|
PLせつな様、皆様
「境川」附近の変遷について、記憶している範囲ですが、記述させて頂きます。
(かれこれ30年程前のことなので、正確さには欠けるかもしれませんが・・・?)
そもそも「境川車庫」が都電の車庫として、使用されていたのは、昭和46年3月の都電36系統(錦糸堀)や16系統(大塚)22系統(南千住)等が廃止になる迄で、36系統廃止後は、所轄の錦糸堀車庫に空きができた為、境川車庫は廃止になりました。
当初、「境川車庫」の跡地には、都電廃止(昭和47年11月)後の代替バスの為「都バス」の車庫を作る予定でしたが、車庫の前が、小学校と云う事もあり、地元から反対運動があり、交通局としては、都電を廃止する以上、代替バスを走らさなければならず、やもうえず、葛西車庫(V)を確保した次第です。
問題の「境川」ですが、都電廃止直後は、「南砂5丁目(境川車庫)」「境川」と実在してました
西方向の「南砂5丁目」は、現在の「境川」附近で、「境川」は、交差点を右折して、直ぐの所にありました(秋26は、路線図には、「境川」停車になってますが、当時は、止まる停留所(場所)は無く「南砂5丁目」の次は「南砂1丁目」に止まってました)
そして、現在の状態になったのは、「新葛西橋」が「葛西橋」に、「葛西橋」が「旧葛西橋」に変更になった時だったと思います。
ついでですが、砂町地区で最も早く「ワンマン」化されたのは「26(秋26)」系統で、「27(東21)」系統が最も遅かったと記憶しております。
また、「26(秋26」及び「28(亀24)」が、江東所轄の時代は、「26の秋葉原駅→新葛西橋の「赤」」がそのまま「28の新葛西橋→亀戸駅の「赤」」となり、江東(L)に入庫してました。
長文で失礼しました。
|
|