23区住居表示の実施状況(5)

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そろそろ新刊書かなければ......。

13. 渋谷区

・開始...上原一丁目~三丁目・大原町・神山町・松濤一丁目~二丁目・富ヶ谷一丁目~二丁目(昭和38年7月1日)

・最終実施...鶯谷町・宇田川町・恵比寿西一丁目~二丁目・恵比寿南一丁目~三丁目・神山町・桜丘町・猿楽町・神泉町・神南一丁目~二丁目・代官山町・道玄坂一丁目~二丁目・南平台町・鉢山町・円山町・代々木神園町(昭和45年1月1日)

・未実施地域...なし

のっけから言うと、渋谷区の住居表示実施方針はよく分からない。昭和38年7月と23区の中でも相当早いスタートだが、最初の住居表示から「大原町」「神山町」と、単独町名でそのまま「町」つきで実施したかと思えば、山手線の東側では大胆に町名整理を行っていたりする。

渋谷区は、大まかに町域が分けられていた北側の旧・代々幡町と千駄ヶ谷町の部分と、細かい町名に分かれていた旧・渋谷町に大別される。このうち、区の北側、小田急線・明治神宮から北側の部分については昭和33年~36年にかけて、地番整理とともに町名の整理が行われ、千駄ヶ谷・代々木・笹塚・幡ヶ谷・本町・初台・西原・元代々木町の各町に大きく整理された。(この時までは「代々木」の町名は存在しなかった)

このときは住居表示の実施ではなかったものの、住居表示に際しても隣接の町域と修正を行った程度で、原型は昭和30年代に完成していたことになる。この地域の住居表示は昭和43年1月・44年1月にまとめて行われた。

南側の区域に関しては一部を除き町名変更が激しい。そもそも、渋谷町の区域には、恵比寿通(恵比寿駅から田町行きのバス通り)・八幡通(青山学院脇から並木橋~代官山)・上通(R246旧道の青山~渋谷駅~道玄坂上の部分)・下通(渋谷橋~天現寺橋の間の明治通り)・栄通(ハチ公口から東急本店脇~旧山手通りの部分)など、通りに沿って存在する細長い町域がいくつか存在した。ただし、ブロック単位で町名を付けていった街区表示式の住居表示とは相性が悪いようで、大掛かりに整理された。

※住居表示の方法として、沿道に番号を振る「道路方式」もある。通り沿いに専用の地名を用いる正に上述のような方式で、海外では今でもよく見られる。

まずは昭和35年2月に恵比寿駅の東側が整理され、下通・公会堂通・衆楽町・長谷戸町・山下町などの一部ずつを統合して、恵比寿南・恵比寿西・恵比寿東の各町名が誕生した。ただし昭和40年代の住居表示の際はもう一度再編成され、恵比寿東は新たな住所である「東」「恵比寿」に吸収されて消えてしまった。それ以外にも山手線の東側は整理の度合いが大きく、原宿と穏田は統合時にモメて線路の向かいの神社から借りてきて「神宮前」に、「東」も常盤松と氷川でモメた挙句に方角一文字の住所になってしまった。

それと比べると山手線の西側の部分は細かい町名が残っているが、この地域は最後の住居表示になったところであり、色々と抵抗があったのかもしれない。ただし、ここについても「八幡通」「上通」「大向通」等を吸収して町域調整を行った結果、以前の町域とは色々と異なっている。なお、渋谷駅近辺のみ新たに「道玄坂」「神南」が作られたが、道玄坂一丁目と桜丘町に吸収されて消えてしまった大和田町が少しかわいそうである。

14. 中野区

・開始...江古田一丁目~二丁目・江原町一丁目~三丁目・松が丘一丁目~二丁目(昭和38年10月1日)

・最終実施...中央一丁目~五丁目・本町一丁目~六丁目・南台一丁目~五丁目・弥生町一丁目~六丁目(昭和42年6月1日)

・未実施地域...なし

中野区は旧・中野町と野方町の2町から成り立っているが、他の区と同じように町の密度が旧町によって異なり、北の野方町は町の数が少なく、町域も大まかに分かれているだけの状態だったが、南の中野町は細かい町が数多く存在した。このため、住居表示に際しては、北側は分割して新たに町を起こし、南側は大胆に統合した。実施時期についても、前期の昭和38年~41年は野方町、それ以降は中野町域と綺麗に分かれている。

北側の分離独立した地域としては、(旧)江古田→江古田・江原町・松が丘・丸山、(旧)鷺宮→鷺宮・上鷺宮・白鷺・若宮があるが、それ以外は旧町名をほぼ引き継いでいる。鷺宮については、いずれも鷺宮を由来とする町名にしたのが面白い。

南側は、数ある町名をまとめ、大久保通り・神田川・方南通りで輪切りにして、わずか6つにまとめることとなった。これで町名がまとまるはずもなく、いずれも無難な名前になった。本町通(青梅街道沿いに存在した町名)を継いだ「本町」や駅周辺の「中野」はまだ納得できるが、「中央」(←本町通・小淀町・塔ノ山町・宮前町・仲町・上町・橋場町・宮園通・川添町の各一部)というのはどうだろうか。区の中央にあるわけても区役所があるわけでもない。「南台」は単に区の一番南にある台地だから、「弥生町」は迷ったうえに、弥生時代の遺跡が多く出土したことから何とか名づけた(そういう意味では弥生時代の元ネタとなった文京区弥生とは順番が真逆)。これらの地域はまとめて最後の住居表示実施となったが、北側よりもモメる内容となったためだろう。今では丸の内線の中野富士見町駅が旧住所を主張するのみである。

15. 杉並区

・開始...井草一丁目~五丁目(昭和38年9月1日)

・最終実施...荻窪一丁目~五丁目・松庵一丁目~三丁目・成田東一丁目~五丁目・成田西一丁目~四丁目・西荻南一丁目~四丁目・南荻窪一丁目~四丁目・宮前一丁目~五丁目(昭和44年11月1日)

・未実施地域...なし

杉並区も広い区であるが、どちらかというと早い時期に住居表示が完了した。元からさほど町域は細かく分かれていなかったが、世田谷区とは方針が異なり、そのまま町名を活かして住居表示を行っていくのではなく、町域に関しては分割・統合をかなり激しく行っている。

代表的なところでは旧町で中央線にまたがっているものについては、全て中央線を境に分割された。高円寺→高円寺北・高円寺南、阿佐ヶ谷→阿佐谷北・阿佐谷南、上荻窪→上荻・南荻窪といったあたりが分割例であるが、この分割や新町名への移行の過程で、不思議な名づけがいくつかある。

・西荻窪を分割したら西荻北・西荻南(「窪」はどこに!?)

・阿佐ヶ谷は分割したら阿佐谷北・阿佐谷南(文字数が多いとでも言うのか)

・大宮前は「宮前」に(大宮八幡宮に由来するのに「大」を取ってどうする)

・成宗と西田町と東田町を統合して2分割して「成田東」「成田西」(分割するんだったらそもそも統合する意味が...)

・方南町は例によって「方南」(町を取ると異様に名前の坐りが悪くなる良い見本)

・天沼はちょっと広いからといって分割しようとしたら分離後の名前でモメて北側が「本天沼」(仲良く「北天沼」「南天沼」で良いが、分割する広さにも見えない。特に北側が天沼発祥の地ということもない)

また、旧井草町域についはて比較的細かい地名が残っていたが、ここについては統合された。例えば最初のモデルケース実施となった井草は矢頭町・住吉町・八成町・正保町(+上井草町)を統合している。それ以外も駅名や地名の代表を新地名として採るケースが多く、おおむね素直な移行であったが、周囲の分割例を見るに、統合しなくても良かったのではとも思う。

※広めだった(旧)上高井戸・下高井戸からは北側の井の頭線沿線を分離して「高井戸西」「高井戸東」「浜田山」の3町を新設した。上・下と東・西が混在する不思議な地名だが、駅名から採ったと思えば他よりはマシな名づけだろう。ただし、「高井戸東」は高井戸駅の東ということであり、高井戸地域の東側ではないことに注意されたい。

施行については、区の北側は昭和41年までにスピーディーに進み、ほぼ住居表示を終えたが、そこからはしばらくストップしてしまう。昭和43年7月の梅里・大宮・堀ノ内・松ノ木の住居表示実施でようやく再開した後は進みも早く、昭和44年の3回の実施で残る南側の高井戸・荻窪・久我山の辺りを一斉に変更し、全ての地域で完了した。

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