すみません、都筑です。
> また、車内のウィンカー表示は緑色の丸い表示1個だけで、右折も、左折も同じランプが点滅していました。
> そして、ハンドルとは非連動で、作動させるときも戻す時も手で白いレバーを操作していました。
> これが連動式になったのも、左右の車内点滅が別になった時期も良く覚えていません。
→都バス70年史を参考にすると、以下のような変更になっています。
昭和40年度(K)……点滅式の方向指示器を装備
昭和41年度(M)……降車ブザーと連動した「つぎとまります」表示を採用
昭和43年度(RS)……自動つり銭式料金収納機を採用、側面行き先表示幕を中扉上から前側に移設(S代〜)、扉脇のワンマン入口/出口表示が幕からプレートに(S代後期〜)。
昭和44年度(TV)……車掌席の扉スイッチが簡素化され、中扉の半開き構造を廃止。温水式デフロスタを採用。降車ボタンにメモリー式押しボタンを採用。車内照明を4灯とする。車内時計にスポンサー付きのものを採用。前面幕の巻き取りハンドルを右側に移設
以前は左右の車内点滅はひとつで済まされていたのですね。
多分この時期で変更になったのは間違いないと思うのですが……
> 運賃箱は当時、現金も回数券も同じ投入口に入れ、釣り銭がある時は、丸い筒の上にのせると運転手がそれを見て、払い出し機を操作して、手渡ししていました。
払い出し機は別にあって(切符窓口にあるような、10円・50円・100円が小さな筒に入ってきて下のレバーを押すと1枚ずつ出てくるやつでしょうか?)、丸い筒は単なる運賃を収納する箱、だったのでしょうかね。
> また、都電22番が廃止になってもしばらく東42系統は新谷町の所属で、
>当時小学生だった私が「幻の系統」と呼んでいた東42系統の出庫便が浅草三丁目始発で、上46と同ルートを通り、南千住まで運行されていたので、乗り得バスでした。
これがあったか、ということで調べてみると、運輸統計年報に
S46. 3. 18 [522折]…入谷二丁目〜南千住を開設
となっています。入谷二丁目ということは新谷町車庫の前ですが、停留所の位置の都合で、南千住方面は浅草三丁目始発だったのかもしれません。ちゃんと運行されていたんですね。隅田公園で本線に合流、という感じです。
ちなみに、この都電廃止から南千住営業所が移転してくるまで、千住の分車庫自体は敷地内にあったようですが、新谷町持ちだった[東42]は南千住は単純に折り返す場所というか滞泊はしない終点くらいで、あくまで本拠は新谷町車庫だったのかが少し気になっています。そこのところは何か記憶にあるでしょうか……。