梅70の短縮(昭和59年3月)

撮影=naganoさん

 昭和59年の春、都営バスが都心部で初の都市新バス・[都01]の誕生に沸いていたとき、青梅地域でも大きな動きが起こった。[梅70]の短縮である。[梅70]([301]系統)は昭和24年8月に多摩地域の振興を目的として、荻窪〜青梅(現・青梅車庫)間が開通した。路線で言えばひたすら車庫近辺を除き青梅街道筋を忠実になぞる路線であり、鉄道の不便であった武蔵村山などでは重要な交通機関だったようだ。開業と同時に青梅支所も開設され、[梅70]の運行にあたった。

 開設当初は荻窪駅止まりだった路線も昭和35年に杉並区役所を経由して阿佐ヶ谷駅まで延長された。開通当初は停留所間隔もおおむね1km〜1.5kmはあり、また民営バスとの兼ね合いで荻窪駅を出ると関町二丁目まで4km強無停車というのもあったりしたが、沿線の宅地化とともに停留所増設も盛んに行われ、昭和30年代はじめには1,200人程度だった乗車人員も昭和40年代には3,500人程度まで伸びてきた。しかし収支は当時からかなり悪く、昭和50年代も収支係数は200弱で安定? していた(昭和55年度は運賃改定の都合で都バス全体の収支が悪化したため257という記録を打ち立てた)。

 しかし収支が悪いからといっても沿線自治体のためにこの系統は必要であるとのことで、[立73]と時を同じくして、昭和59年度より沿線自治体の赤字額の公共負担を行って存続を図ることになった。このときに[梅70]関係でこの負担に関する締結が行われた市町は青梅市・瑞穂町・武蔵村山市・東大和市・小平市・田無市の6つ。そう、[梅70]の沿線であっても保谷市や東京23区は入っていなかったのである。結局、田無市と保谷市の境である田無本町二丁目まで路線を残すこととし、昭和58年度、すなわち昭和59年3月31日の運行をもって、そこから阿佐ヶ谷駅までは廃止されることになった。関東バスの並行路線も多数走っており、必要度が低いと判断された結果だろう。


短縮1年前の昭和58年4月に阿佐ヶ谷駅で撮ったもの。昭和46年度導入のX620である。このX代車はそれまでお下がりばかりだった青梅支所初の新車で、X600〜X620の21両が一気に配置されて旧世代の車を置き換えた。しかし登場から12年が経ち、他の営業所では最古参となるような世代でありながら青梅では最新の車、というアンバランスな状態であった。


阿佐ヶ谷駅のターミナルにて別の角度から。


側面幕。割とまんべんなく経由地を記載している。ちなみに「田無」は省略表記だが、「青梅」は正式停留所名である。小型幕時代は、これ以外に「青梅−大和(操)」「大和(操)−阿佐ヶ谷駅」「青梅−小平駅」「東大和市駅−箱根ヶ崎駅」「小平駅−箱根ヶ崎駅」が存在した。阿佐ヶ谷駅を柳沢駅に変えれば、今と変わりない。運用の行い方が当時とあまり変わっていないためであろう。


昭和60年までは申告制先払いだったため、このときは23区と同じ前乗り後降りだった。しかしこれだけの長さの路線ともなると、運転手も運賃を覚えるのが大変そうだが……。手前には5円玉の入るなつかしの運賃箱。


今度は終点の青梅車庫に移動。上で正式停留所名は「青梅」だったと書いたが、方向幕ではこの時点ですでに「青梅車庫」を表示していた(青梅が青梅車庫に正式に改称されるのは平成6年の話である)。[梅70]はどうしていたかというと、路線の途中で方向幕を「青梅」から「青梅車庫」にわざわざ変えるということを行っていた。これは大型幕になっても引き継がれ、「田無→青梅」と「田無→青梅車庫」の2つのコマが同時に存在した。左からX613、X612。


この写真は大判で。青梅車庫の前にあった路線図である。基本的に今と変わりないが、[梅74][梅76][梅77]はいずれも細かい変化があった。ちなみに[梅76][梅77]は西武バスが撤退することを受けて代替で走らせた路線である。


上の写真の1年後、運行最終日の阿佐ヶ谷駅ポール。本数は40〜60分間隔と、今とまったく変わりがない。今とは違うことといえば最終日でもごくごくひっそりとしていたことだろうか。当時はインターネットもパソコン通信もなく、情報は現地に行かなければ基本的に手に入らなかった。


最終日の運行にあたるW-X644。今まで出てきたX代とは異なり、杉並から転属してきた車である。

 そして昭和59年4月1日より、[梅70]は青梅〜田無本町二丁目での運行となった。その直後に久々の新車である中型車が7台ずつ2回(N800〜N806、N814〜N820)導入され、続く昭和60年度にも14台(P828〜P841)導入されてX代を完全に駆逐し、一気に車両が若返った。それと同時に冷房化率100%も達成し、また定期券の車内予約購入サービスや青梅山間部でのフリー乗降制度も開始されるなど、短縮後に青梅支所のサービスは一気に向上した印象を受ける。


短縮後の[梅70]を青梅駅にて(N820)。昭和59年度より八王子ナンバーが新設されたばかりのため、ナンバープレート番号が非常に若い。方向幕では「田無」という短縮表示であった。田無本町二丁目到着後は、そのまま青梅街道を進んでかつて折返所として用いていた東伏見操車所を使って折り返したが、末期は柳沢駅近辺の道路を使って折り返していたようだ。そして短縮から8年後の平成4年より、どうせ回送するならということか、柳沢駅まで延長されて今に至っている。