19. 北区
・開始...赤羽北一丁目~三丁目・赤羽台三丁目~四丁目・桐ヶ丘一丁目~二丁目(昭和39年6月15日)
・最終実施...田端一丁目~六丁目・中里一丁目~三丁目・西ヶ原一丁目(追加)(昭和51年5月1日)
・未実施地域...なし
北区は、町の構成をそのまま新町名に移行した地域と、従来の地名を無視して整理統合した地域に大きく分けることができる。多くは前者だが、赤羽駅周辺と国鉄線西側の台地部分のみ大きく変えられ、袋町・赤羽町・稲付の名を冠する各町が赤羽北・赤羽台・赤羽西・赤羽南・西が丘・桐ヶ丘の各町へと町名が変更された。
それ以外は丁目の境もほぼそのまま新町に移行しており、他の区と比べても珍しい。これは、昭和20年代後半から丁目をつけるなどの整備を行っており(滝野川町→滝野川一丁目~七丁目、西ヶ原町→西ヶ原一丁目~四丁目)、住居表示の際も特に変える必然性がなかったからだろう。ただし、戦前から丁目方式で整備した地区(王子・豊島など)は街区方式ではなく、どちらかというと道路方式に近いため、例えば王子では北本通りの両側に一丁目~五丁目が並んでおり、住居表示の際もこのまま維持された。
北区の住居表示は昭和39年から始まり、地域に関係なくハイペースで進み、昭和42年5月の上十条・神谷・志茂・十条仲原への実施で、残すは区の南端にある(旧)田端町・中里町と、赤羽駅の東口付近の岩淵町近辺のみになっていた。しかしここで、住居表示の実施はぱったり止まってしまう。
※滝野川七丁目のみ昭和43年5月に実施された。滝野川一丁目~六丁目に遅れること3年半、なぜここだけ遅れたのかはよく分からない。
岩淵町については、当初は赤羽に全て吸収する予定だったものが、地元の反対により止まった状態になっていたためである。結局住民の訴えが実り、昭和46年7月に赤羽・赤羽南が住居表示で誕生し、岩淵町の西半分は赤羽一丁目・二丁目に吸収されたものの、翌昭和47年2月に残りの部分が岩淵町として住居表示が実施され、町名は残った。
残った田端地域はなぜここまで遅れたのかは不明である。昭和44年5月に、駅東側の田端操車所のほうが東田端として独立した後は長い間塩漬けになっていたが、ようやく昭和51年5月に田端一丁目~六丁目となり、中里町も中里一丁目~二丁目となって、住居表示を全域で完了した。
20. 荒川区
・開始...町屋一丁目~八丁目(昭和38年6月1日)
・最終実施...荒川一丁目~八丁目(昭和43年3月1日)
・未実施地域...なし
荒川区は昭和初期の区成立の時点で町名を整理しており、区内には尾久町・日暮里町・三河島町・町屋・南千住町の5町しか存在しなかった。これをそのまま住居表示すれば良さそうなものだが、そうしなかった。
昭和36年10月に都内初のモデルケースとして、三河島町の大半と町屋の一部を合わせて整理を行い、「荒川」(一丁目~八丁目)とした。区役所があって区の中心だから区の名前をつけた、というだけの安直なもので、三河島の名が難しいというわけでもなく、地名から抹消してしまったという意味では天下の愚行と言うほかない。なお、荒川は正式に住居表示が終了したわけではなく、昭和43年3月の実施をもって正式に終了した。
町名が少ないこともあって住居表示は比較的早期に終了したが、各町の境は大幅に改変され、日暮里町は三河島町の南部を呑み込んで東日暮里・西日暮里に分割した。尾久町は西尾久・東尾久に分割され(納得できるのはこれくらいか)、南千住町はそのまま南千住となったものの、丁目は原型をとどめずに変えられた。
比較的納得感があるのは広かった尾久の分割くらいで、それ以外は住居表示に伴う改変の悪い見本のようにしか見えないのが残念なところである。
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