23区住居表示の実施状況(2)

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4. 新宿区

・開始...中井一丁目~二丁目・中落合一丁目~四丁目・西落合一丁目~四丁目(昭和40年8月1日)

・最終実施...霞ヶ丘町(平成15年9月29日)

・未実施地域...愛住町・赤城下町・荒木町・市谷砂土原町・市谷左内町・市谷鷹匠町・市谷田町・市谷長延寺町・市谷八幡町・市谷船河原町・市谷薬王寺町・市谷柳町・岩戸町・榎町・改代町・神楽坂・片町・喜久井町・北町・坂町・左門町・三栄町・信濃町・下宮比町・白銀町・須賀町・箪笥町・大京町・築地町・天神町・内藤町・中里町・中町・納戸町・二十騎町・払方町・原町・馬場下町・東榎町・袋町・舟町・弁天町・本塩町・南榎町・南町・南元町・山吹町・矢来町・横寺町・四谷・若葉・若宮町・早稲田鶴巻町・早稲田町・早稲田南町

市谷・牛込・四谷地域では住居表示があまり実施されておらず、かつての町名と区割りがそのまま残っている稀有な地域となっている。四谷も実施されていないのは意外だが、住民の同意が得られなかったということだろう。地図で見ると、四谷の町域が今風の整然と区画されていないのが未実施であることをうかがわせる。

そもそも、新宿区は他の区と比べると住居表示の実施自体がスローペースであったと言える。落合・中井地域を昭和41年に実施した後が続かず、いきなり3年半空いて昭和45年4月からようやく山手線の西側に手をかける。昭和48年1月までに順次、西新宿・北新宿・百人町・新宿の4つに整理され、角筈(つのはず)・柏木・淀橋・十二社(じゅうにそう)の名が姿を消した。

次に手をかけたのは戸山・大久保地域で、昭和50年6月に高田馬場・西早稲田・百人町(四丁目)が、昭和53年に大久保・歌舞伎町・新宿(五丁目~七丁目)が、昭和56年6月に戸山が住居表示によって新たに誕生した。

※もともと西大久保だった地域まで新宿(五丁目~七丁目)を名乗るのはやりすぎだと思うが、なかなかまとまらなかったのかもしれない。東新宿駅はこの地にある地下鉄の駅だが、大江戸線建設時の仮称は「東大久保駅」、副都心線は「新宿七丁目駅」、そして実際は「東新宿駅」というのを見るに、なんともこの辺りの地名の収まりの悪さを感じさせられる。ちなみにバス停「東新宿駅前」の旧名は大久保一丁目(以前は西大久保一丁目)だった。

しかし、町名の整理はここでぱったりと止まる。東大久保や東早稲田という住所を用意していたとも言われるが、ここから先は旧町名単位で実施されるようになった。昭和57年7月の新小川町・東五軒町・若松町を皮切りに、2年ごとに数町というスローペースで進んでいった。しかし、それも平成2年11月の市谷甲良町・市谷山伏町・北山伏町・細工町・二十騎町・南山伏町への実施以来ほとんど停止しており、近年は平成14年4月の市谷台町、平成15年9月の霞ヶ丘町を最後に止まっている。

まだまだ実施完了までは穴だらけということもあってか、新宿区のサイトはさすがに専用のページhttp://www.city.shinjuku.tokyo.jp/division/260100chishin/jyukyohyoji/jyukyohyoji.htmlが設けられている。といってもそっけないページで、今後実施が進むこともあまりなさそうだ。

※霞ヶ丘町は国立競技場・神宮外苑があり、住居は一角に都営住宅があるのみ。旧町名は「霞岳町」(霞ヶ岳町とも)で、表記が変更された。ただし、読み方は「かすみがおかまち」で変更なし

5. 文京区

・開始...春日一丁目~二丁目・小石川一丁目~四丁目・後楽一丁目~二丁目・水道一丁目・西片一丁目~二丁目・白山一丁目~二丁目・向丘一丁目(昭和39年8月1日)

・最終実施...音羽一丁目~二丁目・関口一丁目~三丁目・千石一丁目~四丁目・白山三丁目~五丁目・目白台一丁目~二丁目・弥生一丁目~二丁目(昭和42年1月1日)

・未実施地域...なし

わずか2年半未満で全て終了させてしまった。お隣の新宿区とはえらい違いであるが、特徴ある旧町名は多く存在しただけに、少し惜しい。おおよそ地域もしくは旧町名の代表名を新住所としたが、千石・小石川・目白台・本駒込・向丘あたりは無理してつけた感じがなくもない。

※特に千石は、古来の地名とは全く関連がない。統合の際にまとまらず、中山道の「山=せん」と小石川の「石」を合成した、相当酷い由来の地名である。そこまでして地名整理をする意味があったのかと考えてしまう。

※ちなみに最終実施の「弥生」については昭和40年4月に一旦実施されて誕生したものの、旧町名の向ヶ丘弥生町の全部が組み込まれたわけではなく、一部は根津一丁目に統合されてしまった。そこに待ったをかけて訴訟を起こしたのがサトウハチロー、西川義方(元宮内庁侍医)といったそうそうたる面々で、最終的には区が折れて昭和42年に改めて弥生一丁目・二丁目の町域を拡げ、旧向ヶ丘弥生町のほぼ全域が弥生となった。弥生二丁目の町界が東大浅野キャンパスから言問通りを超えて整然としていないことや、根津一丁目の番地が飛び飛びになっていることがその証左とも言える。http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/42/52.241&el=139/46/01.429&scl=10000&bid=Mlink

6. 台東区

・開始...浅草橋一丁目~五丁目・蔵前一丁目~四丁目・小島一丁目~二丁目・台東一丁目~四丁目・鳥越一丁目~二丁目・三筋一丁目~二丁目・柳橋一丁目~二丁目(昭和39年1月1日)

・最終実施...池之端一丁目~四丁目・上野公園・上野桜木一丁目~二丁目・谷中一丁目~七丁目(昭和42年1月1日)

・未実施地域...なし

文京区ほどではないが、こちらも相当スピーディーに住居表示を完了している。完了までに要した時間はちょうど3年だった。特にどの地域が遅いというのはあまりなく、あっという間に全域で実施されていったが、最後に残ったのは区の北西の谷中側だった。上野桜木のみ、旧町名をほぼ活かした地名になっている(旧:上野桜木町)が、反発があったのだろうか?

※上野・浅草ともに、旧町名は特色ある地名が各所に存在したが、住居表示は上野と浅草の大安売り状態で、浅草は浅草・東浅草・西浅草・元浅草、上野は上野・東上野・北上野が存在する。例えば元浅草は「元」を名乗るが元々の浅草とは関係ない。まるで「四国中央市」「奥州市」みたいな感じだが......。

※松が谷もかなり無理をした合成地名(松山町・松葉町の「松」+浅草松屋と間違われないための「が」+入谷の「谷」と言われる)だし、台東も区名としては良いが、細かい地名としてはどうよと言わざるを得ない。

※秋葉原も謎だ。一角だけ独立させて町名にしたという、台東区では他に見られない形の住居表示だ。旧町名には秋葉原の名はなく、地名の起こりである秋葉神社がこの地にあったわけでもない。よっぽど千代田区外神田のほうがふさわしいだろうが、この部分を千代田区に編入する腹づもりでもあったのだろうか。

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