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続き(最後)です。
>それは、どのような変遷があったのでしょうか。
>田町駅東口から南の芝浦工大のほうに向かって、旧海岸通から藻塩橋に出る…
>という経路でしょうか?
ご存知であったのですね。路線資料館にそれらしき記述が見つからなかったので。
田町駅東口方面行き乗車の記憶を辿ると、札の辻から国鉄東京機関区を右に見ながら橋
を渡り、藻塩橋で左折せずに直進。広い通りの交差点(四つ角かT字路か忘れました。)
を左折。この広い通りは旧海岸通りではないかと思います。当時この辺り、倉庫が立ち
並び、車の通行量が少ない、寂しい雰囲気の場所でした。バスはその後すぐに再び左折
して田町駅東口方面へ直進、というルートでした。
>昭和35年の統計では
>西芝浦1〜140m〜田町駅東口〜350m〜西芝浦3〜260m〜藻塩橋〜350m〜
>田町4〜280m〜三田2〜660m〜赤羽橋…
> --中略--
>ということで、成り立つ仮説としては、「少なくとも昭和35年から終点は
>田町駅東口の次の停留所、現在の港区スポーツセンターにあたるところだが
>旅客案内上は「田町駅東口」としていた」が有力です。
この仮説は合っていると思います。
昭和40年頃まで、田町駅東口方面行きの前面方向幕は「田町駅東口」であり車内での
旅客案内(車掌の肉声)も「田町」でした。乗客の大半は田町駅東口で下車するので
すが、バスは次の西芝浦一丁目で折り返しておりました。
折り返し場所は田町駅東口から見て道路右側にありました。
その後はあまり田町駅東口方面へバスを利用する機会が無かったので記憶が曖昧です。
バス停の案内に田町操車所という記述があったのは覚えておりますが前面方向幕は田町
駅東口と記されており、操車所の文字が小文字で併記されていたかどうかも覚えており
ません。
また、西芝浦一丁目の折り返し所と田町操車所が同じ場所であったのかもわかりませ
ん。
>昭和40年末の統計では
>田町駅東口入口 以下略
田町駅東口入口というバス停は全く記憶の中に無くわかりません。
ということで、昭和40年代以降の田町駅東口〜田町操車所間の克明な記憶が無いので変
遷を述べることが出来ないというのが正直なところです。
その他、都電の第1次廃止(昭和42年:N代)からS代が導入される頃までの期間、目黒営業
所の田町分車庫が存在していたことはご存知でしょうか?
かつて、芝浦に都電の工場があり、国道1号線から線路が分岐しておりました。
更に途中から西芝浦一丁目へ向かって単線の線路が分岐しており、終端では西芝浦一丁目の折り返し所と道路を隔てた側の車庫のようなところに入るようになっておりました。
一体何の施設であったのかわからないのですが地図で見ると中はループ状に線路が敷か
れているようでそこそこの広さがありました。田町分車庫の位置はその施設の位置と一致していたように思います。代替バスとして増備されたN代のみ約50台が配置されていたと
記憶しております。
その田町分車庫が存在した頃、折り返しは相変わらず西芝浦一丁目(田町操車所)
を使っていたのか否か、思い出したいところなのですが残念ながら ....。
ちなみに、田町分車庫の受け持ちは、70, 503, 504系統であり、これらの系統には稀な
例外を除き目黒営業所の車両が配車されることは無く、3方シート車で統一されていて趣
味的には面白く無かった期間です。
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