7. 墨田区
・開始...押上一丁目~二丁目・堤通一丁目~三丁目・向島一丁目~五丁目(昭和39年7月1日)
・最終実施...立川一丁目~四丁目・千歳一丁目~三丁目(昭和42年7月1日)
・未実施地域...なし
台東区と同じく、ちょうど3年で完了と23区の中でも早い時期に住居表示を完了した。墨田区は、旧東京15区だった本所区と、昭和7年に区に昇格した向島区に大きく分かれるが、本所区側は既に昭和初期にある程度の町名整理を行っており、住居表示の際は旧町名の町域を基本的に活かし、そのまま新町名となったものが多い。
※ただし、原則として「町」「橋」は落とされた。錦糸町→錦糸、業平橋→業平、太平町→太平といった調子である。住居表示では「町」は「まち/ちょう」が紛らわしいという理由があったようで、原則として切り落とされたが、住所としての「錦糸」等の坐りの悪さを考えるに、今から見ると愚行そのもの。
※旧町名を引き継がなかったのは平川橋のみで、業平に統合された。また、厩橋(うまやばし)・竪川(たてかわ)は旧町名が当用漢字にないという理由で、それぞれ本所・立川に変更された。
向島区側は合併前の旧町名を引き継いだ吾嬬町(あづまちょう)・隅田町・寺島町で大まかに町域が分かれているのみであった。向島地域については細かい町名もいくらか存在したが、住居表示に際しては町を分割して新たな町域を作り出した。そのためか、抽象的な由来が多い。特に旧吾嬬町を由来とする八広・文花・京島・立花はいずれもそうである。吾嬬の名はどこも引き継がれなかったが、地元にも色々な思いがあったのかもしれない。
なお、実施順序としては、昭和39年~40年が向島区、昭和41年~42年が本所区側とはっきりと分かれているのが面白い。
8. 江東区
・開始...大島一丁目~九丁目(昭和40年1月1日)
・最終実施...新大橋一丁目~三丁目・高橋・森下一丁目~五丁目(昭和46年4月1日)
・追加最終実施...潮見一丁目・二丁目(昭和63年1月1日)
・未実施地域...青海・有明三丁目~四丁目・新木場四丁目・辰巳三丁目・夢の島・若洲
墨田区と同じく、江東区は旧東京15区の深川区と後から昇格した城東区から成っている。住居表示の実施状況も似通っており、深川区側が昭和初期にある程度町名整理をしていた結果、ほぼそのまま住所表示後の新町名に移行したところ、城東区側が大まかに町域が分かれているのみだったところ、都心から遠い側から住居表示が行われていったところ等はうり二つと言えるだろう。違いと言えば、城東区側は旧町をそのまま活かして新しい住所として分割しなったところと、埋立地の存在、そして住居表示のペースが挙げられる。
江東区の住居表示のペースは割と遅く、昭和42年に入った段階でも、東側の大島・北砂・東砂が完了したのみである。42年には深川区側の木場・東陽に住居表示が行われた。ここのみ、旧町名の整理が行われた(深川洲崎弁天町・深川加崎町・深川平井町・深川豊住町・深川東陽町→東陽、深川木場、深川平久町→木場)が、それ以降は町名の統合はほとんどない。石島・海辺・千田・冬木の各町も、狭い町域ではあるが、そのまま旧町名から新町名に移行した。
そのまま住居表示の波は東側から隅田川方面にじりじりと向かい、昭和45年の清澄・白河・平野・三好、昭和46年の新大橋・高橋・常盤・森下をもって一応の完成を見る。ただしこれで終わりを見たわけではない。
埋立地の区域拡張が目覚ましいこともあって、昭和40年代以降も少しずつ区域が追加されていった。ただし、豊洲・東雲・辰巳(一丁目~二丁目)・有明(一丁目~二丁目)は住居表示の初期に既に実施済ということもあり、町名の数で見ると追加分はさほど多くない。新たな住所追加分のうち、住居表示も実施されたのは昭和53年2月の新木場(一丁目~三丁目)、昭和63年1月の潮見のみである。
それ以外は住居表示がされていない。夢の島は昭和50年3月、新木場四丁目・有明三丁目・四丁目は昭和54年4月、若洲は昭和54年11月、長らく品川区・港区と所属で争っていた青海は編入が遅れて昭和57年2月に編入されたが、いずれも実施されていない(辰 巳三丁目の編入も昭和52~54年頃と思われるが調査中)。
一見するといずれも住居表示が実施されていそうな雰囲気だが、地図をよく見ると番地の付け方が規則的でないことに気づく。例えば東京ビッグサイトのバスターミナルへの道路付近の番地が入り乱れているのもhttp://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/37/32.905&el=139/47/48.354&scl=10000&bid=Mlink、この番地が地番そのものであることの証拠といえる。
他では、辰巳三丁目のこのあたり。
整然と番地がついているようで、よく見ると飛び飛びの番地になっている。実はこれ、ブルーマップ(住居表示の下に隠された地番が分かるすばらしい地図。図書館でどうぞ)を見ると分かるのだが、道路にも番地が設定されている。例えば14番地と16番地の間の道路は15番地となっている。正に「土地に番号を振る」地番方式の住所で、住居表示ではないことが分かるだろう。
実施されていない地域は、いずれも住居があまり存在しないことから、住居表示が施行されていない。丁目だけ定義されて番地は地番で代用しているような状態だが、お台場ももっと開発されて住居が増えれば、いずれ新しい住所となるのだろう。あとは、青海先の埋立地(中央防波堤・処分場)の帰属はどうなるか、というところか。
9. 品川区
・開始...勝島一丁目~二丁目・東大井一丁目~六丁目・南大井一丁目~六丁目(昭和39年1月1日)
・最終実施...大崎一丁目~五丁目・上大崎一丁目~三丁目・北品川一丁目~六丁目・西五反田四丁目~八丁目・西品川二丁目~三丁目・東五反田四丁目・東品川一丁目~四丁目・南品川一丁目~六丁目(昭和42年2月1日)
・追加最終実施...東八潮(昭和58年2月1日)
・未実施地域...なし
品川区は旧大井町の部分のみ町名が細かくひしめいている状態で、それ以外は品川区・荏原区成立時の昔から町ごとに大まかな町域が分かれている状態だった。大井町は旧町名をそれぞれ東大井・南大井・西大井・大井の4つに再編した。旧町名と丁目の対応が割と取れている(例:大井鎧町→大井一丁目、大井出石(いずるいし)町→西大井三丁目、大井浜川町→南大井一丁目etc.)のは面白いが、新町名が適当すぎるのはどうだろうか。よい名前が付けようがなかったのかもしれないが......。
それ以外は旧町名を活かしたが、東戸越・西戸越を戸越としたり、西中延から旗の台を分離新設したり、五反田・東大崎・西大崎・下大崎・大崎本町・北品川(一部)を東五反田・西五反田・大崎に再編したりと、町域の再編は少なくない箇所で行っている。
大崎を名乗る町名はかつては大崎から目黒の一帯まで連綿と続いていたが、中原街道・国道1号から西側は全て西五反田となった。上大崎がほぼそのままの町域で残ったのが奇跡的だ。今地図を見ると、上大崎の町名だけ大崎の駅から遠く離れて浮いたように見えるのが切ない。
ただし、全体としては住居表示はスピーディーに完了した。海側からスタートという法則ではここでも守られ、最初に大井からスタートし、荏原・戸越と東急沿線で進み、最後に五反田・大崎・品川で終了となっている。それ以降は、品川埠頭の一部が品川区に編入(昭和42年8月)、広大な海側の埋立地がまるごと八潮一丁目~四丁目となり(昭和55年2月)、八潮パークタウンの入居開始で八潮五丁目が追加(昭和57年8月)され、お台場のうちの一部が品川区東八潮として編入された(昭和58年2月)のが最後となっている。
※昭和61年11月に埋立地追加により八潮四丁目の町域が拡張されたが、全域公園ということもあり詳細は略
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