志村営業所 昭和57年3月

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昭和57年3月29日、閉所直前の志村の一覧。営業所の前の路線はとうの昔に廃止され、営業エリアの離れにある車庫とあっても閉鎖も必然だったのだろう。最盛期は110輌を数えたものの、末期は76輌まで減車されていた。車も路線も近隣の営業所に分散されていった。冷房車は9輌、大型幕車はK代の7輌のみ。前期のため、あの赤黄スズキカラーである。昭和56年7月の入籍だったため、志村の地にいたのはわずか半年だった。

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基本的に、車輌については路線の多くを引き継ぐ北に転出したが、巣鴨も一定数存在し、さらには日産ディーゼルが杉並・葛西に行ったのが興味深い。葛西はこの当時、江東から一定数の日産ディーゼル車を受け入れていたものの、杉並は最初で最後の日産ディーゼルである。

もっとも、直後昭和57年6月にはK代後期の入籍で入れ替えに除籍されてしまい、わずか3ヶ月の命であった。やはり日野でない上に経年車ということもあって杉並営業所のヒエラルキーでは一番下だったのだろうか? 何せ、杉並はこの時点ではワンマン兼用車として導入した昭和44~45年度のV・W代が大量に残っているので、年次を考えるのであれば当然X代より前に除籍されるはずだからだ。もっとも、これらV・W代も昭和57年度のL代導入でほとんどが除籍されるのだが、タイミングとしてはあくまでも志村からのX代除籍が先になっている。

巣鴨に移籍した分は、北1箇所ではそんなに大量に受け入れられないという事情もあったのだろう。北には都合43輌転入したが、このタイミングで最後まで残っていた昭和43年度後期のS代5輌を除籍、滝野川時代からの古参のいすゞ車を巣鴨・新宿などに(たぶん)24両転出させ、差し引き13輌増としている。巣鴨も当然ながらかなりの車輌増となっている(最古参のR・T代7輌を入れ替えで除籍したのみで、転出は見当たらない)。ただし、結局巣鴨に移動した分は昭和58年11月の移動で北に全車移動し、代わりに北から滝野川時代のいすゞ車を引き受けている。

これに加え、昭和62年2~3月の今井~北の交換という3段階の変化を経て、北は日産ディーゼル車に統一されるのだが、それはさておきもう一つ目立つのがX代の除籍である。志村のX代は昭和46年4月入籍なので、11年も持っていないことになる。MOTTAINAI。昭和61年2月まで持った杉並のX代(昭和46年11月入籍、14年3ヶ月)とはえらい違いだ。

 

 

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このページは、plutoが2008年10月31日 01:30に書いたブログ記事です。

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