23区住居表示の実施状況(1)

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ということで、まとめ篇として、ここらで1回住居表示の実施状況についてまとめてみる。

1. 千代田区

・開始...外神田一丁目~六丁目(昭和39年12月1日)

・最終実施...有楽町一丁目~二丁目・紀尾井町(昭和55年1月1日)

・未実施...一番町・神田相生町・神田淡路町・神田和泉町・神田岩本町・神田小川町・神田鍛冶町・神田北乗物町・神田紺屋町・神田佐久間河岸・神田佐久間町・神田神保町・神田須田町・神田駿河台・神田多町・神田司町・神田富山町・神田錦町・神田西福田町・神田練塀町・神田花岡町・神田東紺屋町・神田東松下町・神田平河町・神田松永町・神田美倉町・神田美土代町・麹町・五番町・三番町・二番町・四番町・六番町

神田地域がほぼ丸ごと未実施になっている。そのほか、番町もそうだし、麹町も該当しているのが意外とも言えるが、新宿区の四谷・若葉(こちらも未実施地域)とあわせて、この辺りの反対が根強かったのかもしれない。

大胆に町名整理をしたのは昭和42年1月の東神田三丁目が最後で、三崎町の実施(昭和42年)以降はペースがかなり落ちている。昭和45年1月の大手町・丸の内・一ツ橋、昭和46年7月の平河町・隼町、昭和49年の鍛冶町、昭和50年の有楽町・紀尾井町はほぼ旧町名を踏襲した住居表示になっており、それ以来30年以上追加実施されていない。

2. 中央区

・開始...勝どき一丁目~六丁目、月島一丁目~四丁目、豊海町(昭和40年1月1日)

・終了...日本橋本石町一丁目~四丁目、日本橋室町一丁目~四丁目、日本橋本町一丁目~四丁目(昭和62年1月1日)

・未実施地域はなし。

影響の少なそうな海側から実施していったというのが面白い。南側の旧京橋区の部分は昭和46年までにほぼ終了し、日本橋・八重洲が昭和48年に、京橋・八重洲(三丁目)が昭和53年に実施されて終わったが、対照的に日本橋地区はほとんど進んでいなかった。結局旧町名を可能な限り活かすことにして、昭和51年1月に日本橋小網町・人形町・箱崎町・蠣殻町で実施され、順次進捗して昭和62年に終了した。こうしてみると、唯一日本橋地区で旧町名を活かさなった「東日本橋」が浮いていることこの上ない。

3. 港区

・開始...芝一丁目~芝四丁目・芝浦一丁目~芝浦四丁目(昭和39年7月1日)

・最終実施...東麻布一丁目~三丁目(昭和56年4月1日)

・追加最終実施...台場一丁目~二丁目(平成7年7月1日)

※その後、海岸三丁目に追加実施(平成9年1月)

・未実施地域...麻布永坂町・麻布狸穴町

小さいカケラのように2つの町が未実施で残っているが、住民反対運動の結果ということで割と有名でもある。本当はもっと広い町域があったのだが、住居表示につき削られていった結果、今はわずかに残るのみだ(例えば狸穴のソ連大使館と呼ばれていた今のロシア大使館の住所は麻布台二丁目である)。麻布台三丁目の町域が不自然な形になっていることからも、実施の折は麻布台三丁目の一部になるのだろうが、今のご時勢ではそうなることは多分ないであろう。

港区も全域にわたって歴史のある町名が多数存在したが、多くは消滅した。中央区と同じく海側から実施が進み、次いで新橋・青山・赤坂・六本木と大きく町域がまとめられ、昭和42年の段階で白金・麻布~虎ノ門の地域以外は全て実施済となっていた。

ここからは多少スピードが落ち、昭和44年1月に白金・白金台が、昭和47年1月に芝公園・芝大門・浜松町が実施された後は長らくストップしていたものの、ようやく虎ノ門周辺でも話がまとまったのか、昭和52年9月に芝公園(三丁目・四丁目)・虎ノ門、翌昭和53年1月に愛宕が実施された。そして同53年9月の麻布十番、飛んで56年4月の東麻布の実施を持って最終実施となった※。結構後のほうまで、旧町名のバス停「西久保巴町」が残っていたのもこの影響である(今は虎ノ門三丁目バス停。[渋88](渋谷駅~神谷町駅~新橋駅)が通る)。

※麻布十番・東麻布は昭和37年に既に町名整理を行って新設された地名なので、住居表示のみ遅れて実施されたことになる。ただし麻布十番については(旧)一丁目~三丁目から(新)一丁目~四丁目に再編された。

なお、埋立地の増加により、新たに誕生したお台場が各区で綱引きをした結果、港区寄りの一部が港区に編入されることが決められ、平成7年7月に台場一丁目~二丁目が新たに誕生した。新しい住居表示の実施としてはこれが最後となっている。

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