山・五本木・祐天寺の各町が新設されている。三田・駒場についてはそのまま旧町名をほぼ引き継いだ。「三田」は目黒区内でも一、二を争う古い地名だけに、そのまま継承されたのは心強いと言える(港区三田と同名だが、両者は兄弟のような関係になっている)。

11. 大田区

・開始...西糀谷一丁目~四丁目・萩中一丁目~三丁目・本羽田一丁目~三丁目・南蒲田一丁目~三丁目(昭和39年4月1日)

・最終実施...田園調布一丁目~五丁目・田園調布南・田園調布本町(昭和45年9月1日)

・追加最終実施...ふるさとの浜辺公園(平成17年3月1日)

・未実施地域...なし

昭和39年4月スタートと、かなり早い時期から住居表示が施行されたが、区の面積が広いということもあってか、一応の完了までには6年半を要した。大まかには海側から住居表示がスタートし、大森・馬込・蒲田・六郷の順に施行され、最後に池上・目蒲線沿線の雪谷・調布管内の実施をもって終了した。

大森駅~池上駅~蒲田駅の池上通り沿線を除き、さほど細かく町名が分かれていなかったものの、住居表示にあたってはかなりの部分で町名の大胆な統合を行った。特に第二京浜(R1)から東の海側は割と激しく、大森・蒲田を冠する地名が大増殖することになった。そのあおりで、入新井(いりあらい)・新井宿・女塚町・蓮沼・森ヶ崎町といった地名が消滅した。東海道線の西側にも新たに「新蒲田(←小林町・道塚町・御園etc.)」・「西蒲田(←蓮沼・女塚・御園)」を作ったのはやりすぎである。新町名がもめた挙句に決まらずムリヤリ感が漂いすぎる「中央」(←新井宿・市野倉町・桐里町・梅田町・堤方町)も挙げておこう。

第二京浜から西側は、おおよそ旧町名を活かした町名が付けられた。調布嶺町が丁目方式でなく北嶺町・東嶺町・西嶺町に分割されたり、調布大塚町を今の駅名に合わせたもののそのまま1町を新町名として雪谷大塚町を成立させたのが面白い。後期の施行であり、町名整理をする必要性がなくなったのだろうか。

最後に残った田園調布についても、旧来の(旧)田園調布一丁目~七丁目のうち、一丁目を田園調布南、二丁目を田園調布本町と分離させた狙いも不明である。南・本町ともに、沼部駅周辺の一帯にある。ちなみに一般のイメージする田園調布と言ったら三丁目。これ豆知識。特に本町は本来の田園調布というわけでもなく、名物といえば桜坂(福山雅治のアレ)だ。

さて、大田区も埋立地の拡張が激しく、昭和45年以降も住居表示が行われている。昭和30年代から存在した平和島・昭和島は昭和43年4月に早々と住居表示が施行されたが、それ以降も京浜島が昭和50年10月から、城南島と大田市場のある東海が昭和55年1月から順次編入・施行されている。大田区の少なくない面積を占める羽田空港も平成5年7月に羽田空港三丁目が住居表示が実施された。といっても住居は存在しないが......。

最後に施行された「ふるさとの浜辺公園」は、実はこれで一つの住所である。入江・干潟のある都内初の海浜公園(http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/park/furusatonohamabe/index.html)が完成し、「大田区ふるさとの浜辺公園1番1号」の住所が与えられた。公園を一つの町域にするのは珍しいことではなく、大田区では「平和の森公園」(昭和57年2月施行)の前例があり、千代田区日比谷公園、葛飾区水元公園、台東区上野公園など他にも存在する。

12. 世田谷区

・開始...北沢一丁目~五丁目・代沢一丁目~五丁目(昭和39年2月1日)

・最終実施...瀬田一丁目~五丁目・祖師谷一丁目~六丁目・玉川台一丁目~二丁目・千歳台一丁目~六丁目・用賀一丁目~四丁目(昭和46年9月1日)

・未実施地域...なし

世田谷区も町域が広いだけあって、スタートは早いものの終了までは7年半を要した。他の各区と異なる特徴としては、できるだけ旧町名を活かした新町名となったことが挙げられる。ありま細かく町名が分かれていなかったこともあるが、基本的には、現代の道路事情にあわせて隣接する町との町域を調整して住居表示を施行していっている。ただし、(旧)世田谷など、広い町域については町名を分離独立させた。また、砧公園・駒沢公園についても単独町名として新設された。

(旧)下代田町・北沢町の南半分→代沢に統合

(旧)世田谷の大部分→梅丘・豪徳寺・桜・桜丘・宮坂が独立

(旧)上北沢町の東半分→桜上水が独立

(旧)新町の東側・西側→駒沢・桜新町が独立

(旧)玉川用賀町の北半分→上用賀が独立

(旧)祖師谷の北半分→上祖師谷が独立

(旧)烏山町→北烏山・南烏山に分割

旧町名から完全に変更されたのは廻沢(めぐりさわ)町→千歳台のみである。分譲に際してイメージのいい町名に変えようということだったらしいが、これもかつての地名である千歳村から引っ張ってきたもので、珍しく全体的に素直な名づけ方と言える。他の区もこれくらいであったら、さほど問題にはならなかったのだろうが......。

なお、住居表示の実施に際しては、都心よりからスタートし、昭和42年までに環七より都心寄りの部分がおおよそ終了した。昭和43年には玉電沿線の残りの部分も順次住居表示が行われ、44年末の時点では、未実施地域は大井町線沿線の旧玉川村域と、京王線・小田急線沿線の区の西北部がほぼ丸ごと残っていた。ただし、ここからはハイペースで進み、昭和45年3月には奥沢・尾山台・成城・玉川田園調布・等々力、9月には上祖師谷・北烏山・給田・南烏山、11月に粕谷、そして昭和46年5月に宇奈根・大蔵・鎌田・喜多見と一気に外周部を完了させ、最後の昭和46年9月に、タイトルに記した地域の実施をもって全域で住居表示が完了した。

 

7. 墨田区

・開始...押上一丁目~二丁目・堤通一丁目~三丁目・向島一丁目~五丁目(昭和39年7月1日)

・最終実施...立川一丁目~四丁目・千歳一丁目~三丁目(昭和42年7月1日)

・未実施地域...なし

台東区と同じく、ちょうど3年で完了と23区の中でも早い時期に住居表示を完了した。墨田区は、旧東京15区だった本所区と、昭和7年に区に昇格した向島区に大きく分かれるが、本所区側は既に昭和初期にある程度の町名整理を行っており、住居表示の際は旧町名の町域を基本的に活かし、そのまま新町名となったものが多い。

※ただし、原則として「町」「橋」は落とされた。錦糸町→錦糸、業平橋→業平、太平町→太平といった調子である。住居表示では「町」は「まち/ちょう」が紛らわしいという理由があったようで、原則として切り落とされたが、住所としての「錦糸」等の坐りの悪さを考えるに、今から見ると愚行そのもの。

※旧町名を引き継がなかったのは平川橋のみで、業平に統合された。また、厩橋(うまやばし)・竪川(たてかわ)は旧町名が当用漢字にないという理由で、それぞれ本所・立川に変更された。

向島区側は合併前の旧町名を引き継いだ吾嬬町(あづまちょう)・隅田町・寺島町で大まかに町域が分かれているのみであった。向島地域については細かい町名もいくらか存在したが、住居表示に際しては町を分割して新たな町域を作り出した。そのためか、抽象的な由来が多い。特に旧吾嬬町を由来とする八広・文花・京島・立花はいずれもそうである。吾嬬の名はどこも引き継がれなかったが、地元にも色々な思いがあったのかもしれない。

なお、実施順序としては、昭和39年~40年が向島区、昭和41年~42年が本所区側とはっきりと分かれているのが面白い。

8. 江東区

・開始...大島一丁目~九丁目(昭和40年1月1日)

・最終実施...新大橋一丁目~三丁目・高橋・森下一丁目~五丁目(昭和46年4月1日)

・追加最終実施...潮見一丁目・二丁目(昭和63年1月1日)

・未実施地域...青海・有明三丁目~四丁目・新木場四丁目・辰巳三丁目・夢の島・若洲

墨田区と同じく、江東区は旧東京15区の深川区と後から昇格した城東区から成っている。住居表示の実施状況も似通っており、深川区側が昭和初期にある程度町名整理をしていた結果、ほぼそのまま住所表示後の新町名に移行したところ、城東区側が大まかに町域が分かれているのみだったところ、都心から遠い側から住居表示が行われていったところ等はうり二つと言えるだろう。違いと言えば、城東区側は旧町をそのまま活かして新しい住所として分割しなったところと、埋立地の存在、そして住居表示のペースが挙げられる。

江東区の住居表示のペースは割と遅く、昭和42年に入った段階でも、東側の大島・北砂・東砂が完了したのみである。42年には深川区側の木場・東陽に住居表示が行われた。ここのみ、旧町名の整理が行われた(深川洲崎弁天町・深川加崎町・深川平井町・深川豊住町・深川東陽町→東陽、深川木場、深川平久町→木場)が、それ以降は町名の統合はほとんどない。石島・海辺・千田・冬木の各町も、狭い町域ではあるが、そのまま旧町名から新町名に移行した。

そのまま住居表示の波は東側から隅田川方面にじりじりと向かい、昭和45年の清澄・白河・平野・三好、昭和46年の新大橋・高橋・常盤・森下をもって一応の完成を見る。ただしこれで終わりを見たわけではない。

埋立地の区域拡張が目覚ましいこともあって、昭和40年代以降も少しずつ区域が追加されていった。ただし、豊洲・東雲・辰巳(一丁目~二丁目)・有明(一丁目~二丁目)は住居表示の初期に既に実施済ということもあり、町名の数で見ると追加分はさほど多くない。新たな住所追加分のうち、住居表示も実施されたのは昭和53年2月の新木場(一丁目~三丁目)、昭和63年1月の潮見のみである。

それ以外は住居表示がされていない。夢の島は昭和50年3月、新木場四丁目・有明三丁目・四丁目は昭和54年4月、若洲は昭和54年11月、長らく品川区・港区と所属で争っていた青海は編入が遅れて昭和57年2月に編入されたが、いずれも実施されていない(辰  巳三丁目の編入も昭和52~54年頃と思われるが調査中)。

一見するといずれも住居表示が実施されていそうな雰囲気だが、地図をよく見ると番地の付け方が規則的でないことに気づく。例えば東京ビッグサイトのバスターミナルへの道路付近の番地が入り乱れているのもhttp://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/37/32.905&el=139/47/48.354&scl=10000&bid=Mlink、この番地が地番そのものであることの証拠といえる。

他では、辰巳三丁目のこのあたり。

koutou.png

整然と番地がついているようで、よく見ると飛び飛びの番地になっている。実はこれ、ブルーマップ(住居表示の下に隠された地番が分かるすばらしい地図。図書館でどうぞ)を見ると分かるのだが、道路にも番地が設定されている。例えば14番地と16番地の間の道路は15番地となっている。正に「土地に番号を振る」地番方式の住所で、住居表示ではないことが分かるだろう。

実施されていない地域は、いずれも住居があまり存在しないことから、住居表示が施行されていない。丁目だけ定義されて番地は地番で代用しているような状態だが、お台場ももっと開発されて住居が増えれば、いずれ新しい住所となるのだろう。あとは、青海先の埋立地(中央防波堤・処分場)の帰属はどうなるか、というところか。

9. 品川区

・開始...勝島一丁目~二丁目・東大井一丁目~六丁目・南大井一丁目~六丁目(昭和39年1月1日)

・最終実施...大崎一丁目~五丁目・上大崎一丁目~三丁目・北品川一丁目~六丁目・西五反田四丁目~八丁目・西品川二丁目~三丁目・東五反田四丁目・東品川一丁目~四丁目・南品川一丁目~六丁目(昭和42年2月1日)

・追加最終実施...東八潮(昭和58年2月1日)

・未実施地域...なし

品川区は旧大井町の部分のみ町名が細かくひしめいている状態で、それ以外は品川区・荏原区成立時の昔から町ごとに大まかな町域が分かれている状態だった。大井町は旧町名をそれぞれ東大井・南大井・西大井・大井の4つに再編した。旧町名と丁目の対応が割と取れている(例:大井鎧町→大井一丁目、大井出石(いずるいし)町→西大井三丁目、大井浜川町→南大井一丁目etc.)のは面白いが、新町名が適当すぎるのはどうだろうか。よい名前が付けようがなかったのかもしれないが......。

それ以外は旧町名を活かしたが、東戸越・西戸越を戸越としたり、西中延から旗の台を分離新設したり、五反田・東大崎・西大崎・下大崎・大崎本町・北品川(一部)を東五反田・西五反田・大崎に再編したりと、町域の再編は少なくない箇所で行っている。

大崎を名乗る町名はかつては大崎から目黒の一帯まで連綿と続いていたが、中原街道・国道1号から西側は全て西五反田となった。上大崎がほぼそのままの町域で残ったのが奇跡的だ。今地図を見ると、上大崎の町名だけ大崎の駅から遠く離れて浮いたように見えるのが切ない。

ただし、全体としては住居表示はスピーディーに完了した。海側からスタートという法則ではここでも守られ、最初に大井からスタートし、荏原・戸越と東急沿線で進み、最後に五反田・大崎・品川で終了となっている。それ以降は、品川埠頭の一部が品川区に編入(昭和42年8月)、広大な海側の埋立地がまるごと八潮一丁目~四丁目となり(昭和55年2月)、八潮パークタウンの入居開始で八潮五丁目が追加(昭和57年8月)され、お台場のうちの一部が品川区東八潮として編入された(昭和58年2月)のが最後となっている。

※昭和61年11月に埋立地追加により八潮四丁目の町域が拡張されたが、全域公園ということもあり詳細は略

4. 新宿区

・開始...中井一丁目~二丁目・中落合一丁目~四丁目・西落合一丁目~四丁目(昭和40年8月1日)

・最終実施...霞ヶ丘町(平成15年9月29日)

・未実施地域...愛住町・赤城下町・荒木町・市谷砂土原町・市谷左内町・市谷鷹匠町・市谷田町・市谷長延寺町・市谷八幡町・市谷船河原町・市谷薬王寺町・市谷柳町・岩戸町・榎町・改代町・神楽坂・片町・喜久井町・北町・坂町・左門町・三栄町・信濃町・下宮比町・白銀町・須賀町・箪笥町・大京町・築地町・天神町・内藤町・中里町・中町・納戸町・二十騎町・払方町・原町・馬場下町・東榎町・袋町・舟町・弁天町・本塩町・南榎町・南町・南元町・山吹町・矢来町・横寺町・四谷・若葉・若宮町・早稲田鶴巻町・早稲田町・早稲田南町

市谷・牛込・四谷地域では住居表示があまり実施されておらず、かつての町名と区割りがそのまま残っている稀有な地域となっている。四谷も実施されていないのは意外だが、住民の同意が得られなかったということだろう。地図で見ると、四谷の町域が今風の整然と区画されていないのが未実施であることをうかがわせる。

そもそも、新宿区は他の区と比べると住居表示の実施自体がスローペースであったと言える。落合・中井地域を昭和41年に実施した後が続かず、いきなり3年半空いて昭和45年4月からようやく山手線の西側に手をかける。昭和48年1月までに順次、西新宿・北新宿・百人町・新宿の4つに整理され、角筈(つのはず)・柏木・淀橋・十二社(じゅうにそう)の名が姿を消した。

次に手をかけたのは戸山・大久保地域で、昭和50年6月に高田馬場・西早稲田・百人町(四丁目)が、昭和53年に大久保・歌舞伎町・新宿(五丁目~七丁目)が、昭和56年6月に戸山が住居表示によって新たに誕生した。

※もともと西大久保だった地域まで新宿(五丁目~七丁目)を名乗るのはやりすぎだと思うが、なかなかまとまらなかったのかもしれない。東新宿駅はこの地にある地下鉄の駅だが、大江戸線建設時の仮称は「東大久保駅」、副都心線は「新宿七丁目駅」、そして実際は「東新宿駅」というのを見るに、なんともこの辺りの地名の収まりの悪さを感じさせられる。ちなみにバス停「東新宿駅前」の旧名は大久保一丁目(以前は西大久保一丁目)だった。

しかし、町名の整理はここでぱったりと止まる。東大久保や東早稲田という住所を用意していたとも言われるが、ここから先は旧町名単位で実施されるようになった。昭和57年7月の新小川町・東五軒町・若松町を皮切りに、2年ごとに数町というスローペースで進んでいった。しかし、それも平成2年11月の市谷甲良町・市谷山伏町・北山伏町・細工町・二十騎町・南山伏町への実施以来ほとんど停止しており、近年は平成14年4月の市谷台町、平成15年9月の霞ヶ丘町を最後に止まっている。

まだまだ実施完了までは穴だらけということもあってか、新宿区のサイトはさすがに専用のページhttp://www.city.shinjuku.tokyo.jp/division/260100chishin/jyukyohyoji/jyukyohyoji.htmlが設けられている。といってもそっけないページで、今後実施が進むこともあまりなさそうだ。

※霞ヶ丘町は国立競技場・神宮外苑があり、住居は一角に都営住宅があるのみ。旧町名は「霞岳町」(霞ヶ岳町とも)で、表記が変更された。ただし、読み方は「かすみがおかまち」で変更なし

5. 文京区

・開始...春日一丁目~二丁目・小石川一丁目~四丁目・後楽一丁目~二丁目・水道一丁目・西片一丁目~二丁目・白山一丁目~二丁目・向丘一丁目(昭和39年8月1日)

・最終実施...音羽一丁目~二丁目・関口一丁目~三丁目・千石一丁目~四丁目・白山三丁目~五丁目・目白台一丁目~二丁目・弥生一丁目~二丁目(昭和42年1月1日)

・未実施地域...なし

わずか2年半未満で全て終了させてしまった。お隣の新宿区とはえらい違いであるが、特徴ある旧町名は多く存在しただけに、少し惜しい。おおよそ地域もしくは旧町名の代表名を新住所としたが、千石・小石川・目白台・本駒込・向丘あたりは無理してつけた感じがなくもない。

※特に千石は、古来の地名とは全く関連がない。統合の際にまとまらず、中山道の「山=せん」と小石川の「石」を合成した、相当酷い由来の地名である。そこまでして地名整理をする意味があったのかと考えてしまう。

※ちなみに最終実施の「弥生」については昭和40年4月に一旦実施されて誕生したものの、旧町名の向ヶ丘弥生町の全部が組み込まれたわけではなく、一部は根津一丁目に統合されてしまった。そこに待ったをかけて訴訟を起こしたのがサトウハチロー、西川義方(元宮内庁侍医)といったそうそうたる面々で、最終的には区が折れて昭和42年に改めて弥生一丁目・二丁目の町域を拡げ、旧向ヶ丘弥生町のほぼ全域が弥生となった。弥生二丁目の町界が東大浅野キャンパスから言問通りを超えて整然としていないことや、根津一丁目の番地が飛び飛びになっていることがその証左とも言える。http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/42/52.241&el=139/46/01.429&scl=10000&bid=Mlink

6. 台東区

・開始...浅草橋一丁目~五丁目・蔵前一丁目~四丁目・小島一丁目~二丁目・台東一丁目~四丁目・鳥越一丁目~二丁目・三筋一丁目~二丁目・柳橋一丁目~二丁目(昭和39年1月1日)

・最終実施...池之端一丁目~四丁目・上野公園・上野桜木一丁目~二丁目・谷中一丁目~七丁目(昭和42年1月1日)

・未実施地域...なし

文京区ほどではないが、こちらも相当スピーディーに住居表示を完了している。完了までに要した時間はちょうど3年だった。特にどの地域が遅いというのはあまりなく、あっという間に全域で実施されていったが、最後に残ったのは区の北西の谷中側だった。上野桜木のみ、旧町名をほぼ活かした地名になっている(旧:上野桜木町)が、反発があったのだろうか?

※上野・浅草ともに、旧町名は特色ある地名が各所に存在したが、住居表示は上野と浅草の大安売り状態で、浅草は浅草・東浅草・西浅草・元浅草、上野は上野・東上野・北上野が存在する。例えば元浅草は「元」を名乗るが元々の浅草とは関係ない。まるで「四国中央市」「奥州市」みたいな感じだが......。

※松が谷もかなり無理をした合成地名(松山町・松葉町の「松」+浅草松屋と間違われないための「が」+入谷の「谷」と言われる)だし、台東も区名としては良いが、細かい地名としてはどうよと言わざるを得ない。

※秋葉原も謎だ。一角だけ独立させて町名にしたという、台東区では他に見られない形の住居表示だ。旧町名には秋葉原の名はなく、地名の起こりである秋葉神社がこの地にあったわけでもない。よっぽど千代田区外神田のほうがふさわしいだろうが、この部分を千代田区に編入する腹づもりでもあったのだろうか。

ということで、まとめ篇として、ここらで1回住居表示の実施状況についてまとめてみる。

1. 千代田区

・開始...外神田一丁目~六丁目(昭和39年12月1日)

・最終実施...有楽町一丁目~二丁目・紀尾井町(昭和55年1月1日)

・未実施...一番町・神田相生町・神田淡路町・神田和泉町・神田岩本町・神田小川町・神田鍛冶町・神田北乗物町・神田紺屋町・神田佐久間河岸・神田佐久間町・神田神保町・神田須田町・神田駿河台・神田多町・神田司町・神田富山町・神田錦町・神田西福田町・神田練塀町・神田花岡町・神田東紺屋町・神田東松下町・神田平河町・神田松永町・神田美倉町・神田美土代町・麹町・五番町・三番町・二番町・四番町・六番町

神田地域がほぼ丸ごと未実施になっている。そのほか、番町もそうだし、麹町も該当しているのが意外とも言えるが、新宿区の四谷・若葉(こちらも未実施地域)とあわせて、この辺りの反対が根強かったのかもしれない。

大胆に町名整理をしたのは昭和42年1月の東神田三丁目が最後で、三崎町の実施(昭和42年)以降はペースがかなり落ちている。昭和45年1月の大手町・丸の内・一ツ橋、昭和46年7月の平河町・隼町、昭和49年の鍛冶町、昭和50年の有楽町・紀尾井町はほぼ旧町名を踏襲した住居表示になっており、それ以来30年以上追加実施されていない。

2. 中央区

・開始...勝どき一丁目~六丁目、月島一丁目~四丁目、豊海町(昭和40年1月1日)

・終了...日本橋本石町一丁目~四丁目、日本橋室町一丁目~四丁目、日本橋本町一丁目~四丁目(昭和62年1月1日)

・未実施地域はなし。

影響の少なそうな海側から実施していったというのが面白い。南側の旧京橋区の部分は昭和46年までにほぼ終了し、日本橋・八重洲が昭和48年に、京橋・八重洲(三丁目)が昭和53年に実施されて終わったが、対照的に日本橋地区はほとんど進んでいなかった。結局旧町名を可能な限り活かすことにして、昭和51年1月に日本橋小網町・人形町・箱崎町・蠣殻町で実施され、順次進捗して昭和62年に終了した。こうしてみると、唯一日本橋地区で旧町名を活かさなった「東日本橋」が浮いていることこの上ない。

3. 港区

・開始...芝一丁目~芝四丁目・芝浦一丁目~芝浦四丁目(昭和39年7月1日)

・最終実施...東麻布一丁目~三丁目(昭和56年4月1日)

・追加最終実施...台場一丁目~二丁目(平成7年7月1日)

※その後、海岸三丁目に追加実施(平成9年1月)

・未実施地域...麻布永坂町・麻布狸穴町

小さいカケラのように2つの町が未実施で残っているが、住民反対運動の結果ということで割と有名でもある。本当はもっと広い町域があったのだが、住居表示につき削られていった結果、今はわずかに残るのみだ(例えば狸穴のソ連大使館と呼ばれていた今のロシア大使館の住所は麻布台二丁目である)。麻布台三丁目の町域が不自然な形になっていることからも、実施の折は麻布台三丁目の一部になるのだろうが、今のご時勢ではそうなることは多分ないであろう。

港区も全域にわたって歴史のある町名が多数存在したが、多くは消滅した。中央区と同じく海側から実施が進み、次いで新橋・青山・赤坂・六本木と大きく町域がまとめられ、昭和42年の段階で白金・麻布~虎ノ門の地域以外は全て実施済となっていた。

ここからは多少スピードが落ち、昭和44年1月に白金・白金台が、昭和47年1月に芝公園・芝大門・浜松町が実施された後は長らくストップしていたものの、ようやく虎ノ門周辺でも話がまとまったのか、昭和52年9月に芝公園(三丁目・四丁目)・虎ノ門、翌昭和53年1月に愛宕が実施された。そして同53年9月の麻布十番、飛んで56年4月の東麻布の実施を持って最終実施となった※。結構後のほうまで、旧町名のバス停「西久保巴町」が残っていたのもこの影響である(今は虎ノ門三丁目バス停。[渋88](渋谷駅~神谷町駅~新橋駅)が通る)。

※麻布十番・東麻布は昭和37年に既に町名整理を行って新設された地名なので、住居表示のみ遅れて実施されたことになる。ただし麻布十番については(旧)一丁目~三丁目から(新)一丁目~四丁目に再編された。

なお、埋立地の増加により、新たに誕生したお台場が各区で綱引きをした結果、港区寄りの一部が港区に編入されることが決められ、平成7年7月に台場一丁目~二丁目が新たに誕生した。新しい住居表示の実施としてはこれが最後となっている。

おまけで、「地名の読み」の話を。

バス停にも採用されることが多いため、読み仮名の情報は結構重要なのだが、これがまた資料によって結構バラつきが大きくて困ったりする。「町」を「まち」と読むか「ちょう」と読むかから始まって、連濁するかしないか、訓読みか音読みか等資料によってバラつきがあるのが困り者である。足立区古千谷町はこぢやちょう/こちやちょう? 渋谷区上智町はあげちまち/あげちちょう? ......と、資料による差はさまざまなところで出てくる。

といっても、例えば連濁については、江東区大島(おおしま・おおじま)、文京区小日向(こひなた・こびなた)等ゆれがあるような場合、住居表示時に正式な読み仮名を1つに定めたということもあり、どちらが正解かというのはなかなか決められない問題かもしれないが......。

「町」まで含めた23区の昔の町名の読みが分かるような資料は以下の通り。

●最新東京都地図要覧/新東京都地図要覧(国際地学協会)毎年刊行

●国土行政区画総覧(国土地理協会) 1948

→初版の状態のものは都立中央図書館に少なくとも所蔵。

●スタンダード東京都区分地図帖(日本地図株式会社) 毎年刊行

→地図よりも地名・施設一覧のほうが充実しているという不思議なハンディタイプ区分地図帳。

●角川日本地名大辞典 13 東京都(角川書店) 1978

→地名マニアは必携。重いけど......

 

まだまだ資料編。

●東京市町名沿革史 新旧対照地名(東京市、竜渓書舎) 1995

原本は昭和13年に上下巻が刊行されたもので、区名ごとに地名の由来等を解説している。見ておいても損のない本だが、本編は町名の読みも不記載なのでここでは扱わない。その後、昭和49年に明治文献刊行でリメイクされ、さらに平成7年に上記のように復刻された。この復刻版には資料編として一冊独立して住居表示前後の地名の変遷がまとまっており、前回紹介した東京新地図(読売新聞社)と同じ形式で書いてある。

すばらしい......と言いたいところだが、これも満足足りえる資料ではない。「東京新地図の資料をもとに、それ以降の実施分について記述を加え、改訂した」と昭和49年度版にあり、「平成元年(?) までの実施分についても増補」と平成7年版にある。

しかし、昭和49年度の追加の時点で、抜けがあったり、同時期に住居表示された地名が全て一つにまとめられていたりと、資料の質としてはあまり高くない。平成元年版の増補に至っては、欄外に「(地名)は昭和xx年に住居表示」と書いてあるだけ。しかもそれですら抜けがあり、これはひどい

●国土行政区画総覧(国土地理協会) --

上の結果に傷心して図書館をさまよっていたときに偶然見つけた書物。

http://www.kokudo.or.jp/book/sub/souran.pdf

地名・旧町名が完全に1対1で記載されており、さらには読みと住居表示の実施状況まで分かる優れものである。例規集で見られるような加除式(バインダで綴じられていて、必要に応じて差し替えていく形式の本)である。住居表示の実施日付については分からないものの、98%の穴までは埋まったとみて差し支えないだろう。

ただ、この旧住所の欄も不思議なところがあり、書き方からすると明らかに自治省告示を元ネタにしていると思われるのだが、告示と明らかにズレているものが散見される。全体の5%程度だろうか。

例えば、江東区東陽三丁目(昭和42年7月1日実施)

自治省告示...深川東陽町1、深川東陽町2、深川東陽町3、深川平井町1、深川平井町2、深川平井町3

この本...深川東陽町1、深川東陽町2

例えば新宿区の市谷地区の細かい町ごとの住居表示については、住居表示の際に隣接町との町域調整を行っているはずなのだが、「国土行政区画総覧」には旧町名としてその町の名しか示されていない。占める割合がわずかな旧町名に関しては記載しないのかと思っていたが、全体を通じてみるとそうでもないようで、記載されているものについてはしっかり載っている。

逆に、こちらにしか載っていない旧町名もあったりするため、最終的な判断は実際に地図を見て判断するしかなさそうだ。

ということで、クロスチェック用にありがたく使わせてもらうことにする。自治省告示自体が誤植している場合もあるので、こういった複数の参考文献が重要そうだ。

--

ここまで来ると、98%は終了したようなものだが、細かい不明点はいくつか残る。

★住居表示以外の変更。たとえば、近年だと埋立地の編入状況は実はまとまった資料がない。特に江東区は住居表示以外の区域(若洲、青海、有明etc.)の編入を少しずつ行ってきたため、編入状況が不明。

★住居表示に関係ない、昭和30年代の町名整理。渋谷区の幡ヶ谷・本町や、練馬区の小竹町、板橋区の大和町・熊野町といった地名はこのときに整理・新設されているが、細かい日付がよくわからない。

上2点については、各区の区史で触れられている場合もあるので、とりあえず調べてみることにする。江東区の分については江東区報でさかのぼって調べる必要あり。

★同じ町名に対して何回か追加で住居表示を行った場合の実施状況。

住居表示が長い期間にまたがる江戸川区・足立区では何回か見られる。各区の住居表示の案内図を見るしかなさそう。

--

●東京都公報(東京都の告示)

地名の変更については、本当はここまで見る必要があるが、さすがにデジタル化されていないので目録を繰って毎年度のものを見る必要があり、相当時間がかかりそうなので継続課題。

 

ということで、何事も最後までもれなく調べるのは大変というお話。

mixiの日記設定をこっちにしてみた。

反映されている......はず。

(1)の続き

さて、住居表示の歴史を探し当てようと思ったときに、手元にあったのがこれ。

●東京新地図(読売新聞社) 1968

住居表示の頃に、読売新聞に新地名単位で地名にまつわる話や旧名について取り上げたもの。巻末付録に住居表示の施行年月日と、丁目単位で旧町名が表示されるという垂涎もののデータがある。例えばこんな感じ。

外神田一丁目 神田花房町、神田旅籠町2、神田旅籠町3、神田仲町1、神田仲町2の各全部、
神田花田町、神田花岡町、神田佐久間町1、神田相生町の各一部
昭和39年
12月1日
外神田二丁目 神田松住町、神田台所町、神田宮本町の各全部、神田同朋町の各一部
外神田三丁目 神田旅籠町1、神田金沢町、神田末広町の各全部
外神田四丁目 神田田代町、神田松富町、神田山本町の各全部、
神田練塀町、神田花田町、神田相生町の各一部
外神田五丁目 神田栄町、神田元佐久間町、神田亀住町の各全部
外神田六丁目 神田五軒町の全部、神田同朋町の一部

しかし残念ながら、この本が出版されたのは昭和43年。住居表示の実施が速い区では終わりかけだったが、全体で見れば町名変更もまだ道半ばで、これ以降の施行状況については不明である。

(※余談だが、同じように新聞社連載で東京の地名について取り上げたものとして、「東京地名考」(朝日新聞社)、1986がある。東京の地名を色々と見たい人にはどちらもお勧め。住居表示に伴う地名整理について、東京地名考のほうは否定的な観が強く、2つの本が出た時代の差を感じさせられる)

●最新東京都地図要覧/新東京都地図要覧(国際地学協会)

もう一つ手元にあったのがこれ。毎年出版されていたもので、各区・市の一枚ものの地図が綴じ込まれている巨大な上製本(と言えばいいのか)の地図集だ。この分野では人文社の東京都地図地名総覧が有名だろう。図書館の参考図書コーナーやかつての事務所なかには必ず常備されているイメージのやつだ。

家にあったのは昭和44年度版だが、これの巻頭にはオマケとして当時で言うところの近年の住居表示実施や町名変更の実施状況が記載されている。ありがたいのは住居表示に関係しない町名変更についても網羅されていることだろう。

とりあえず都立図書館の23区横断検索(超便利)で調べて、新宿区歴史博物館や大田区の中央図書館で調べてみる。しかし途中から担当者が変わったのか、昭和45年度からの記載の質がいきなり落ちている。

新宿一~四丁目 新宿一丁目、新宿二丁目、新宿三丁目、新宿四丁目、花園町の各全部、
角筈一丁目の一部
昭和48年
1月1日

もうこんなレベルで目も当てられない。しかも後から調べて分かったが、旧町名の記載も間違いが多くなっているため実用にはとても適さない。とりあえず「いつ実施したか」は分かるので、それ用の資料として使うことにする。後で昭和35年度以降の全版が都立中央図書館に所蔵されているためにとりあえず調べにいったが、昭和50年度から先は版型が変わるとともに町名変更一覧のページがなくなっていた。ショック!

●官報 自治省告示

ということで次に探し当てたのはこれ。上の住居表示の書き方には当然ながら典拠があるわけで、原典は官報の告示である。(官報でも同じようなレイアウトの書き方になっている)。住居表示関連は実施された後に必ず告示されるため、これを調べれば一網打尽! しかも官報は昭和22年の過去から電子化されてデータベースになっているから(全文検索は有料サービス。ただし図書館等で利用者に無料提供しているところもあり)、住居表示で検索をかければ楽々!

......そう思っていた時代が俺にもありました(AA略)。

確かにかなりの部分は官報検索で(東京都 and 住居表示、種類を告示に限定)引っかかる。8割以上の穴は埋まったが、どうも昭和46年~52年度あたりの実施状況が全く引っかからない。電子化するときのテキスト入力ミスか(たまにある。「東京都」でひっかからないと思っていたら「京都」になっていたことがあった。なめんな)と思ったが、町名を直接入れても出てこない。そこだけ都合よくデータ化されていないのだろうが、あんまりな仕打ちである。紙版の官報をえんえんとめくって自治省告示の部分だけ抜き出してくることも考えたが、さすがに時間がかかりすぎるので却下。

●住居表示新旧対照図(各区作成)

さらに、施行状況の調査補助として、こんな資料もある。住居表示を施行するたびに、区では旧・新の住所対応を地図で示した図面を発行している。たいていはその区の図書館+都立中央図書館に眠っているので、それを調べればいい。といってもそれぞれの図書館に行くわけではなく、図書館の検索を使えば、それぞれの資料のタイトルに実施日や実施地域が記載されているので、調べるだけで分かる。便利な時代だ。つい2~3年前まで大田区だけネット上での蔵書検索サービスがなかったが、今では全区ともネットからの蔵書検索が可能となっている。

23addr_1.png

▲こんな感じ。

これを元に、各区の住居表示に関する実施状況がかなりの精度で分かる。

●ネット上の資料

区によっては、住居表示の経緯や実施状況を記載しているものもある。たとえば千代田区は実施状況や、これまでの施行日を日付までしっかりと記載しており、23区の中でもかなりクオリティーは高い(http://www.city.chiyoda.lg.jp/service/00011/d0001180.html)。

あとは、東京の23区の地名を扱ったサイトとしては検索で引っかかる有名所としては「東京の地名の由来」(http://www.geocities.jp/pccwm336/index.html)がある。各区の地名ごとに解説文を付けており、住居表示実施日も記載されているなど、見ようによっては一級の資料とも言えるが、参考文献や典拠がほとんど分からないことや(自分のサイトも参考文献をせめてつけようと思った)、データの正確性が不明なこと、おまけで文章が主観的かつ読みづらい上にデータと文章が分離していない等、あくまで補助資料の域を出ない。

まだまだ続く。旧住所の読みの話がそういえばすっ飛んでいたので次に出そうかしら。

blogの過去ログ(2004年5月~2006年3月くらい)をサルベージしてみることにする。その2.

51~100番目の発言。

http://pluto.xii.jp/memo/archives999/old_2.html

どうでもいいことしか書いてないな、といまさらながら思ったが人間そんなに変わらないもので相変わらずどうでもいいことを書いていこうと思います。

 

ここ1ヶ月くらい、23区の地名を専門的に調べるハメになっている。

経緯はと言えば、そもそもここ5年くらいのライフワークで都営バスの停留所の網羅データベースをこつこつと作っているのだが、まずは昔の町名の読みが分からない。「町」ひとつとっても「まち」と「ちょう」が混在している。例えば千代田区の小川町は「おがわまち」で淡路町は「あわじちょう」だ。これらは地下鉄の駅名にもなっているので分かりやすいが、かつては1400近くあった23区の町名一つ一つを把握しておいたほうが何かと便利なためである。

そして、それと同時に、少なくとも戦後の変遷は調べる必要が出てきた。そのまま住所を名乗っている停留所は多いが、東京23区はかの悪名高き? 地番方式の住所からの住居表示によって、旧来の地名がほとんど失われてしまったため、停留所もそれに合わせて多くが変更されたためである。

地番と住居表示については、

・地番・住居表示入門http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/tokyo/chiban.html

・住居表示と地番とは違うものなの? http://uub.jp/arc/arc.cgi?N=459

あたりを参照のこと。

--おまけ本文--

もともと住居表示は、分かりやすい番地表示の方式をとることで、生活する上での利便性を高めるものとして考えられたものだとは思うが、東京ではそれと同時に町名の大整理を同時に行ったために批判が巻き起こることになった。最初に住居表示に伴う地名整理がモデルケースとして行われたのは昭和36年10月31日の荒川区荒川(一丁目~八丁目)で、本格的な実施は、昭和38年2月1日の練馬区桜台(四丁目~六丁目)・練馬(一丁目~四丁目)を皮切りに、多くの地域で実施されていった。昭和40年代前半までが実施のピークで、ここまでで三分の二近くの地域で住居表示が実施された。

(※都市化に伴う住居表示を伴わない地番整理や地名新設はそれ以前から行われていた。例えば渋谷区の幡ヶ谷・初台地区の町名整理や、板橋区の板橋町の町名分割で誕生した大和町・中板橋・大山町・熊野町といった変更は昭和30年代前半から行われている)

例えば、港区赤坂は一丁目~九丁目まであるが、赤坂溜池町・赤坂田町・赤坂榎坂町・赤坂霊南坂町・赤坂溜池町・赤坂新町・赤坂福吉町・赤坂丹後町・赤坂表町・赤坂一ツ木町・赤坂檜町......といった町名が姿を消していった。

他にも、地元の意見対立で抽象的な地名を作ってしまったり(大田区中央、足立区足立...)、旧地名が当用漢字にないという理由で変更されたり(墨田区竪川→立川、墨田区厩橋→本所)、東西南北などに地名をつけただけの無味乾燥な地名にしたり(台東区北上野、大田区新蒲田...)と、初期の住居表示に伴う地名変更はムリヤリなものも結構存在する。

昭和40年代中ごろに差し掛かると、旧来の地名を消し去ることへの抵抗も大きくなり、区ごとに実施率の差か出てきた。台東区・中野区・品川区・文京区のように早々と全域で住居表示を終えた区もあれば、千代田区・新宿区・練馬区・足立区のように実施率がやたらと低い区も存在した。これは、住民が反対している場合に強引に施行するのはなじまないということもあり、また昭和42年の住居表示法改正で従来の町名を尊重する条項が盛り込まれたこともあったためだろう。

その後の自治省通達で、「住民の意思を尊重し、みだりに従来の町の区域を改変したり、町名を全面的に変更することがないよう市町村を指導してほしい」という文が出るに至って、従来の方針は大きく見直されることになる。

昭和40年代後半以降の住居表示の方針は区によって異なる。旧来の細かい地名を生かしつつ住居表示を完了した中央区日本橋地区や板橋区や足立区千住地区、そもそも住居表示をストップさせた千代田区神田地区、できるところから少しずつ旧来の地名のまま住居表示を行う新宿区の市谷・牛込地区、あくまで従来型の地名整理を断行して歯抜けのように反対に遭った地域だけ住居表示未実施のまま残る江戸川区※など、各者各様になっている。現在は、住居表示未実施地域が残るのは千代田区・新宿区・江東区(港湾部のみ)・足立区・江戸川区となっている。

※たとえば江戸川区二之江町http://www.mapion.co.jp/c/f?nl=35/40/45.627&el=139/52/34.737&scl=25000&uc=1&grp=all&coco=35/40/45.627,139/52/34.737&icon=home,,,,,など。整理された街区符号の中で、東京ではあまり見られなくなった4桁の地番がむき出しになっている姿は、ある種異様とも言える。

--

ということで、現在の23区の地名は新しい住居表示の地名と古い地名が混在している。細かい「~町」でも住居表示が実施されているものもあり、正確に追うにはかなり腰を入れて調べないとダメなことに気がついてしまったため、調べるハメになった。

年月日と、どの町が町名変更されたかを調べるだけである。地名は何せ研究している人も多いし、都営バスの資料探しよりは楽なはずだ。しかも東京の地名なんていえば研究者も多いはずで、こんなのは絶対に誰かが資料化しているだろう......と思いきや、なかなか適当なのが見つからない。(続く)

blogの過去ログ(2004年5月~2006年3月くらい)をサルベージしてみることにする。

とりあえず最初の50発言。

http://pluto.xii.jp/memo/archives999/old.html

 

Movable Type4の使い方がいまひとつよくわからないが、とりあえず変えてみるか。

 

久々に再開するか

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pluto.xii.jpにドメインを移してはや1年半、そういえばblogがすっかりご無沙汰になっていたことを思い出したので、心機一転movable type4を入れ込んで復活させてみました。

またくだらないことでも書いていこうと思います。

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