情報交換・投稿・交流のための掲示板・第3版です。
同じ話題への発言につきましては、新規ツリー作成ではなく
その発言への返信という形でご投稿下さい。
投稿者名について、系統番号・局番・営業所等そのままの名は禁止事項とします。
都営バスエリア内のコミュニティバスの話題もこちらでどうぞ。
(一部の漫画喫茶などからの書き込みを制限しています)
運営に関する質問等は掲示板には書き込まず、メールにてお願いします。
|
お好み玉子
- 05/9/20(火) 19:07 -
|
こんばんは、
時々、本や画像を目にするS40年代の都バス(K〜B代)は、大人には懐かしく、十代には意外性と目新しさを感じるものがあります。とくに局番、今は存在しない車型や路線などが印象的です。
でも、写真だけでは内容に限りがあります。このK〜B代のバスに疑問を持った方は、おられると思います。
僕の疑問をまとめますと、
@なぜW〜Zには後幕がないのでしょうか?
A弁当箱の取り付けは、いつ頃ですか?(新製時は、なかったらしい)
BS35に初登場した前向きシートはK〜Zにもあるのでしょうか?
CV代以前の後幕に「都営バス」とあるが、行先として使っているのでしょうか?
DXが入る前の青梅はどんな車両でしたか?
E渋谷のZには後幕(上)があるのですが・・・
FS57の色彩懇談会に出た岡本太郎画伯の「一反木綿もどき」の局番をご存知の方、出来ればお願いします。(これは実際に見た人でないと無理かも・・・)
GXの登場はいつ?(ある情報ではS45、ある資料ではS46)
H中扉の右下に小さく書かれた2ケタの数字は何?
I川重B代に手書き文字の幕は存在したのでしょうか?
J北村車が在籍する営業所は?
あまりにも難しい問題を並べてしまい、申し訳ございません。
「そんなの知るか!」とか「自分で調べろ」と言われても、それはしかたありません。あまりにも昔で、あまりにも細かいことなので、実際に乗ったことのある方でないと知らないというのは、百も承知です。
回答は全てでなくても結構です。1つでもご存知であれば、幸いです。
では、よろしくお願い致します。
失礼致します。
20 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012007.bbtec.net>
|
PLせつな
- 05/9/20(火) 22:48 -
|
こんにちは。
僕もちょうど次に出す本がその部分にあたりまして、ただいま勉強中の身なので
怪しいところがあるかもしれませんが、まとめてみます。
>@なぜW〜Zには後幕がないのでしょうか?
>CV代以前の後幕に「都営バス」とあるが、行先として使っているのでしょうか?
細かく言うと、W568〜577(杉並配置)とZ564〜577(渋谷配置)は
背面幕がついていたようですね。
ワンマン化に伴う運転手の労力削減のためです。
このときの方向幕は連動しておらず、また手動で回す必要があったため
(昭和45年度−W代から前面は電動化)運転士の労力が大きいということになって
背面は「都営バス」の固定表示になっていましたが、大量に新車導入を
続ける中でコストダウンということもあったのでしょうか、この時期は
背面幕そのものが廃止されてしまいました。また、背面不要論として
「駆け込み乗車を誘発する」というのが言われていましたが、今から考えると
信じられないですね。
(ツーマンのときは背面も動かしていたんでしょうか?)
>A弁当箱の取り付けは、いつ頃ですか?(新製時は、なかったらしい)
ちょっとこれはどこかに資料があったはずなのですが見つからないのでパス。
>BS35に初登場した前向きシートはK〜Zにもあるのでしょうか?
このへんはよくわかっていません。三方シート(ロングシート)が標準と
なったのは昭和41年度(M代)からですが、少なくとも昭和40、41年度車は
三方シートとそうでないものが混在していたようです。また、昭和47年度の
試験導入であるZ代ハイブリッド電気バス、また昭和46年度に初試験導入と
なったY代低床バス(いすゞ、日野)も前向きシートだったようです。
>DXが入る前の青梅はどんな車両でしたか?
ツーマン車22両で運行していました。新車ではなかったようで、多分
杉並のお下がりを使用していたと思うのですが、資料はありません。
>E渋谷のZには後幕(上)があるのですが・・・
渋谷のZ代は、昭和48年3月と他のZ代に比べても最も遅い時期に
導入されたためです。同じ年度でも前期後期で仕様が違うのは結構ありますね。
>FS57の色彩懇談会に出た岡本太郎画伯の「一反木綿もどき」の局番をご存知の方、出来ればお願いします。(これは実際に見た人でないと無理かも・・・)
当サイトのプレイバック・都営バス>奇抜な塗装 をごらんください。
ナンバーから逆算すれば、多分S-S403(昭和43年度導入)だと思います。
>GXの登場はいつ?(ある情報ではS45、ある資料ではS46)
当サイトの車両データ>車番のいろは をごらんください。
昭和46年度です。
>H中扉の右下に小さく書かれた2ケタの数字は何?
それは写真でも見たことがありません。どのあたりにあるものでしょうか。
>I川重B代に手書き文字の幕は存在したのでしょうか?
側面系統番号を囲む枠線がなく、文字も丸ゴシックではなくどちらかというと
手書きの風味がするものでしょうか? 大塚BC代にあったと伺ったことは
ありますが……
>J北村車が在籍する営業所は?
北村車は、(昭和43年度)R651〜659、(44年度)T577〜593,605〜609,V400〜402、
(45年度)W645〜648の計46両がいました。練馬・志村・江東・今井の
日産ディーゼル指定配置の営業所全てに散らばっていました。ただし、
最後の北村車となった江東配置分のL-W645〜648は葛西営業所新設時(昭和47年
10月)と思われますが、そのときに葛西に移転し、おしまいのほうにはさらに
今井に移転して昭和57年度末で(?)一生を終えました。
以上です〜。
25 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@gx79.opt2.point.ne.jp>
|
想い出の志村
- 05/9/21(水) 0:56 -
|
お好み玉子さんはじめまして。
想い出の志村と申します。お好み玉子さんの疑問点は昭和40年代の都バスに懐かしさを感じる世代にとっては当たり前のように乗車し見ていましたが、改めてこのように書き出していただいたのを見ると確か、あ〜だったけな?なんて。
現在、次刊発刊予定の車輌本の解説文章を執筆中であり、様々なデータや資料等を
管理人氏と整理しているところです。今回の疑問点非常に参考になりました。欲張らず書きたいと考えておりますが、できるだけお悩みの点や知りたいことを記述するつもりです。どんどんこのような疑問点などは挙げて見て下さい。懐かしいと感じる世代の方や新鮮に感じていただける若い方にも満足いただけるように努力します。
皆様も是非発刊された際にはお手に取って見て下さい。
43 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)@p28245-adsau18honb3-acca.tokyo.ocn.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/21(水) 18:39 -
|
▼PLせつなさん:
大変遅れまして、申し訳ございません。
お返事をいただき、誠にありがとうございます。
>>@なぜW〜Zには後幕がないのでしょうか?
>>CV代以前の後幕に「都営バス」とあるが、行先として使っているのでしょうか?
>細かく言うと、W568〜577(杉並配置)とZ564〜577(渋谷配置)は
>背面幕がついていたようですね。
>ワンマン化に伴う運転手の労力削減のためです。
>このときの方向幕は連動しておらず、また手動で回す必要があったため
>(昭和45年度−W代から前面は電動化)運転士の労力が大きいということになって
>背面は「都営バス」の固定表示になっていましたが、大量に新車導入を
>続ける中でコストダウンということもあったのでしょうか、この時期は
>背面幕そのものが廃止されてしまいました。また、背面不要論として
>「駆け込み乗車を誘発する」というのが言われていましたが、今から考えると
>信じられないですね。
>(ツーマンのときは背面も動かしていたんでしょうか?)
それでは「後の人には(行先)教えてあげない」って言われてるみたいですよね。
やはり表示をしないと、バスがどこへ行くのか、自分の乗るものなのかがわからないし、それに、後の1人を乗せずに発車なんて、抗議もんです。
弁当箱の取り付けは、正解ですね。
>>A弁当箱の取り付けは、いつ頃ですか?(新製時は、なかったらしい)
>ちょっとこれはどこかに資料があったはずなのですが見つからないのでパス。
この問いはあまり大きな疑問ではないですから大丈夫ですよ。
>>BS35に初登場した前向きシートはK〜Zにもあるのでしょうか?
>このへんはよくわかっていません。三方シート(ロングシート)が標準と
>なったのは昭和41年度(M代)からですが、少なくとも昭和40、41年度車は
>三方シートとそうでないものが混在していたようです。また、昭和47年度の
>試験導入であるZ代ハイブリッド電気バス、また昭和46年度に初試験導入と
>なったY代低床バス(いすゞ、日野)も前向きシートだったようです。
情報によりますと、前向きは、混雑の少ない地域に導入されていたようです。
S41の三方標準化は、おそらく乗客増と車掌業務によるものではないでしょうか。
>>DXが入る前の青梅はどんな車両でしたか?
>ツーマン車22両で運行していました。新車ではなかったようで、多分
>杉並のお下がりを使用していたと思うのですが、資料はありません。
謎ですね。
>>E渋谷のZには後幕(上)があるのですが・・・
>渋谷のZ代は、昭和48年3月と他のZ代に比べても最も遅い時期に
>導入されたためです。同じ年度でも前期後期で仕様が違うのは結構ありますね。
後幕の再登場で、当時のファンは喜んだかもしれませんね。
>>FS57の色彩懇談会に出た岡本太郎画伯の「一反木綿もどき」の局番をご存知の方、出来ればお願いします。(これは実際に見た人でないと無理かも・・・)
>当サイトのプレイバック・都営バス>奇抜な塗装 をごらんください。
>ナンバーから逆算すれば、多分S-S403(昭和43年度導入)だと思います。
なるほどね。確かにナンバーが近いです。岡本さんには悪いけど、あの色使い、ちょっとやばくないですか(゚Д゚)
>>GXの登場はいつ?(ある情報ではS45、ある資料ではS46)
>当サイトの車両データ>車番のいろは をごらんください。
>昭和46年度です。
そうなりますと、45前後期がW、46前期がX、後期がY、47前後期がZになるわけですね。
>>H中扉の右下に小さく書かれた2ケタの数字は何?
>それは写真でも見たことがありません。どのあたりにあるものでしょうか。
肌赤帯と美濃部(初期)の時で、中扉の右下(扉と後輪の間、足下灯の位置)にありました。
>>I川重B代に手書き文字の幕は存在したのでしょうか?
>側面系統番号を囲む枠線がなく、文字も丸ゴシックではなくどちらかというと
>手書きの風味がするものでしょうか? 大塚BC代にあったと伺ったことは
>ありますが……
Cにもあったんですか、それではN(滝)のCにもあったのでしょうかね。
僕が物心ついたときにはすでに丸ゴシに替えられていました。
>>J北村車が在籍する営業所は?
>北村車は、(昭和43年度)R651〜659、(44年度)T577〜593,605〜609,V400〜402、
>(45年度)W645〜648の計46両がいました。練馬・志村・江東・今井の
>日産ディーゼル指定配置の営業所全てに散らばっていました。ただし、
>最後の北村車となった江東配置分のL-W645〜648は葛西営業所新設時(昭和47年
>10月)と思われますが、そのときに葛西に移転し、おしまいのほうにはさらに
>今井に移転して昭和57年度末で(?)一生を終えました。
葛西はS47.10.20に開設されました。この時、新規の日野以外に日産が混在していましたね。他営業所の運転士さんのなかには、どうやら2〜3年前まで「葛西は日産」と思っていた人がいたみたいです。
>以上です〜。
どうもお疲れ様でした。大切な情報をどうもありがとうございます。
お勉強になりましたうえに、この情報は、ほかのかたにも重宝されると思います。
本の編集、がんばってください。
では、失礼致します。
31 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012007.bbtec.net>
|
E3い2791
- 05/9/21(水) 22:20 -
|
はじめまして。
分かる範囲でコメントしますと、
B杉並と新宿のK代に存在しました。
DW−E360〜365、373、376、378、
W−E159〜165、W−F280〜286
あたりがリプレースされたようです。
GB−X512〜541とM−W470〜476が連番で
46年3月に登録されています。
Hこれも41年あたりに改番されたようですが、メーカーと型式を
あらわしていたようです。
11〜 いすゞ(15=BA741)
31〜 日野 (36=RB10)
51〜 三菱 (56=MR480)
71〜 日産 (73=4R94)
R代の美濃部カラーになってから表示がなくなったようです。
JR660〜667(L→U)もそうですね。
あと、都営バス車輌全集は素晴らしい資料ですね。
ご参考までに、局番解説の中の「G3い914」の3の意味は
練馬ナンバーを表しています。
(1=品川 2=足立 4=多摩)
27 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)@202x226x156x170.ap202.ftth.ucom.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/22(木) 0:55 -
|
▼想い出の志村さん:
こちらこそはじめまして、
お返事が遅れてしまい、申し訳ございません
>現在、次刊発刊予定の車輌本の解説文章を執筆中であり、様々なデータや資料等を管理人氏と整理しているところです。今回の疑問点非常に参考になりました。欲張らず書きたいと考えておりますが、できるだけお悩みの点や知りたいことを記述するつもりです。どんどんこのような疑問点などは挙げて見て下さい。
送信後、早速のお返事ありがとうございます。
"過去は記憶を美化する" 現役時代ではあまり好きではない車両も今となってみれば、懐かしく思い、大好きだった車両は、涙あふれる素敵な想い出になれるでしょう。幼少の頃、僕は王30、31・32(東武)・49で王子〜鹿浜(三)まで往復していました。時はS55ですが、使用車の大半は40年ものでした。僕の一番のお気に入りは、川重B・C代で次に富士3Eです。そのため、ちょうど北営業所が僕の欲望を満たしてくれたのです。
美濃部色=都バスの代名詞と思ったこともありました。
電照式の出入り口表示、ワンマン表示、車内中扉上の横長の広告灯、運転席後ろ上の「つぎとまります」ランプと緑に白のボタン、中扉上の側幕、方向幕手回しノブ、そして個性あるボディーに、エンジンサウンド。
このバスが、幼い僕に世話をしてくれたのです。
昭和50年以降に生まれたかたにも、昭和50年代の都バスに???を感じていると思います。
皆さん、想い出の志村様のおっしゃる通り、積極的に疑問を挙げ、問題を解決し、
都バス資料館を完璧にしましょう。
では、失礼致します。
52 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012007.bbtec.net>
|
お好み玉子
- 05/9/22(木) 2:18 -
|
▼E3い2791さん:
はじめまして、
コメントを頂き、ありがとうございます。
いろいろ詳しいですね。
>B杉並と新宿のK代に存在しました。
もっとも混雑する地域ですね。
>
>DW−E360〜365、373、376、378、
> W−E159〜165、W−F280〜286
> あたりがリプレースされたようです。
番号からすると、前扉なし車ですね。
>GB−X512〜541とM−W470〜476が連番で
> 46年3月に登録されています。
これは、前倒し・・・?
予定では、今後もあるらしいですね。
>
>Hこれも41年あたりに改番されたようですが、メーカーと型式を
> あらわしていたようです。
> 11〜 いすゞ(15=BA741)
> 31〜 日野 (36=RB10)
> 51〜 三菱 (56=MR480)
> 71〜 日産 (73=4R94)
>
> R代の美濃部カラーになってから表示がなくなったようです。
'91の東交80周年イベント会場にあった写真パネルで、美濃部を纏った
F−R632に白字でかかれていました。一時期的なものだったんでしょうか。
>JR660〜667(L→U)もそうですね。
富士重の3Eに似た感じでバス窓というのは意外な形でしたね。
>あと、都営バス車輌全集は素晴らしい資料ですね。
>ご参考までに、局番解説の中の「G3い914」の3の意味は
>練馬ナンバーを表しています。
>(1=品川 2=足立 4=多摩
ということは、うちのとこですと、
「N3い123」「H2い456」というかんじ?
では、どうもありがとうございました。
30 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012007.bbtec.net>
|
想い出の志村
- 05/9/23(金) 1:40 -
|
▼お好み玉子さん:
>お返事が遅れてしまい、申し訳ございません
いえいえ貴重なご意見ありがとうございます。
>"過去は記憶を美化する" 現役時代ではあまり好きではない車両も今となってみ
>れば、懐かしく思い、大好きだった車両は、涙あふれる素敵な想い出になれるで
>しょう。僕の一番のお気に入りは、川重B・C代で次に富士3Eです。ちょうど
>北営業所が僕の欲望を満たしてくれたのです。
私のHNからもご想像いただけると思いますが、私は志村車庫が好きでしたので多くの車が北車庫に移り(一時期巣鴨に行っていた車もありますが)志村車庫の車のスタイルを受け継いでいる北車庫が志村車庫無き後は私も北車庫ファンでいます。
>皆さん、想い出の志村様のおっしゃる通り、積極的に疑問を挙げ、問題を解決し
>都バス資料館を完璧にしましょう。
最後に本当に勇気付けられるお言葉感激です。ありがとうございます。力が湧いてきました。皆様と大いに盛り上げていきたいです。
お好み玉子様今後ともよろしくお願いいたします。では、失礼いたします。
58 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)@p41043-adsau18honb3-acca.tokyo.ocn.ne.jp>
|
東武指令
- 05/9/23(金) 22:57 -
|
▼お好み玉子さん:
はじめまして、東武指令と申します。
後面幕の話ですが、私の記憶に出て来る車では「系統番号幕と後面幕の連動」のみ
自動化された車がかなり居たと記憶してます。
私は幼少の頃より北区内に住居があり、千住・巣鴨・志村・滝野川・昭和町の車
を見てきております。
千住車はかなり遅くまで後面幕に「都営バス」表示をした車が多かったと思います。
滝野川に関してはおそらくS代車(昭和43年車・富士重R13架装)が最後だった
様に記憶しています。
この後のT代には川重のタイプが来た記憶があり、これは後面表示がされていた
と記憶していますが系統幕との連動までは覚えておりません。
また滝野川の分所である昭和町には川重車体架装で側面経由幕が中扉上にある
R代車が集中配置されておりました。
こちらも後面幕は「都営バス」のままでしたが、後年滝野川に統合された時に
数台のR代が廃車を逃れ滝野川に転配され王40などに使用されましたが、このとき
には系統幕と連動されていたいた様に記憶します。
結局、私の住居周辺では「弁当箱」の登場と系統幕・後面幕の連動化が本格的になったと言う感じではないでしょうか。
ちなみに弁当箱ですが、滝野川には川重架装車、志村には富士重のR13架装後期形
と3E前期の車が装着されてました。
この管内で後面幕の無い車(弁当箱を含む)というのは実存しなかったと思われます。
35 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@210.227.113.139>
こんばんは。
懐かしいスレッドなので久しぶりにレスさせて頂きます。
当時は港区在住で、子供の頃なのでエリアが限定されますが記憶にあることを列挙して
みたいと思います。
> (1) なぜW〜Zには後幕がないのでしょうか?
推測ですがコストダウンではないでしょうか?
コストダウンらしき兆しはS代後期あたりから見られます。
・ S代後期で、ロールカーテン廃止。車内の時計廃止(これはその後すぐ取り付け)
車掌台のドア開閉スイッチ簡素化。
・ V代で、最前列一人掛けシートのパイプ椅子化と非常口付近の椅子廃止。
・ W代中期で背面方向幕廃止。
※ 背面方向幕なしの車両が登場する少し前から既存車の背面の行先表示が廃止
され「都営バス」固定になりつつありましたので、当時新車の方向幕廃止は
事前に推測できました。
・ W代後期で前面のワンマン表示プレート化。
・ W代(期は不明)で最前列一人掛けシート廃止。
・ Y代でロングシート簡素化、カラーバンパー化。
・ その他、ジャリジャリした感触のシートがW代からC代まで採用されましたが
あれもコストダウンなのでしょうかね?
ということで。
> (2) 弁当箱の取り付けは、いつ頃ですか?(新製時は、なかったらしい)
> (4) V代以前の後幕に「都営バス」とあるが、行先として使っているのでしょうか?
> (6) 渋谷のZには後幕(上)があるのですが・・・
Z代では、新製時弁当箱により背面方向幕が復活となりました。これは、新系統番号
採用により、弁当箱に系統番号を表示する狙いであったと思います。サイズも系統番
号サイズですね。事実、デビューから暫くは系統番号(旧系統番号時代もほんの一時
期ありました。)のみ表示されておりました。
Z代後期には背面方向幕が復活。これは渋谷営業所のみに投入されましたが、過度期
の異端車的なところがあります。どこが異端かというと、当時は低床車は前方シート、
標準床車は3方シートであったのですが、渋谷のZ代は標準床(前扉が狭いので多分)
でパイプ椅子の前向きシートです。また、W代以前の背面方向幕は電球でしたが渋谷の
Z代では蛍光灯となり、青白い光を放って去ってゆく姿が当時は印象的でした。
W代からY代の背面方向幕なし車へはその後弁当箱が取り付けられ、「都営バス」と
表示固定になっていたW代一部とV代以前車両も起点終点併記の行先表示が復活しました。
古い車両の方向幕自動化はその時に行なわれたと記憶しております。(やや不確か)
あと、前面の方向幕の件ですが、T代までは起点終点併記式でしたがV代で終点のみの
記述となりました。V代ではそれ以前はステップ側にあって巻き取りハンドルが運転席
側に改められ運転手の操作が容易になったことで実現できたのだと思います。方向幕の
自動化時期は忘れましたが少なくともV代は新製時手動でした。
> (3) S35に初登場した前向きシートはK〜Zにもあるのでしょうか?
K代にはありました。新宿、杉並の車両はK代まで前向きシートです。
城南地区(渋谷、目黒、品川)はセミクロスとでもいうのでしょか、前半分と最後列
雛壇の手前が前向きシートでした。
同時期、四谷駅に足立ナンバーのクレハ車が出入りしておりましたが、そのK代は3方
シートでした。新宿、杉並ともその後の車両はセミクロスとなり、城南地区も含めセミ
クロスはN台前期まで続きます。
その後のオール前向きシートの復活は新宿、杉並のY代低床車になりますかね。
41 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/26(月) 17:14 -
|
▼想い出の志村さん:
お返事が遅れてしまい、大変失礼致しました。
家の人に、仕事で占拠されてしまい、どうしたらよいのか悩んでいました。
本当に申し訳ございません。
>私のHNからもご想像いただけると思いますが、私は志村車庫が好きでしたので多くの車が北車庫に移り(一時期巣鴨に行っていた車もありますが)志村車庫の車のスタイルを受け継いでいる北車庫が志村車庫無き後は私も北車庫ファンでいます。
>
>>皆さん、想い出の志村様のおっしゃる通り、積極的に疑問を挙げ、問題を解決し
>>都バス資料館を完璧にしましょう。
>最後に本当に勇気付けられるお言葉感激です。ありがとうございます。力が湧いてきました。皆様と大いに盛り上げていきたいです。
>
>お好み玉子様今後ともよろしくお願いいたします。では、失礼いたします。
三大御所伝説(滝、昭、志)は永遠に不滅です。
そして、そのお話を後世に伝える子孫、それが北営業所なのです。
運転手さんとお話をすると、よく昔のことを話してくれます。
車両をトレードしたため、三大御所伝説江戸川編(江、今、葛)にも関係があります。
余談ですが、昨日、江戸川へ行って参りました。一日乗車で素通りだったんですけれど、なにか変わったことがないかなと思っていたのですが、特になく(僕の見た限り)、錦27−2のVーNと錦27本線らしきもののV−Lがありました。
あと、錦22で錦糸町へ向かう途中、前方を走っている江東のH代の後ろになにか黒いものが!おそるおそる近づくと、なんと!エンジンのふたを開けたまま走っているではないか?!
僕と運転手さんは、目を点にしていました(笑)
そのバスは途中で停車し、こちらの運転手さんに苦笑で合図をし、ふたを閉めました。
このような珍プレイを特集してみたいけれど、運転手さんや、その他のかたにとってはあまりいいことではないので、なんとも言えません。
(人を傷つけない話であればよろしいと思います。)
あと、ページ内や、出版物へ、特集やコーナー化をリクエストしてみるのも
よろしいかと思います。(規模の拡大が図れると思います)
では、お体に無理のないよう、がんばってください。
失礼致します。
62 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
|
お好み玉子
- 05/9/26(月) 20:04 -
|
▼東武指令さん:
はじめまして、
お返事が遅れてしまい、大変失礼致しました。
家の人に仕事で占拠されてしまい、本当に困りました。
本当に申し訳ございません。
>後面幕の話ですが、私の記憶に出て来る車では「系統番号幕と後面幕の連動」のみ
>自動化された車がかなり居たと記憶してます。
確かに僕が乗りましたZ代3Eの側幕に手回しノブがありました。
>私は幼少の頃より北区内に住居があり、千住・巣鴨・志村・滝野川・昭和町の車
>を見てきております。
僕は幼少の頃、足立区鹿浜に住んでおりまして通園に王30,31,32,49(鹿浜三丁目−王子駅)を利用していました。
僕はいすゞBU04が大好きなので、東武の50年代車が来たときには、もう、
キタ--------(゚∀゚)--------!!って感じでした。(笑)
でも、ほとんど40年代車が来るのでBU04の都内仕様は少数派なのでは?
>千住車はかなり遅くまで後面幕に「都営バス」表示をした車が多かったと思います。
僕が乗りました頃は「行き先」でしたので、時遅しかな。
>また滝野川の分所である昭和町には川重車体架装で側面経由幕が中扉上にある
>R代車が集中配置されておりました。
千住のR代も数が多いとおもいます。(^_^)
>こちらも後面幕は「都営バス」のままでしたが、後年滝野川に統合された時に
>数台のR代が廃車を逃れ滝野川に転配され王40などに使用されましたが、このとき
>には系統幕と連動されていたいた様に記憶します。
>
>結局、私の住居周辺では「弁当箱」の登場と系統幕・後面幕の連動化が本格的になったと言う感じではないでしょうか。
>ちなみに弁当箱ですが、滝野川には川重架装車、志村には富士重のR13架装後期形
>と3E前期の車が装着されてました。
>この管内で後面幕の無い車(弁当箱を含む)というのは実存しなかったと思われます。
確かに僕も後幕のない車は見たことありませんね。
貴重な情報をいろいろとありがとうございます。
たいへん重宝しております。
まさか、あの東武の管理人様から来るとは思いませんでした。
びっくりしました。その半面、返事遅れで頭がパニクッています。
本当に申し訳ありませんでした。
(家の人に、「相手を待たせるな!」と言いました。)
では、失礼致します。
41 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
|
お好み玉子
- 05/9/26(月) 21:02 -
|
▼きつねさん:
はじめまして、
お返事が遅れてしまい、申し訳ございません
>> (1) なぜW〜Zには後幕がないのでしょうか?
>推測ですがコストダウンではないでしょうか?
>コストダウンらしき兆しはS代後期あたりから見られます。
>・ S代後期で、ロールカーテン廃止。車内の時計廃止(これはその後すぐ取り付け)
> 車掌台のドア開閉スイッチ簡素化。
そういえば、車掌台にスイッチがありました。懐かしいなぁ
>・ V代で、最前列一人掛けシートのパイプ椅子化と非常口付近の椅子廃止。
>・ W代中期で背面方向幕廃止。
前期にはありましたね。
> ※ 背面方向幕なしの車両が登場する少し前から既存車の背面の行先表示が廃止
され「都営バス」固定になりつつありましたので、当時新車の方向幕廃止は
> 事前に推測できました。
>・ W代後期で前面のワンマン表示プレート化。
>・ W代(期は不明)で最前列一人掛けシート廃止。
>・ Y代でロングシート簡素化、カラーバンパー化。
>・ その他、ジャリジャリした感触のシートがW代からC代まで採用されましたが
> あれもコストダウンなのでしょうかね?
多分。
>> (6) 渋谷のZには後幕(上)があるのですが・・・
>
>Z代では、新製時弁当箱により背面方向幕が復活となりました。これは、新系統番号
>採用により、弁当箱に系統番号を表示する狙いであったと思います。サイズも系統番
>号サイズですね。事実、デビューから暫くは系統番号(旧系統番号時代もほんの一時
>期ありました。)のみ表示されておりました。
>Z代後期には背面方向幕が復活。これは渋谷営業所のみに投入されましたが、過度期
>の異端車的なところがあります。どこが異端かというと、当時は低床車は前方シート、
>標準床車は3方シートであったのですが、渋谷のZ代は標準床(前扉が狭いので多分)
>でパイプ椅子の前向きシートです。また、W代以前の背面方向幕は電球でしたが渋谷の
>Z代では蛍光灯となり、青白い光を放って去ってゆく姿が当時は印象的でした。
ずいぶんと個性的ですね。
>W代からY代の背面方向幕なし車へはその後弁当箱が取り付けられ、「都営バス」と
>表示固定になっていたW代一部とV代以前車両も起点終点併記の行先表示が復活しました。
>古い車両の方向幕自動化はその時に行なわれたと記憶しております。(やや不確か)
>あと、前面の方向幕の件ですが、T代までは起点終点併記式でしたがV代で終点のみの
>記述となりました。V代ではそれ以前はステップ側にあって巻き取りハンドルが運転席
>側に改められ運転手の操作が容易になったことで実現できたのだと思います。方向幕の
>自動化時期は忘れましたが少なくともV代は新製時手動でした。
>
>> (3) S35に初登場した前向きシートはK〜Zにもあるのでしょうか?
>
>K代にはありました。新宿、杉並の車両はK代まで前向きシートです。
>城南地区(渋谷、目黒、品川)はセミクロスとでもいうのでしょか、前半分と最後列
>雛壇の手前が前向きシートでした。
>同時期、四谷駅に足立ナンバーのクレハ車が出入りしておりましたが、そのK代は3方
>シートでした。新宿、杉並ともその後の車両はセミクロスとなり、城南地区も含めセミ
>クロスはN台前期まで続きます。
>その後のオール前向きシートの復活は新宿、杉並のY代低床車になりますかね。
詳しい情報をいただき、ありがとうございます。
48 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
|
お好み玉子
- 05/9/26(月) 21:32 -
|
▼想い出の志村さん:
こんばんは、
もう一つ?があります。
それは、志村のいすゞ車。
これは、やまひろ様で見つけたものですが、肉眼では見たことがありません。
画像では、局番がはっきりしないのですが、推測ではY−V432だと思います。
できましたら、詳しい情報をお願い致します。
私どものPCは、家の人との共用であり、家の人の仕事を優先する為、
お返事が遅れる場合があります。
どうか、ご了承おきお願い致します。
60 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
こんばんは。
>この管内で後面幕の無い車(弁当箱を含む)というのは実存しなかったと思われます。
当方、滝野川方面は当時行動エリアで無かったので詳しくありませんが、確か17系統
東京駅(北)〜荒川土手が滝野川営業所でしたね。駿河台下で良く見かけましたが、
古いバスばかりが来る印象でした。当時はワンマン化との兼ね合いで新車が都度配属
されていたことと、営業所間の転属が現在のように活発には行なわれていなかったこと
もあり、営業所によっては長い間新車が配属されることの無い空白期間が存在していま
した。滝野川営業所は当時その空白期間にあったと思います。
その空白期間の後、新車が配属になったのはZ代であったと思います。Z代では低床、
前向きシートがまとまった台数購入され始めた時期なのですが滝野川営業所に配属され
たのは標準床の3方シート、背面方向幕無し弁当箱付きの川重車でした。久しぶりの新車
なのにこれかよ、と思ったものでよく記憶しております。
51 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
>当時はワンマン化との兼ね合いで新車が都度配属
当時は、都電廃止による代替バス大量増備も営業所間の新車配置数に大きなバラツキを与
える要因になっていましたね。(N代〜Z代)
59 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/26(月) 22:23 -
|
▼きつねさん:
こんばんは、
営業所によっては長い間新車が配属されることの無い空白期間が存在していま
>した。滝野川営業所は当時その空白期間にあったと思います。
>その空白期間の後、新車が配属になったのはZ代であったと思います。
これによって、所有車による営業所の個性が芽生えるんですよね。
Z代では低床、
>前向きシートがまとまった台数購入され始めた時期なのですが滝野川営業所に配属され
>たのは標準床の3方シート、背面方向幕無し弁当箱付きの川重車でした。久しぶりの新車
>なのにこれかよ、と思ったものでよく記憶しております。
その車は東京旅情と86年のBJ創刊号に載っていたもので、巣鴨で廃車されましたね。局番は、Z554。
でも、そのような気持ちは最近でもありますね。
特に都市新バス。僕も「これかよ」と思いました。
正直言って、半端中型(中型ロング)はやめてほしいと思います。
ご返信ありがとうございます。
これからも、宜しくお願い致します。
では、失礼致します。
63 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
▼お好み玉子さん:
> もう一つ?があります。
>それは、志村のいすゞ車。
>これは、やまひろ様で見つけたものですが、肉眼では見たことがありません。
>画像では、局番がはっきりしないのですが、推測ではY−V432だと思います。
横やりレスですいません。
今思えば、この年のT代、V代は凄かったかもしれません。
志村営業所にいすゞ車(ご質問の車輌)が居た事も確かです。
王57や王78で乗車した事があります。
それ以外にも、少し前に話題が出た北村車体の4R104も居ましたし
富士のR13型ですか(共に尺が従来の車より長いタイプ)が居ましたよね。
(の点滝野川は尺の短い車と言うか標準尺なんですかね・・・
ただR13架装の長尺でのいすゞ車も居た記憶があり、メモリーブザー
(止まりますボタン)が車掌用を除き白い丸型に赤の堀文字で「次停車」と
かかれていた物が付いており印象に残っています。
73 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.17; Mac_PowerPC)@KHP059138005251.ppp-bb.dion.ne.jp>
▼きつねさん:
>営業所によっては長い間新車が配属されることの無い空白期間が存在していま
>した。滝野川営業所は当時その空白期間にあったと思います。
>その空白期間の後、新車が配属になったのはZ代であったと思います。Z代では低床、
>前向きシートがまとまった台数購入され始めた時期なのですが滝野川営業所に配属され
>たのは標準床の3方シート、背面方向幕無し弁当箱付きの川重車でした。久しぶりの新車
>なのにこれかよ、と思ったものでよく記憶しております。
正にその通りでしたね。
志村には既に富士重工3Eの時代が訪れており、どちらも弁当箱でしたが滝野川の
川重車は古めかしく見えました。
滝野川の車に3Eが登場するのは恐らくA代車からではないでしょうか。
次期新車のB代、C代では川崎がフルモデルチェンジで登場してます。
きつねさんがおっしゃるZ代の前に入ったX代には富士重のR13後期車(窓がバス窓
からユニットサッシのタイプに変わっているタイプ)が導入されてますよね。
58 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.17; Mac_PowerPC)@KHP059138005251.ppp-bb.dion.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/27(火) 13:34 -
|
▼東武指令さん:
こんにちは、
早速のお返事ありがとうございます。
>今思えば、この年のT代、V代は凄かったかもしれません。
>志村営業所にいすゞ車(ご質問の車輌)が居た事も確かです。
>王57や王78で乗車した事があります。
その系統のいすゞ車というのも珍しいですね。
>それ以外にも、少し前に話題が出た北村車体の4R104も居ましたし
>富士のR13型ですか(共に尺が従来の車より長いタイプ)が居ましたよね。
>(の点滝野川は尺の短い車と言うか標準尺なんですかね・・・
>ただR13架装の長尺でのいすゞ車も居た記憶があり、メモリーブザー
>(止まりますボタン)が車掌用を除き白い丸型に赤の堀文字で「次停車」と
>かかれていた物が付いており印象に残っています。
R13は、東武にもありましたね。
北村車は外観が3Eと似た感がありますけれど、違和感もありますね。
降車ブザーは東武のBU05で、運転席後ろの「つぎとまります」というのを憶えています。
志村にいすゞ車が入る理由って、何でしょう?謎ですね。
では、失礼致します。
81 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
|
PLせつな
- 05/9/27(火) 20:59 -
|
お好み玉子さん:
引用は必要最小限でお願いします〜。
どうしても読みにくくなってしまうので……。
#あと、個別に返信なさらなくても、まとめて発言してもよろしいかと思いますよ
59 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/27(火) 21:13 -
|
志村のいすゞ車ですが……
昭和52年のE代導入直後には、昭和44年度車(T代・V代)のみ存在しました。
内訳は前期車のT代が富士重3両、後期車のV代は川重11両、富士重2両の
計16両です。
多分、T461〜463(富士)・V426〜436(川重)・437,438(富士)と思いますが…
ちなみに、昭和53年度末には全ていなくなったようです。
ただし、昭和39年度のワン・ツーマン兼用車(H代)からは志村の新製配置は
全て日産だったようなので、これらのいすゞ車は他営業所(滝野川? 新宿?)
からやって来たのかもしれません。(ここの部分はもしかしたら違うかも)
昭和38年度までのツーマン専用車はいすゞでしたが、その理由は、志村が
もともと大塚の分車庫として出発したことによるのでしょう。支所の車輌配置は
大抵本所のそれを引き継ぐことが多いので。
ただ、いすゞにも馴染みがあったので、当時にしては珍しく両方の車種が
いたのかもしれませんね。
88 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/27(火) 21:40 -
|
お好み玉子さん:
お返事いただきありがとうございます。
ぜひ次巻も頑張りたいと思っています。どれほど売れるかは未知数ですが……
▼E3い2791さん:
お見それいたしました。フォローありがとうございます。
>DW−E360〜365、373、376、378、
> W−E159〜165、W−F280〜286
これも杉並のお下がりだったのかもしれませんね。
E代(昭和36年度)やF代(37年度)ですからツーマン専用車の中では
新しいほうではありますが、いかんせん他の車庫から見ればオールドスタイル
すぎます。同じことがもう一回、昭和60年度からのX代→N代・P代中型車
代替で繰り返されるわけですが……
>GB−X512〜541とM−W470〜476が連番で
> 46年3月に登録されています。
X512は品川22か127でしたから、W470〜476は品川22か120〜126ということに
なりますか。
>
>Hこれも41年あたりに改番されたようですが、メーカーと型式を
> あらわしていたようです。
> 11〜 いすゞ(15=BA741)
> 31〜 日野 (36=RB10)
> 51〜 三菱 (56=MR480)
> 71〜 日産 (73=4R94)
そういう数字があったのですね。
昭和41年の局番システム制定時に出された資料では、管理番号の一例として
例)35M156
35…車種・車台形式
M…購入年度
156…車号
というのがありました。ということは、内部ではこの2桁の番号を使い続けて
いたようです。
多分時代順に連番になっていたのでしょうから、
11…X352? 12…BA351? 13…BX552 14…BA551 15…BA741 16…BA20 17…BU05
31…BD31 32…BD32 33…BD33 34…BD34 35…BD35 36…RB10 37…RE100
51…B280 52…R280 53…B380 54…R380 55…R480 56…MR480 57…MR410
71…RF81 72…4R92 73…4R94 74…4R104 75…4R105
とかでしょうか。(逆算すると昭和30年頃から使い始め?)
>JR660〜667(L→U)もそうですね。
そうでした、リストからもれておりました。
>あと、都営バス車輌全集は素晴らしい資料ですね。
>ご参考までに、局番解説の中の「G3い914」の3の意味は
>練馬ナンバーを表しています。
>(1=品川 2=足立 4=多摩)
これはちっとも気づきませんでした。ご指摘ありがとうございます。
そうすると、この方式は東京が4つの地域に分離した昭和38年度から
現在システムになる41年3月までのごくわずかしか使われなかったのですね。
(それまでいた車が一斉にナンバーを改番したのかは謎ですが……)
おほめの言葉ありがとうございます。
次巻も頑張りたいと思っております。
32 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/27(火) 22:01 -
|
こんにちは。
まず資料として、40年代の仕様の移り変わりを挙げたいと思います。
(?)はどういうものだか今ひとつ理解しきれていません。
昭和39年度(H代)
ワン・ツーマン兼用車導入
車内時計をトランジスタ式にする
電動式自動給油装置を設置
昭和40年度(KL代)
前扉ステップ部の照明を手動で点灯可能にする
温風式デフロスター設置
点滅式方向指示器設置
昭和41年度(M代)
降車合図の「つぎとまります」を設置
アクセルインターロック解除スイッチ廃止
基準シート配列を三方シートに変更
昭和42年度(NP代)
クラッチブースター取り付け(日野)
昭和43年度(RS代)
自動つり銭式料金収納機を採用
側面幕を扉上から脇に移設
前面窓中央上の室内ミラーを大型化
(塗装変更)
昭和44年度(TV代)
サイドバンパーを廃止
中扉の戸当たりゴムを大型化
中扉半開構造を廃止(?)
温水式デフロスター設置
降車ボタンにメモリー式押ボタンを採用
前面幕の巻き取りハンドルを右に移設
車内時計スポンサー付(?)
昭和45年度(W代)
背面幕を廃止
ステップの床面靴摺りを大型化
運転席後ろのH支柱に保護クッションを取り付け(?)
前面幕を電動化
ウィンドウォッシャーを設置
車内外オートコーダーを設置(?)
昭和46年度(XY代)
低床バスを試験採用
グライドスライドドアを試験採用(川重のみ)
昭和47年度(Z代)
背面幕が復活
前面系統部・背面幕を連動にする
バックブザーを設置
出入口脇のワンマン表示窓を廃止し板式とする
昭和48・49年度(AB代)
前面系統部・側面・背面幕を連動式にする
昭和49年度(B代)
前ステップにテープスイッチを取り付け(?)
運転席がリクライニングシートになる
前面窓が4枚(曲面−平面−平面−曲面)構造から2枚構造に
幕照明を蛍光灯に変更
ワイパーブレードを大型化
(参考:都バス50〜70年史)
42 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
▼PLせつなさん:
毎々お世話様です。
> X512は品川22か127でしたから、W470〜476は品川22か120〜126という
> ことになりますか。
これは当方記憶と異なります。
品川22か120前後は目黒のX代でした。記憶は既に曖昧ですが確か品川22か118からあった
と思います。
この時はX代とW代がほぼ同時くらいのタイミングで投入されました。そしてW代の登録番
号は品川22か160番台でありX代の登録番号のほうが若番というねじれ現象が見られまし
た。
あの頃は似たようなことが他にもありましたね。都電35系統廃止で投入された巣鴨営業所
のいすず車はP代(練馬2う12-??)、その後廃止された都電17系統の代替バスは日産デで
大塚営業所N代(練馬2う13-??)など。
45 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
▼PLせつなさん:
毎々お世話様です。興味深く拝読させて頂きました。
当方記憶と差異があるところを披露させて頂きます。
> 昭和41年度(M代)
> 基準シート配列を三方シートに変更
中扉まで前向きシートのタイプ(セミクロス?)もその三方シートに含まれるので
しょうか?
含まれないとしたら品川、目黒ではM代、N代前半はセミクロスでした。
N代は、
品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
ということで、境目は939と940となります。局番については申し訳ありませんが
忘れました。
その他、特異車として、
練馬2う1111〜1112 日野、富士重 セミクロス 目黒
が前期に投入されております。杉並に投入予定であったのでしょうか。
帝国ボデーばかりであった目黒車庫でしかも練馬ナンバーということもあり異彩を
放っておりました。後のT代投入時練馬ナンバーのまま品川車庫に転属、暫くして
品川ナンバーとなりました。
> 昭和43年度(RS代)
> 側面幕を扉上から脇に移設
側面幕を扉上から脇に移設はS代です。
渋谷車庫には都電9,10系統の代替バスがそのタイプで投入されました。
あと、S代後期でのロールカーテン廃止は自分としては強く記憶に残っております。
(目黒車で確認)
また、S代後期では、ワンマン入口、出口の幕が幕では無くHゴムで抑えられたプ
レートになりました。照明は存置。ツーマン時はワンマン入口、出口の上にサボを
被せる形で出入口と表示されるようになりました。(目黒車で確認)
> 昭和44年度(TV代)
> 中扉半開構造を廃止(?)
これ、多分S代後期ではないでしょうか?車掌代の扉開閉スイッチが運転席にあるのと
同形状のものに簡素化されましたから。(目黒車で確認)
あと、S代までは側面後方に記されていた局番がT代から背面の窓センターに記される
ようになりました。また側面前方の局番表示サイズがやや大きくなりました。
> 昭和49年度(B代)
> 前面窓が4枚(曲面−平面−平面−曲面)構造から2枚構造に
これはA代からですね。同時に前面窓は青っぽい熱線吸収?タイプとなりました。
> 幕照明を蛍光灯に変更
これは側面、背面幕であると思いますが、渋谷のZ代が最初であり、A代も蛍光灯でした
がB代ではなぜか電球に戻ってしまいました。(目黒車で確認)
C代からは蛍光灯となりました。
側面幕については記憶が確かではありませんが渋谷、目黒、品川の背面幕については
確かです。
以上です。
51 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/9/28(水) 0:55 -
|
▼PLせつなさん:
いつもお世話になります。
上記の通り、了解致しました。
ただ、折角のご返信に、お返事を書かないと、申し訳ないと思いました。
引用のほうは、これから気をつけてまいりますので、これからも、宜しくお願い致します。
66 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012017.bbtec.net>
|
PLせつな
- 05/9/28(水) 2:42 -
|
きつね さん:
ご無沙汰しております。
一ノ橋の件などでは、色々と有益な意見をいただきありがとうございました。
さて、
>推測ですがコストダウンではないでしょうか?
どの本だったか覚えていないのですが、経営が苦しい中で代替用の新車を
大量導入しなければいけなかったため、様々な面でコストダウンが図られた
という記述を読んだ記憶があります。41〜47年度まで、通常の倍のペースで
新車を入れ続けるというのは大変なことでしょうね。
特にN〜Z代に関しては、年中のべつまくなしに新車を入れていた感じで、
昭和44年度のTV代は全7回導入になったと伺ったことがありますので
前期・後期と分けるのは難しいところがあるかもしれません。
>その他、ジャリジャリした感触のシートがW代からC代まで採用されましたが
>あれもコストダウンなのでしょうかね?
これはどういうシートだったのでしょうか。
確か、D代で薄いクッションシートになって、E代からややふかふかのシートに
なったと伺ったことはありますが…
>あと、前面の方向幕の件ですが、T代までは起点終点併記式でしたがV代で
>終点のみの記述となりました。
なるほど、その時からなのですね。本で一回、F〜G代あたりで「渋谷駅−
東京タワー」という両方向式の前面幕を出した写真がありましたが、昔の
幕を移設したのかもしれません。
>K代にはありました。新宿、杉並の車両はK代まで前向きシートです。
>城南地区(渋谷、目黒、品川)はセミクロスとでもいうのでしょか、
>前半分と最後列雛壇の手前が前向きシートでした。
すみません、用語の定義を統一したいのでお伺いしますが
前向き…全座席が前向き
三方シート…全座席が車内向き
セミクロス…中扉より後ろが車内向き、前は前向き
ということでよろしいでしょうか。
>同時期、四谷駅に足立ナンバーのクレハ車が出入りしておりましたが
四谷駅に入ってくる足立ナンバーの呉羽!? 何じゃそりゃ……と5分ほど
考えて分かりました、昭和41年10月末廃止の46系統(四谷駅〜一番町〜九段下・
代官町循環)ですね。3系統あった官庁街連絡線の名残で、なぜか新谷町が
伝統的に所管していました。そのK代と46系統というとりあわせは
僅かな期間だったのではと思います。
そういえば幕ということでご質問なのですが……
添付のタイプの系統幕に、見覚えはありますでしょうか。
こんな書き方をした幕は他にあったのでしょうか(経由地と系統番号部を
いっしょにしてしまった一時期の東急並のみづらさです)、気になります。
(撮影:naganoさん)
46 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/28(水) 3:00 -
|
東武指令さん:
色々とありがとうございます。
滝野川(昭和町)の配置について
またまた昭和52年の配置ですが、12月の大改編の直前は以下のような車が在籍
していました。
昭和40年度 K代 BA741(富士) 7両
昭和41年度 M代 BA20(富士) 10両
昭和43年度 R代 BU05D(川重)24両
昭和43年度 S代 BU05D(富士)29両
昭和44年度 V代 BU05D(富士)4両
昭和46年度 X代 BU05D(川重)3両・BU05D(富士)6両
昭和47年度 Z代 BU05(川重)4両・BU05D(富士)4両
昭和49年度 A代 BU04V(富士)2両
昭和49年度 B代 BU04V(川重)9両
昭和50年度 C代 BU04V(川重)18両
昭和52年度 E代 BU04V(富士)7両 計127両
実に半分近くをR・S代で占めていたことになります。どれが昭和町の車かは
分からないのですが、Rの24両はおっしゃる通りトロリーバス代替専用車です。
(S代のほうはツーマン車の大量置き換え用かもしれません)
あとはX代の川重3両(X412〜414)、A代1両(A582)が昭和町だったようです。
また、3E(前面が傾斜でないやつですよね)は確かにA代からですね。
RS代の反動か、TVは少なくWは0両でしたので、このうち背面幕省略世代と
いうと、X代・Z代が該当します。
>昭和46年度 X代 BU05D(川重)3両・BU05D(富士)6両
>昭和47年度 Z代 BU05(川重)4両・BU05D(富士)4両
順にX412〜414、X684〜689、Z552〜555、Z547〜551ですが、このうち弁当箱も
なかった可能性があるのはX代くらいでしょうか……。
41 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/28(水) 3:19 -
|
>これによって、所有車による営業所の個性が芽生えるんですよね。
確かにそうですね。調べていて印象深いのが小滝橋です。
昭和43年の都電15系統廃止代替でR代が実に65両も入籍しました。その反動で
次の新車は46年のX代(20両)、49年のB代(わずか2量)と大幅に間が
空いています。
その後昭和50年代の改編で大幅に減車されますが、それでも新車代替される分は
H代K代(昭和55〜56年度)あたりで少しずつ代替され、H代は21両もいましたが
少しは散らばってきました。
と思ったら八王子の廃止で余った中型車が新宿経由でやって来てM代が代わりに
新宿に召し上げられ、K代のあとはN代(昭和59年度)までいなくなりました。
それでもFGHK代と分布していたのが、今度は平成初期の「排ガスK−規制は
全部除籍で大量新車導入作戦」が出てきて、4年分の車を2年分(WX代)で
全部置き換えたために、またいびつな車齢ピラミッドになりました。
N代(昭和59年度)の置き換えはA代(平成6年度)なのでYZ代はおらず
最近の置き換えでもHKL代と2年分の車を3年分で置き換えて分散させたものの
今のMN代がいないのは相変わらずです。
一言で言えば、都電代替のR代を主に置き換えたH代、を主に置き換えたW代、を
主に置き換えたK代は数が多い、ということで。
68 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/28(水) 3:32 -
|
▼きつねさん:
>毎々お世話様です。
どうもお世話様です。
>
>> X512は品川22か127でしたから、W470〜476は品川22か120〜126という
>> ことになりますか。
>
>これは当方記憶と異なります。
>品川22か120前後は目黒のX代でした。記憶は既に曖昧ですが確か品川22か
>118からあったと思います。
え、そうだったのですか。この当時は、大昔のようにナンバーの番号だけ
先にある程度割り当てを受けておいたのかもしれませんね。
そうでないと説明がつきません……
目黒のX代で該当するのはX477〜486、X469〜471の13両です。3両だけ飛び番です。
いずれも昭和46年度のはじめに入籍しているので、これのいずれかでしょうが…
(ほかにX621〜636もありますが遅いほうなので関係ないでしょう)
品川のW500〜511のA-W511が品川22か101なのですが、M-W***はもっと遅い番号を
つけられたということですね。
>あの頃は似たようなことが他にもありましたね。都電35系統廃止で投入された巣鴨営業所
>のいすず車はP代(練馬2う12-??)、その後廃止された都電17系統の代替バスは日産デで
>大塚営業所N代(練馬2う13-??)など。
都電35系統廃止>昭和43年2月25日
このときは、巣鴨にP代が56両大量入籍しています。
都電17系統廃止>昭和43年3月31日
これの代替はたぶん、大塚のP代(いすゞ)だと思うのですがいかがでしょう。
大塚にはその前にもN代の富士重工車がいたようですが
これを日産ディーゼル車と見間違えたということはありませんでしょうか。
54 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
▼PLせつなさん:
こんばんは。
>目黒のX代で該当するのはX477〜486、X469〜471の13両です。3両だけ飛び番です。
飛び番はあったような無かったような。当時、目黒の車両の登録番号は殆ど全て
記憶していたのですがね。さすがに月日が経ちすぎました。
>(ほかにX621〜636もありますが遅いほうなので関係ないでしょう)
X代は品川22か2?? というのがありましたからX621〜636はそちらでしょう。
>品川のW500〜511のA-W511が品川22か101なのですが、
これは、W代でも初期のグループです。このグループから背面の方向幕が廃止に
なりました。余談ですが、日野車のヘッドライトが登場時から4灯になったのは
このグループからです。それ以前の楕円形のヘッドライトは後に4灯に改められ
ました。
目黒のW代(品川22か16?)はX代と同時(というか現認したのはW代のほうが
やや後なのですが)のもので異なるグループです。見分け方は前面窓上部のワン
マン表示です。
品川22か101ではワンマン表示が行燈式?になっていると思います。品川22か16?
ではコストダウンでプレート式になっていたと記憶しております。
話は逸れますが、行燈式ワンマン表示の件に触れておきます。これ、当時2種類
存在しておりました。メーカーが異なり2社購買であったのかも知れません。都営
バスでは営業所により車両のメーカー指定がなされておりますが(最近は法則崩れ
が顕著)、この行燈式ワンマン表示も営業所別メーカー指定?であってその法則は
頑ななまでに守られておりました。
やまひろ交通局さんのHPに昭和50年代前半「大井町界隈」というコンテンツが
あり、その中に品川2う711と756の日野車の画像があります。その711のほうは品川
営業所生え抜きの車両ですが、756は目黒からの転属車です。見分け方は行燈式ワン
マン表示の書体にあります。
756の「ワンマン」の表示は「ン」の字がやや小さいものになっております。
同じ日野車でも、
杉並は「ン」小タイプ。
目黒は「ン」小タイプ。
品川は「ン」並タイプ。
でした。<注> 但し、V代からは杉並と品川の関係(法則)が逆転します。
日野以外も同様に法則がありました。
ちなみに
渋谷は「ン」小タイプ。
新宿は「ン」小タイプ。
>これの代替はたぶん、大塚のP代(いすゞ)だと思うのですがいかがでしょう。
>大塚にはその前にもN代の富士重工車がいたようですが
>これを日産ディーゼル車と見間違えたということはありませんでしょうか。
当方、517系統でP代(いすゞ)を見た記憶が全く無いのですが。
記憶が定かではないのですが、言えることは535系統スタート時は(多分)全てが
いすゞ+川重またはいすゞ+富士重のP代新車であったの対し、517系統では
既存のいすゞ車混在で新車は日産デのN代であったことです。
見間違えは無いです。当時の日産デは2灯式であり、いすゞ+富士重の4灯式とは
顔つきが全く異なっておりましたから。
また、当時の塗装はペールオレンジ(肌色)に赤帯で、Hゴムが派手な水色という
いでたちでしたが水色のHゴムは褪色や汚れが目立つものでした。その対策か否か
はわかりませんがP代のHゴムはややおとなしめな水色になったと思います。大塚の
日産デN代はそれよりも更におとなしめな水色になっており、他のN代富士重車とは
異なる特徴を持っていたことと、P代よりも大きな登録ナンバーから当時の「新車」
ではないか?と考えております。
PLせつなさんはいすゞ指定の大塚に日産デという話しであったので疑問を持たれた
のでしょうか?
当時は他にも法則崩れがありましたが、長くなりますので別途機会がありましたら
述べさせて頂きます。
64 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
> 幕照明を蛍光灯に変更
絡みで思い出したことがあります。
B代ですが、後期型が存在していたような記憶があります。
大半はバス窓で背面幕が電球の前期型ですが、サッシ窓のB代日野車、足立ナンバー
のサッシ窓のB代クレハ車が小数存在していたような記憶があります。
それらの背面幕照明については全く記憶が無いのですが、蛍光灯であるとすると
B代から蛍光灯という話と合致するかも知れませんね。
54 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
▼PLせつなさん:
こんばんは。
>昭和44年度のTV代は全7回導入になったと伺ったことがありますので
>前期・後期と分けるのは難しいところがあるかもしれません。
そうなのですよ。どのような表現で文章にしたら伝えられるのか迷いました。
>>ジャリジャリした感触のシート
>これはどういうシートだったのでしょうか。
表面がマジックテープのようというかスポンジのよう、というか ...。
それ以前の都営バスのシートの色は緑、青とも褪色や汚れが少々目立つもの
であり、このシートでは濃い目の青系となったことで汚れ対策としては有効かな?
と思っておりました。確かに汚れは目立たなかったように思いますが摩耗が
早く素地が点々と見えるような状態になっている車両が多く見られました。
このタイプのシート生地は当時、民営バスでも広く使われていました。神奈中
では比較的長く採用されていて近年まで見られました。(まだどこかに残っている
可能性もありそう。)
>確か、D代で薄いクッションシートになって、E代からややふかふかのシートに
>なったと伺ったことはありますが…
D代とE代の違いはわからないです。
C代からD代は大きな変化がありましたね。「ジャリジャリ」で無くなり、パイプ椅子
でも無くなりましたので。
<注>富士重工とクレハ車はC代以前もパイプ椅子ではありませんでした。
>なるほど、その時からなのですね。本で一回、F〜G代あたりで「渋谷駅−
>東京タワー」という両方向式の前面幕を出した写真がありましたが、昔の
>幕を移設したのかもしれません。
いや、距離の短い系統ではV代以降も起終点併記の方向幕のままでした。
渋谷営業所では、日赤産院系統(渋谷、恵比寿発)とタワー系統がこれにあたります。
>前向き…全座席が前向き
>三方シート…全座席が車内向き
>セミクロス…中扉より後ろが車内向き、前は前向き
>ということでよろしいでしょうか。
当方もどのような用語が良いのかよくわかりませんのでお決め頂けると嬉しいです。
>添付のタイプの系統幕に、見覚えはありますでしょうか。
見たことは無いですが、どうみても弁当箱用ですね。
何かの間違いなのか意図的なものなのかはわかりませんが。
61 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
|
PLせつな
- 05/9/29(木) 3:11 -
|
こんにちは。
>中扉まで前向きシートのタイプ(セミクロス?)もその三方シートに
>含まれるのでしょうか?
>含まれないとしたら品川、目黒ではM代、N代前半はセミクロスでした。
>
>N代は、
>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
>品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
>品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
>
>ということで、境目は939と940となります。局番については申し訳ありませんが
>忘れました。
まず昭和42年度の車の入り方から……以下のようになっていたようです。
N400〜415 いすゞ(富士)BA20
N416〜436 いすゞ(川重)BA20
N450〜463 いすゞ(川重)BU05D
N464〜468 日野(富士)RB10
N469〜478 日野(帝国)RB10
N479〜494 三菱(三菱)MR480
N495〜514 日デ(富士)4R94
N515〜541 日野(富士)RB10←都電代替
N550〜591 日野(帝国)RB10←都電代替
N592〜611 三菱(三菱)MR480←都電代替
N612〜638 三菱(呉羽)MR480
N650〜662 日野(帝国)RE100
N663〜683 日デ(富士)4R94
P401〜428 いすゞ(富士)BU05D←都電代替
P451〜499 いすゞ(川重)BU05D←都電代替
いすゞのBU05、日野のRE100は型式が新しいので少なくとも後期に導入された
ことが明らかです。それにしてもヘンな並び順です。
さて、おっしゃる件ですが
>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
この条件にあてはまるのはN469〜473(品川)、474〜478(目黒)です。
>品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
N464〜468のいずれかと思います。
>品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
実際は942、949は欠番なので8両だと考えます。これより、N592〜611のうち8両
>品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
これが前おっしゃっていた「田町分車庫」配属分ですね。
これはN550〜591で決まりでしょう。下2桁が揃っているのは偶然?
>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
N592〜611のうち13両。……あれ、1両合いません。
そのほか、N612〜617(呉羽)も渋谷にいたようですが新製時からいたのかは
分かりません。
>その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
都電代替で入ったと思われるN515〜541がまだ残っていますので、それですね。
すなわち、都電代替分として昭和42年12月に入ったのが品川2う940〜の部分と
思われます。輸送力確保のために三方シートにしたのではないかと思います。
あとは品川ナンバーで確定しないのは、品川のN464〜468(富士)と
目黒のN650〜657(帝国)です。N658〜662は杉並分のはずなので……
過去の田町分車庫のときにおっしゃっていた
>品川2う10-62〜10-64
が終わりのほうの導入のN650代にあたりそうですね。
>その他、特異車として、
>練馬2う1111〜1112 日野、富士重 セミクロス 目黒
>が前期に投入されております。杉並に投入予定であったのでしょうか。
面白い処置をした車があったのですね。先にナンバーだけやはり割り当てて
あったので、このようなことが起こったのでしょうか……しかもそのまま数年
走ったというのも面白いです。
これも、該当しそうな車はN464〜468しかありません。
[#9224]のご発言について:
>当方、517系統でP代(いすゞ)を見た記憶が全く無いのですが。
>記憶が定かではないのですが、言えることは535系統スタート時は(多分)全てが
>いすゞ+川重またはいすゞ+富士重のP代新車であったの対し、517系統では
>既存のいすゞ車混在で新車は日産デのN代であったことです。
>見間違えは無いです。当時の日産デは2灯式であり、いすゞ+富士重の4灯式とは
>顔つきが全く異なっておりましたから。
そうすると、大塚のN代はまず代替用として日デが入籍したのですね。
上の表のうちもN495〜514は江東(→一部葛西に転属)の分のはずであり、
該当する車はN663〜683しかありません。その数21両です。
なお、昭和45年度末の簡易配置表では志村を除き1営業所1メーカーだったので
それ以前に転属したことになります。
また、代替と思っていた大塚にいたP代(いすゞ川重)は、P479〜499の
21両。数はぴったり同じですね。
なお、巣鴨の代替用は、富士のP401〜428、川重のP451〜478の計56両が配置されて
運行にあたっていたようなので、こちらはご記憶の通りと思います。
ということで、合理的な説明を考えようとするなら、
1.代替用としてN代日デが21両配置される
2.P代いすゞが21両配置される
3.N代日デが練馬に転属
という順番になるのでしょうが……このN代や517系統について、時期などほかの
ご記憶はありますでしょうか?
>当時は他にも法則崩れがありましたが、長くなりますので別途機会がありま
>したら述べさせて頂きます。
ワン・ツーマン兼用車導入以降は法則を守っていると思っていたので
結構驚いております。よろしければ、この件についてはぜひお伺いしたいと
思います。
p.s.
>飛び番はあったような無かったような。当時、目黒の車両の登録番号は殆ど全て
>記憶していたのですがね。さすがに月日が経ちすぎました。
それでも凄いですね。
参考までに、目黒配置だったと思われる車を出しておきます。
全て日野−帝国(日野車体)です。もしかしたら元杉並車がまじっている
かもしれません。
RB10 M591〜M597(→品川転属)、N474〜478、N550〜591
RE100 N650〜657、R533〜535、S534〜540、T666〜693、V543〜545、W470〜476
Z423〜424
Z431〜437(→昭和56年頃葛西から転属)
A586(→昭和51年頃品川に転属)
B461〜466(→昭和50年代前半に品川に転属)
C401〜414(→一部が品川・杉並に転属)
E531〜537
F208〜214、F258〜264……
車体の装備の件に関しては、また後ほどお返事いたします。
58 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
懐かしい40年代の話題を拝見し、初めて投稿させていただきました。
私の記録によれば、N代車の入り方は次のようになっています。
(→以下が修正点です)
>N400〜415 いすゞ(富士)BA20
→418までが富士
>N416〜436 いすゞ(川重)BA20
→419から川重
>N450〜463 いすゞ(川重)BU05D
>N464〜468 日野(富士)RB10
>N469〜478 日野(帝国)RB10
>N479〜494 三菱(三菱)MR480
>N495〜514 日デ(富士)4R94
>N515〜541 日野(富士)RB10←都電代替
>N550〜591 日野(帝国)RB10←都電代替
>N592〜611 三菱(三菱)MR480←都電代替
>N612〜638 三菱(呉羽)MR480
→N643〜645 日野(帝国)RE100があり(品川配置)
>N650〜662 日野(帝国)RE100
→N658〜662は富士
>N663〜683 日デ(富士)4R94
また、練馬ナンバーの目黒車(日野/富士)というのは
M-N467・468の二台のことと思われます。
似たような例では、江東に配置されたL-R658・659の二台が
練馬ナンバーでした。R660以降の足立ナンバー車と同時期に
稼働し始め、かつ営業所記号の書き換え痕もなかった、と
記憶しています。何故なのか当時から疑問だったのですが
ようやく訳がわかりました。
68 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; MSOCD; AtHomeJP191; SV1; Al...@60-62-63-62.rev.home.ne.jp>
|
東武指令
- 05/10/1(土) 16:57 -
|
▼PLせつなさん:
>実に半分近くをR・S代で占めていたことになります。どれが昭和町の車かは
>分からないのですが、Rの24両はおっしゃる通りトロリーバス代替専用車です。
>(S代のほうはツーマン車の大量置き換え用かもしれません)
>あとはX代の川重3両(X412〜414)、A代1両(A582)が昭和町だったようです。
R代は全車が昭和町に常駐していたと思います。
昭和町は詰所とモータープールはそれなりにありましたが、検修施設が充実して
おらず結果的に車検や点検時には代車が出てました。
B代、C代の川重車も乗車した事があります。
X代とA代は点検時の代車かと思ってましたが配置だった訳ですね。
昭和町の車は所属表記が全部「滝野川」でしたので判断が難しかった訳で幼少の頃
からの謎が一つ解けた感じです。
S代は確かに多かったですよ。
相当昔にお話してると思いますが、このS代かM代のツーマン運行に乗車した事
があります。(王45ですね)
この代は車掌台がまだ完璧に残る車で、入口・出口表記は幕式、車掌用ブザーや
中扉開閉用のドアSWなんかも残ってました。
>また、3E(前面が傾斜でないやつですよね)は確かにA代からですね。
その後のH(K)代までは3Eですね。
M(L)からが5E、Vからが7Eですか。
> X412〜414、X684〜689、Z552〜555、Z547〜551ですが、このうち弁当箱も
> なかった可能性があるのはX代くらいでしょうか……。
他所は分かりませんが滝野川・志村は弁当箱無しは存在していなかったと記憶。
登場時は分かりませんが・・・・
48 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@210.227.113.138>
|
PLせつな
- 05/10/1(土) 22:06 -
|
きつね さん:
仕様変化の補足をしていただき、ありがとうございます。
そうすると、蛍光灯の件は
Z代(昭和47年投入分)−電球
Z代最終(昭和48年春投入分、渋谷)−蛍光灯
A代(昭和49年夏投入分)−蛍光灯
B代前期(〜B509、昭和49年秋投入分)−電球
B代後期(B510〜、昭和50年3月投入分)−蛍光灯
ということでしょうか。確かにB代後期はごく少数で
ふそうが千住・新谷町に4両、日野が品川に2両、いすゞが滝野川と深川に14両
あわせて20両のみだったようです。
また、椅子の件もよく分かりました。なるほど、神奈中にあるような
「ザラザラ」したあのタイプですね。
>いや、距離の短い系統ではV代以降も起終点併記の方向幕のままでした。
>渋谷営業所では、日赤産院系統(渋谷、恵比寿発)とタワー系統がこれに
>あたります。
[渋88]も「短い系統」に該当していたと、なるほど……
また、前面系統幕と弁当箱が同じ規格らしいことになりますね。
ねこまた さん:
はじめまして。貴重な情報、ありがとうございます。
杉並(のち一部青梅など)のN代は日野−富士だったのですか。
江東でも例があったとのこと、これも先に割り当てしてしまった(本当だったら
練馬か志村だった?)のでしょう。R658,659は末期は葛西に行ったようですね。
ところで記録をとっていられるとのことでお伺いしますが、どのような
記録をとられていたでしょうか。現在、車両本の制作途中ということもありまして
昭和40〜50年代の車両に関する記録を募集中なのでありますが……
記録間で矛盾を起こしているもの(転記ミス)や細かいデータが分からない
という部分もありまして、今なおデータをお持ちの方を探している状態で
あります。
79 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
ぽんぽこ
- 05/10/1(土) 23:05 -
|
▼東武指令さん、PLせつなさん、こんにちは。
>>あとはX代の川重3両(X412〜414)、A代1両(A582)が昭和町だったようです。
A582ですか? 581だった記憶が・・・。(滝野川本所が580)
>R代は全車が昭和町に常駐していたと思います。
はい、これは間違いありません。
私が滝野川に出入りしていた頃の本所側の最古参がS代で、北への統合直前になって、昭和町と一部運用の混合が発生するようになって、突然R台が出て来てびっくりした記憶があります。
>B代、C代の川重車も乗車した事があります。
最終的にはBだかCも一時的には数台、昭和町扱いで在籍していたような記憶があるのですが、この辺はやや曖昧です。
>昭和町の車は所属表記が全部「滝野川」でしたので判断が難しかった訳で
そうですね。「支所」ではなく、最近で言うところの「分駐所」扱い、確か当時は「分車庫」と言っていたような・・・。
>他所は分かりませんが滝野川・志村は弁当箱無しは存在していなかったと記憶。
>登場時は分かりませんが・・・・
私もこれに同意です。登場時はともかく、最終的には「無し」の車は記憶にありません。
>S代は確かに多かったですよ。
中でも異色で記憶に残っているのがN−S512。今と違って当時は担当乗務員制でしたから。この車の担当の方が、非常に車を大事にされる方で(見ていて「溺愛」に近かった・・・)食入や中休の際には「愛車」の洗車を怠らず、それもタワシやデッキブラシに洗剤たっぷり付けて、ゴシゴシやったものだから、キレイはキレイなんですが、全体的に塗装の色調が薄れてしまい、真っ白い車体に薄っすらと青い線の入った、他車と並べて停まっていると絶対に違和感を感じる1台でした。
昨今のように担当制がなくなり、管理が曖昧になって荒れ放題になって車を見ると、当時は担当者によって運転台周りも微妙に個性がありました。
この頃の写真、我が家のどこかには相当数眠っているはずなんですが・・・。
残念ながら、昨年の引越しのどさくさで、未だ埋もれていて発見できません。
見つかったら順次公開したいとは思っているのですが・・・。
62 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@210-160-195-131.withe.ne.jp>
|
とうこうしゃ
- 05/10/2(日) 0:53 -
|
▼ぽんぽこさん:
>「支所」ではなく、最近で言うところの「分駐所」扱い、確か当時は「分車庫」と言っていたような・・・。
後面方向幕の話ではありませんが…
昭和町は「滝野川自動車営業所昭和町分車庫」という呼称でした。
当時は分車庫と呼ぶスタイルが多く、格付けをすると営業所、支所、分車庫、操車所の順になります。ただし、支所の下に分車庫はこず、分車庫の下に操車所はこないという約束事があるようです。
今の深川営業所も、その前身は州崎自動車営業所東雲分車庫という名称で現在の都橋住宅の場所にありました。
昭和町分車庫がなくなって以後、分車庫という呼称はありませんでしたが、昭和62年の臨海自動車営業所発足時に、船堀駅前にあったそれまでの江戸川営業所を「臨海自動車営業所船堀分駐所」とし、現在は東小松川分駐所へ移転しています。
実質的にこれが分車庫に代わる組織といえます。最近では港南分駐所が支所に格上げされましたね。
>昨今のように担当制がなくなり、管理が曖昧になって荒れ放題になって車を見ると、当時は担当者によって運転台周りも微妙に個性がありました。
乗務員氏より担当車制という概念は現在でもあると聞いています。
都市新バスや、中型車専用系統、また都01・02のように中型系ノンステップバスを極力運行しないような系統など、車両運用に制約があり担当車を持っていても走れないケースが多いこと、週休二日になったこと、以前に比べ車両数が少なめになっていることなど、自分の担当車に乗る機会が減っているのは間違いないようです。このような様々な要因により、結果として車両の手入れが行き届かなくなったという印象を受けられているのでないかと思います。
運転台周りも微妙に個性…というのは私も同感です。
運転席付近に交通安全のスズメの置物(金メッキが施されたもの)や、サンバイザーやワンマン札の部分にぬいぐるみがぶら下がっているなど、担当乗務員氏の主張とでも言いましょうか、仕事に対する良い意味での姿勢の現れを車両から見て取れるような光景が多かったですね。
また、古い車(非冷房車の時代)にはなぜか運転席の右後方に一輪挿しがついていたりして独特の風情というか情緒を感じさせられるものがありましたが、最近では経営側の管理という側面もあるのか、このような個の主張的なものは見られなくなってしまいました。
その代わりといいますか、みんくるのシールをあちらこちらに貼っている車両や、各営業所独自に車内事故防止の啓発ポスターやステッカーを見るようになりました。
63 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.0; .NET CLR 1.1.4322)@25.143.150.220.ap.yournet.ne.jp>
こんばんは。
ねこまたさん、はじめまして。
▼PLせつなさん:
>>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
>この条件にあてはまるのはN469〜473(品川)、474〜478(目黒)です。
これは確定ですね。新製時目黒配属、その内、933〜937は目黒配属でT代投入時(代替バ
ス534系統開通時)品川に転属です。
余談ですが、同時転属のM591〜M597(品川2う755〜761)は代替バス534系統開通の前日
まで目黒に居たと記憶しております。前日は転属の準備として局番M-M59?の目黒を表すM
が赤く塗られ消された状態で運用に就いているのを目撃しました。
更に余談ですが、その内M597(品川2う761)は品川転属後、事故?で前面と前扉がRE100
の帝国ボデータイプとなりました。ひさし付きの前面でヘッドライトは原形と変わらず
丸型、ウインカーランプはT代以降のタイプ、外塗装は赤帯という異色車でした。
>これはN550〜591で決まりでしょう。下2桁が揃っているのは偶然?
これについては完全に確定です。下2桁が揃っていたのは記憶にしっかり残っております。
>>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>N592〜611のうち13両。……あれ、1両合いません。
登録ナンバーについては間違いありません。渋谷に品川2う1005は存在しませんでした。
品川2う991は目黒ですので13両です。
あいにく局番との対応が取れません。画像が1枚でもあれば追えるのですがね。
>あとは品川ナンバーで確定しないのは、品川のN464〜468(富士)と
>目黒のN650〜657(帝国)です。N658〜662は杉並分のはずなので……
これについては疑問があります。
杉並分N代日野車のボデーは、ねこまたさんも述べていらっしゃるように富士重工です。
都電11系統代替バスとして登場したと記憶しております。登録ナンバーは練馬2う11??で
した。
楕円のヘッドライトがセンターに寄った形でレイアウトされた独特の顔つきでした。
ヘッドライトの位置はT代の日野(富士重工)でバランスが良いものとなりました。
また、品川営業所に品川2う1060〜1061が配属されておりましたので、N650〜657が
目黒ということになりますと品川営業所分が無くなってしまいます。
品川2う1062〜から目黒ということにしますと台数から逆算すると品川2う1070まで
目黒ということになります。1065〜1070は記憶が曖昧なので未確定ですが、品川営業所
に比べて目黒に配属された台数はかなり多かったと記憶しております。
>N464〜468 日野(富士)RB10
で5台となりますが、
品川2う938〜939 品川営業所 と、
練馬2う1111〜1112 目黒営業所
がその中に含まれる可能性は極めて大ですが1台足りません。
練馬ナンバーでは
練馬2う1109〜1110 いすゞ(川重)BA20 新宿営業所
が存在しました。また、
>練馬ナンバーの目黒車(日野/富士)というのは
>M-N467・468の二台のことと思われます。
とねこまたさんが05/9/30(金) 0:54 で記されており、練馬ナンバーは前が塞がってお
り、局番対応では後ろも塞がれた形、品川ナンバーも前に述べた通り前後が塞がれた形と
なっております。
当方の記憶である品川2う940三菱(三菱)渋谷営業所が日野(富士重工)で品川営業所
配属であったとしたらつじつまが合う形(計5台)となります。品川2う940については
記憶に自信が無い状況に陥りましたので保留ですね。
>N612〜638 三菱(呉羽)MR480
>そのほか、N612〜617(呉羽)も渋谷にいたようですが新製時からいたのかは
>分かりません。
新製時から居たのは品川2う1080〜1081の2台です。1082も居た可能性がありますが
やや記憶に自信がありません。1082(または1083)〜は法則崩れで杉並に新製配属
されました。時期は都電11系統代替バス開通時です。記憶では〜1085まで確定です。
運用は511系統指定ではなく当時のワンマン系統である5系統でもよく見かけました。
局番はしっかりD-と記されておりました。その後渋谷と早稲田に分かれて転属しました。
早稲田に行ったものはその後練馬ナンバーとなりました。転属は美濃部色の時代であ
り方向幕が青文字となり1080〜1081の黒文字と明確に区別がつきました。
>ワン・ツーマン兼用車導入以降は法則を守っていると思っていたので
>結構驚いております。よろしければ、この件についてはぜひお伺いしたいと
>思います。
当方記憶している大きな法則崩れは上記杉並の例です。
その他、法則崩れというわけではありませんが、
1.602系統(池86)開通時はR代投入まで暫くの間、各営業所から集められたツーマン車
であり、メーカーは各社存在しました。
2.113系統、高速道路経由開通時、小滝橋のR代(当時の120系統専用車)を使用。開通
記念に美濃部色の新車を借用したのでしょう。方向幕、系統幕は正式のものであった
ようです。当時の読売新聞に写真が載っておりました。
3.509, 510系統開通時、新車の数が不足したのか、大塚のM代いすゞ/川重(登録番号
練馬2う95?)、江東の日産デ/富士N代(登録番号 足立2う27??から推定)が76系統
に、巣鴨のいすゞ/富士P代が1系統で使用されておりました。系統指定であったよう
です。局番はB-に書き換えられておりました。その他、三菱/三菱N代(登録番号 足
立2う27??)もさり気なく混ざって代替バスの運用に就いておりました。
>1.代替用としてN代日デが21両配置される
>2.P代いすゞが21両配置される
>3.N代日デが練馬に転属
後にN代日デが練馬で運用に就いていたのは目撃しておりますが、転属の時期については
記憶なしです。
87 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98)@eatkyo568252.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
|
ねこまた
- 05/10/4(火) 17:21 -
|
▼PLせつなさん:
こんにちは。お返事遅くなり恐縮です。
>ところで記録をとっていられるとのことでお伺いしますが、どのような
>記録をとられていたでしょうか。
S39年度のG代ワンマン車以降についての局番と車種の一覧表、および
S43年以降の全乗車記録です。
ただ如何せん小中学生時代に作り始めたモノですから、「局番・車種一
覧表」の特にS40年代の部分に関しては、以下のようにいろいろと不備
な点や欠落があります。
★登録番号については記録なし。したがってG〜K代の改番前の局番
との対照も不明です。ただ、地元の江東・(旧)江戸川・今井・葛西
の各所の車については上2桁分の「記憶」くらいならありますが。
★転属については、上記地元4営業所・支所にからむものは一部記録
していますが、年月が不明になってしまっているものもあります。
★S代(S43)までは、局番自体の記録に一部欠落あり。滝野川・練
馬・小滝橋・千住など乗車機会がほとんどなく縁の薄かった営業所の
部分が中心です。
何しろ、自分一人の「目視」によってコツコツ作った代物に過ぎません
ので、まぁこんな具合なのですが。いかがなものでしょう?
87 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; MSOCD; AtHomeJP191; SV1; Al...@60-62-63-62.rev.home.ne.jp>
|
お好み玉子
- 05/10/4(火) 17:44 -
|
▼PLせつなさん:
こんばんはです。
10月2日の一日乗車では、王40にNが現れたり、池袋に国勢調査のラッピングが2台(王40、草64)並んでいたり、都02乙にZが現れたり(ハイバックシートは気持ちいいから好き)、些細ですが、いろんなことがありました。
>確かにそうですね。調べていて印象深いのが小滝橋です。
小滝橋には、A534〜540、C212〜215、D292〜294など、IKC指定の営業所でありながら、巣鴨に似た車を所有するといった、ある意味個性派なのです。あと、中型車の所有も特徴の一つです。
あと、CNG(C〜H)、いすゞ(滝野川・X592)、日野(F463・ブルリ2)を所有する北営業所も個性があります。
72 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@YahooBB219197012044.bbtec.net>
|
PLせつな
- 05/10/6(木) 7:43 -
|
▼ねこまたさん:
お返事ありがとうございます。
>S39年度のG代ワンマン車以降についての局番と車種の一覧表、および
>S43年以降の全乗車記録です。
>ただ如何せん小中学生時代に作り始めたモノですから、「局番・車種一
>覧表」の特にS40年代の部分に関しては、以下のようにいろいろと不備
>な点や欠落があります。
まめにされていたのですね。
なさった記録は十分に素晴らしいものと思います。
現在、ご存知かもしれませんがこちらでは都営バス車輌全集というのを同人で
作っておりまして、車両の記録を集めております。最近のはだいたい集まって
きたのですが、昭和40年代は色々なところが穴あき状態で、昭和50年代は穴は
あまりないものの転属や一部の車号の記録が怪しいものや欠けているところが
虫食いのように存在しており、比較対照となる車両のデータを参考にしたいと
いう状況です。(各々の資料にも当然のように記憶違いや書き間違いが
ありますので、複数のものにあたることでより確かなものにしたいと思って
います)
ご相談というか、お願いになるのですが、それらを
ご提供してはいただけないでしょうか。
(お礼はいたします)
よろしければ自分のメールアドレスpluto@pobox.ne.jpまでメールをくだされば
と思います(メールがない場合はこちらに返信いただければ)。
昭和40年代後半以降は江東から葛西・今井に行った車がぽろぽろと存在していて、
それぞれの時期がいつなのか等、なかなか詳細がつかみづらいところです。
94 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@cj89.opt2.point.ne.jp>
|
日野石田
- 06/2/13(月) 21:01 -
|
ここで質問ですが昭和43年代の車輌のうちR代は記憶では方向幕が扉の上に設置されていたはずです。この年に美濃部色が誕生し、6月頃だったかと思われます。時期から換算するとR代の初期に都電色があったということも考えられそうですが都電色の車輌は在籍していたのでしょうか? そしてこの年式に限らず昭和44年・46年と局番が2つになっている年式がありますがこれは基本的にどう区分しているのでしょうか?
51 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90)@KHP059134057015.ppp-bb.dion.ne.jp>