▼PLせつなさん:
>→都バス70年史を参考にすると、以下のような変更になっています。
>昭和40年度(K)……点滅式の方向指示器を装備
>昭和41年度(M)……降車ブザーと連動した「つぎとまります」表示を採用
>昭和43年度(RS)……自動つり銭式料金収納機を採用、側面行き先表示幕を中扉上から前側に移設(S代〜)、扉脇のワンマン入口/出口表示が幕からプレートに(S代後期〜)。
>昭和44年度(TV)……車掌席の扉スイッチが簡素化され、中扉の半開き構造を廃止。温水式デフロスタを採用。降車ボタンにメモリー式押しボタンを採用。車内照明を4灯とする。車内時計にスポンサー付きのものを採用。前面幕の巻き取りハンドルを右側に移設
>
>以前は左右の車内点滅はひとつで済まされていたのですね。
>多分この時期で変更になったのは間違いないと思うのですが……
PLせつなさん、ねこまたさん、詳しい情報をいただきありがとうございます。
当時の運賃箱はただの直方体の箱で、現金も回数券も同じ投入口に入れていて、少し溜まったら運転手がレバーで底板を回転させて下にある収納箱に落とす方式をとっていました。
したがって丸い筒は釣り銭の払い出し専用機で、上部の皿に50円玉や100円玉を置くと、それを見て必要な釣り銭を払い出す方式でした。
当時は大人運賃が30円くらいでしたから、子供運賃のために、5円玉も払い出し機に仕込んであったかと思われます。
降車ボタンについては調べていたらすごいサイトを見つけました。
その名も「つぎとまります」です。
URLを入力するより「つぎとまります」で検索したほうがはるかに早いかもしれません。
このサイトは降車ボタンや運転手用の降車ランプなどが大量に見られるサイトで、私も驚きました。今年になってからの更新はないようですが、降車ボタンについては参考になるかと思います。
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>これがあったか、ということで調べてみると、運輸統計年報に
>S46. 3. 18 [522折]…入谷二丁目〜南千住を開設
>となっています。入谷二丁目ということは新谷町車庫の前ですが、停留所の位置の都合で、南千住方面は浅草三丁目始発だったのかもしれません。ちゃんと運行されていたんですね。隅田公園で本線に合流、という感じです。
この522番折返系統は出庫専用だったようで、南千住からの入庫系統は見たことがありません。運行ルートは隅田公園経由ではなく、浅草五丁目・吉原大門経由で、清川二丁目で本線に合流といった感じでした。大体16番(上46)の続行で運転されていましたが、時刻表に表示されていなかったために、西浅草の交差点を凝視していて、三文字の幕を見たら喜んだものです。
また、当時千住の分車庫があったのはご存じのとおりですが、522番に関しては、あくまで操車場、折り返し場として使用していて、夜間滞泊などはなかったと記憶しています。入庫は16番とともに新谷町まで回送していたのではないかと思います。
当時の千住営業所南千住分車庫は12番(里22)、521番(秋47)、531番(東40)が所属していました。
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車掌のドアハンドルは開・半開・閉の三段階のときは回転式だったと記憶していますが、半開動作の廃止と運転手用と共通のレバー式になったのは同時だったのでしょうね。車掌席は狭いので取り付け方法が違うので前後ではなく上下式でした。
また、車内のウィンカー表示は左右別々になった時期は覚えていませんが、当初は左折用と右折用の表示ランプが中央に寄っていてどちらが付いているのか運転手にも分かりにくい構造でしたが、
いつのころからか、両端に移動してわかりやすくなりました。移動した時期も覚えていません。
長文の上、返信が遅れました事、お詫びいたします。