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▼PLせつなさん:
>はじめまして。よろしくお願いいたします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
>昭和40年代の資料から判断するに、夕方中心に折返の運行があったと思われる
>のですが、ご覧になられたのも主に夕方でしたでしょうか。
私が目撃したのは朝だったように記憶しています。
あとは状況から判断した私の推測ですが、朝夕は聖心女子学院の生徒さんの渋谷駅〜北里研究所間の通学利用が非常に多い
(今は地下鉄の白金高輪駅ができたので当時より通学経路もいくらか分散しているかもしれませんが)ので、
その通学利用の多客対応のための臨時便のような位置づけだったのではないでしょうか?
>それと関連する質問になるのですが、[田70]の昭和55年ごろの小型幕の資料を
>見ると、幕上では三ノ橋・赤羽橋回りの区別がなく、共用していたかのような
>記述があります。これは本当だったのでしょうか。また、大型幕でも初期は
>三ノ橋・赤羽橋の区別が幕上ではなかったのでしょうか。
>(その場合は、前面などにプレートをさげて運転していた?)
PLせつなさんのおっしゃる通りです。
小型幕時代は前面、側面、背面ともに方向幕上では三ノ橋廻り、赤羽橋廻りの区別は
ありませんでした。
添付いたしました写真の通り、前面に「三ノ橋廻り」または「赤羽橋廻り」のプレートを下げて
運行していました。
【田70(赤羽橋廻り).JPG : 28.8KB】
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