23区住居表示の実施状況(4)

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10. 目黒区

・開始...東が丘一丁目~二丁目・八雲一丁目~五丁目(昭和39年7月1日)

・最終実施...青葉台三丁目~四丁目・大橋一丁目~二丁目・駒場一丁目(追加)(昭和44年1月1日)

・未実施地域...なし

目黒区は郊外の区の中では、割と早い時期に住居表示を完了している。細かい町名が多く残っていた西側の旧・碑衾(ひぶすま)町と、上目黒・中目黒・下目黒と大まかにしか住所が分かれていなかった東側の旧・目黒町に大別されるが、前者は町名整理を行い、後者は新たに町域を新設することで対処した。

昭和39年~41年にかけては主に碑衾町域、42年~44年にかけては目黒町域で実施されていった。柿の木坂・自由が丘・緑が丘・中根といった町はほぼそのまま新町名に受け継がれたが、町域を統合したところはどこもモメたようで、新町名はどれも無味乾燥な名前になってしまった(例:唐ヶ崎町・鷹番町→中央町、宮ヶ丘・富士見台・高木町→南、芳窪町・大原町→東が丘)。それほど旧町の数が多かったとも思えず、わざわざ統合する意義はどれほどあっただろうか。

一致して「衾」を新住所に推した旧・衾町も、当用漢字にないからという理由でむりやりひねった挙句「八雲」になったのもかわいそうだと言える。月光原・宮が丘・清水・富士見台など、沿線の東急バスのバス停はそのまま旧町名を残しているところも多い。

目黒町域については、上目黒・中目黒・下目黒・目黒に再編成され、周縁の部分は新たに町名を起こして分離独立した。特に町域の広かった旧・上目黒は、中心部を除き独立し、大橋・青葉台・東山・五本木・祐天寺の各町が新設されている。三田・駒場についてはそのまま旧町名をほぼ引き継いだ。「三田」は目黒区内でも一、二を争う古い地名だけに、そのまま継承されたのは心強いと言える(港区三田と同名だが、両者は兄弟のような関係になっている)。

11. 大田区

・開始...西糀谷一丁目~四丁目・萩中一丁目~三丁目・本羽田一丁目~三丁目・南蒲田一丁目~三丁目(昭和39年4月1日)

・最終実施...田園調布一丁目~五丁目・田園調布南・田園調布本町(昭和45年9月1日)

・追加最終実施...ふるさとの浜辺公園(平成17年3月1日)

・未実施地域...なし

昭和39年4月スタートと、かなり早い時期から住居表示が施行されたが、区の面積が広いということもあってか、一応の完了までには6年半を要した。大まかには海側から住居表示がスタートし、大森・馬込・蒲田・六郷の順に施行され、最後に池上・目蒲線沿線の雪谷・調布管内の実施をもって終了した。

大森駅~池上駅~蒲田駅の池上通り沿線を除き、さほど細かく町名が分かれていなかったものの、住居表示にあたってはかなりの部分で町名の大胆な統合を行った。特に第二京浜(R1)から東の海側は割と激しく、大森・蒲田を冠する地名が大増殖することになった。そのあおりで、入新井(いりあらい)・新井宿・女塚町・蓮沼・森ヶ崎町といった地名が消滅した。東海道線の西側にも新たに「新蒲田(←小林町・道塚町・御園etc.)」・「西蒲田(←蓮沼・女塚・御園)」を作ったのはやりすぎである。新町名がもめた挙句に決まらずムリヤリ感が漂いすぎる「中央」(←新井宿・市野倉町・桐里町・梅田町・堤方町)も挙げておこう。

第二京浜から西側は、おおよそ旧町名を活かした町名が付けられた。調布嶺町が丁目方式でなく北嶺町・東嶺町・西嶺町に分割されたり、調布大塚町を今の駅名に合わせたもののそのまま1町を新町名として雪谷大塚町を成立させたのが面白い。後期の施行であり、町名整理をする必要性がなくなったのだろうか。

最後に残った田園調布についても、旧来の(旧)田園調布一丁目~七丁目のうち、一丁目を田園調布南、二丁目を田園調布本町と分離させた狙いも不明である。南・本町ともに、沼部駅周辺の一帯にある。ちなみに一般のイメージする田園調布と言ったら三丁目。これ豆知識。特に本町は本来の田園調布というわけでもなく、名物といえば桜坂(福山雅治のアレ)だ。

さて、大田区も埋立地の拡張が激しく、昭和45年以降も住居表示が行われている。昭和30年代から存在した平和島・昭和島は昭和43年4月に早々と住居表示が施行されたが、それ以降も京浜島が昭和50年10月から、城南島と大田市場のある東海が昭和55年1月から順次編入・施行されている。大田区の少なくない面積を占める羽田空港も平成5年7月に羽田空港三丁目が住居表示が実施された。といっても住居は存在しないが......。

最後に施行された「ふるさとの浜辺公園」は、実はこれで一つの住所である。入江・干潟のある都内初の海浜公園(http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/park/furusatonohamabe/index.html)が完成し、「大田区ふるさとの浜辺公園1番1号」の住所が与えられた。公園を一つの町域にするのは珍しいことではなく、大田区では「平和の森公園」(昭和57年2月施行)の前例があり、千代田区日比谷公園、葛飾区水元公園、台東区上野公園など他にも存在する。

12. 世田谷区

・開始...北沢一丁目~五丁目・代沢一丁目~五丁目(昭和39年2月1日)

・最終実施...瀬田一丁目~五丁目・祖師谷一丁目~六丁目・玉川台一丁目~二丁目・千歳台一丁目~六丁目・用賀一丁目~四丁目(昭和46年9月1日)

・未実施地域...なし

世田谷区も町域が広いだけあって、スタートは早いものの終了までは7年半を要した。他の各区と異なる特徴としては、できるだけ旧町名を活かした新町名となったことが挙げられる。ありま細かく町名が分かれていなかったこともあるが、基本的には、現代の道路事情にあわせて隣接する町との町域を調整して住居表示を施行していっている。ただし、(旧)世田谷など、広い町域については町名を分離独立させた。また、砧公園・駒沢公園についても単独町名として新設された。

(旧)下代田町・北沢町の南半分→代沢に統合

(旧)世田谷の大部分→梅丘・豪徳寺・桜・桜丘・宮坂が独立

(旧)上北沢町の東半分→桜上水が独立

(旧)新町の東側・西側→駒沢・桜新町が独立

(旧)玉川用賀町の北半分→上用賀が独立

(旧)祖師谷の北半分→上祖師谷が独立

(旧)烏山町→北烏山・南烏山に分割

旧町名から完全に変更されたのは廻沢(めぐりさわ)町→千歳台のみである。分譲に際してイメージのいい町名に変えようということだったらしいが、これもかつての地名である千歳村から引っ張ってきたもので、珍しく全体的に素直な名づけ方と言える。他の区もこれくらいであったら、さほど問題にはならなかったのだろうが......。

なお、住居表示の実施に際しては、都心よりからスタートし、昭和42年までに環七より都心寄りの部分がおおよそ終了した。昭和43年には玉電沿線の残りの部分も順次住居表示が行われ、44年末の時点では、未実施地域は大井町線沿線の旧玉川村域と、京王線・小田急線沿線の区の西北部がほぼ丸ごと残っていた。ただし、ここからはハイペースで進み、昭和45年3月には奥沢・尾山台・成城・玉川田園調布・等々力、9月には上祖師谷・北烏山・給田・南烏山、11月に粕谷、そして昭和46年5月に宇奈根・大蔵・鎌田・喜多見と一気に外周部を完了させ、最後の昭和46年9月に、タイトルに記した地域の実施をもって全域で住居表示が完了した。

 

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