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▼PLせつなさん:
毎々お世話様です。興味深く拝読させて頂きました。
当方記憶と差異があるところを披露させて頂きます。
> 昭和41年度(M代)
> 基準シート配列を三方シートに変更
中扉まで前向きシートのタイプ(セミクロス?)もその三方シートに含まれるので
しょうか?
含まれないとしたら品川、目黒ではM代、N代前半はセミクロスでした。
N代は、
品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
ということで、境目は939と940となります。局番については申し訳ありませんが
忘れました。
その他、特異車として、
練馬2う1111〜1112 日野、富士重 セミクロス 目黒
が前期に投入されております。杉並に投入予定であったのでしょうか。
帝国ボデーばかりであった目黒車庫でしかも練馬ナンバーということもあり異彩を
放っておりました。後のT代投入時練馬ナンバーのまま品川車庫に転属、暫くして
品川ナンバーとなりました。
> 昭和43年度(RS代)
> 側面幕を扉上から脇に移設
側面幕を扉上から脇に移設はS代です。
渋谷車庫には都電9,10系統の代替バスがそのタイプで投入されました。
あと、S代後期でのロールカーテン廃止は自分としては強く記憶に残っております。
(目黒車で確認)
また、S代後期では、ワンマン入口、出口の幕が幕では無くHゴムで抑えられたプ
レートになりました。照明は存置。ツーマン時はワンマン入口、出口の上にサボを
被せる形で出入口と表示されるようになりました。(目黒車で確認)
> 昭和44年度(TV代)
> 中扉半開構造を廃止(?)
これ、多分S代後期ではないでしょうか?車掌代の扉開閉スイッチが運転席にあるのと
同形状のものに簡素化されましたから。(目黒車で確認)
あと、S代までは側面後方に記されていた局番がT代から背面の窓センターに記される
ようになりました。また側面前方の局番表示サイズがやや大きくなりました。
> 昭和49年度(B代)
> 前面窓が4枚(曲面−平面−平面−曲面)構造から2枚構造に
これはA代からですね。同時に前面窓は青っぽい熱線吸収?タイプとなりました。
> 幕照明を蛍光灯に変更
これは側面、背面幕であると思いますが、渋谷のZ代が最初であり、A代も蛍光灯でした
がB代ではなぜか電球に戻ってしまいました。(目黒車で確認)
C代からは蛍光灯となりました。
側面幕については記憶が確かではありませんが渋谷、目黒、品川の背面幕については
確かです。
以上です。
51 hits
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> 幕照明を蛍光灯に変更
絡みで思い出したことがあります。
B代ですが、後期型が存在していたような記憶があります。
大半はバス窓で背面幕が電球の前期型ですが、サッシ窓のB代日野車、足立ナンバー
のサッシ窓のB代クレハ車が小数存在していたような記憶があります。
それらの背面幕照明については全く記憶が無いのですが、蛍光灯であるとすると
B代から蛍光灯という話と合致するかも知れませんね。
54 hits
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PLせつな
- 05/9/29(木) 3:11 -
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こんにちは。
>中扉まで前向きシートのタイプ(セミクロス?)もその三方シートに
>含まれるのでしょうか?
>含まれないとしたら品川、目黒ではM代、N代前半はセミクロスでした。
>
>N代は、
>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
>品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
>品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
>
>ということで、境目は939と940となります。局番については申し訳ありませんが
>忘れました。
まず昭和42年度の車の入り方から……以下のようになっていたようです。
N400〜415 いすゞ(富士)BA20
N416〜436 いすゞ(川重)BA20
N450〜463 いすゞ(川重)BU05D
N464〜468 日野(富士)RB10
N469〜478 日野(帝国)RB10
N479〜494 三菱(三菱)MR480
N495〜514 日デ(富士)4R94
N515〜541 日野(富士)RB10←都電代替
N550〜591 日野(帝国)RB10←都電代替
N592〜611 三菱(三菱)MR480←都電代替
N612〜638 三菱(呉羽)MR480
N650〜662 日野(帝国)RE100
N663〜683 日デ(富士)4R94
P401〜428 いすゞ(富士)BU05D←都電代替
P451〜499 いすゞ(川重)BU05D←都電代替
いすゞのBU05、日野のRE100は型式が新しいので少なくとも後期に導入された
ことが明らかです。それにしてもヘンな並び順です。
さて、おっしゃる件ですが
>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
この条件にあてはまるのはN469〜473(品川)、474〜478(目黒)です。
>品川2う938〜939 日野、富士重 セミクロス 品川
N464〜468のいずれかと思います。
>品川2う940〜949 三菱、三菱 三方シート 渋谷
実際は942、949は欠番なので8両だと考えます。これより、N592〜611のうち8両
>品川2う950〜991 日野、帝国 三方シート 目黒(田町分車庫)
これが前おっしゃっていた「田町分車庫」配属分ですね。
これはN550〜591で決まりでしょう。下2桁が揃っているのは偶然?
>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
N592〜611のうち13両。……あれ、1両合いません。
そのほか、N612〜617(呉羽)も渋谷にいたようですが新製時からいたのかは
分かりません。
>その後に日野、富士重 ロング 品川が続きます。
都電代替で入ったと思われるN515〜541がまだ残っていますので、それですね。
すなわち、都電代替分として昭和42年12月に入ったのが品川2う940〜の部分と
思われます。輸送力確保のために三方シートにしたのではないかと思います。
あとは品川ナンバーで確定しないのは、品川のN464〜468(富士)と
目黒のN650〜657(帝国)です。N658〜662は杉並分のはずなので……
過去の田町分車庫のときにおっしゃっていた
>品川2う10-62〜10-64
が終わりのほうの導入のN650代にあたりそうですね。
>その他、特異車として、
>練馬2う1111〜1112 日野、富士重 セミクロス 目黒
>が前期に投入されております。杉並に投入予定であったのでしょうか。
面白い処置をした車があったのですね。先にナンバーだけやはり割り当てて
あったので、このようなことが起こったのでしょうか……しかもそのまま数年
走ったというのも面白いです。
これも、該当しそうな車はN464〜468しかありません。
[#9224]のご発言について:
>当方、517系統でP代(いすゞ)を見た記憶が全く無いのですが。
>記憶が定かではないのですが、言えることは535系統スタート時は(多分)全てが
>いすゞ+川重またはいすゞ+富士重のP代新車であったの対し、517系統では
>既存のいすゞ車混在で新車は日産デのN代であったことです。
>見間違えは無いです。当時の日産デは2灯式であり、いすゞ+富士重の4灯式とは
>顔つきが全く異なっておりましたから。
そうすると、大塚のN代はまず代替用として日デが入籍したのですね。
上の表のうちもN495〜514は江東(→一部葛西に転属)の分のはずであり、
該当する車はN663〜683しかありません。その数21両です。
なお、昭和45年度末の簡易配置表では志村を除き1営業所1メーカーだったので
それ以前に転属したことになります。
また、代替と思っていた大塚にいたP代(いすゞ川重)は、P479〜499の
21両。数はぴったり同じですね。
なお、巣鴨の代替用は、富士のP401〜428、川重のP451〜478の計56両が配置されて
運行にあたっていたようなので、こちらはご記憶の通りと思います。
ということで、合理的な説明を考えようとするなら、
1.代替用としてN代日デが21両配置される
2.P代いすゞが21両配置される
3.N代日デが練馬に転属
という順番になるのでしょうが……このN代や517系統について、時期などほかの
ご記憶はありますでしょうか?
>当時は他にも法則崩れがありましたが、長くなりますので別途機会がありま
>したら述べさせて頂きます。
ワン・ツーマン兼用車導入以降は法則を守っていると思っていたので
結構驚いております。よろしければ、この件についてはぜひお伺いしたいと
思います。
p.s.
>飛び番はあったような無かったような。当時、目黒の車両の登録番号は殆ど全て
>記憶していたのですがね。さすがに月日が経ちすぎました。
それでも凄いですね。
参考までに、目黒配置だったと思われる車を出しておきます。
全て日野−帝国(日野車体)です。もしかしたら元杉並車がまじっている
かもしれません。
RB10 M591〜M597(→品川転属)、N474〜478、N550〜591
RE100 N650〜657、R533〜535、S534〜540、T666〜693、V543〜545、W470〜476
Z423〜424
Z431〜437(→昭和56年頃葛西から転属)
A586(→昭和51年頃品川に転属)
B461〜466(→昭和50年代前半に品川に転属)
C401〜414(→一部が品川・杉並に転属)
E531〜537
F208〜214、F258〜264……
車体の装備の件に関しては、また後ほどお返事いたします。
57 hits
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懐かしい40年代の話題を拝見し、初めて投稿させていただきました。
私の記録によれば、N代車の入り方は次のようになっています。
(→以下が修正点です)
>N400〜415 いすゞ(富士)BA20
→418までが富士
>N416〜436 いすゞ(川重)BA20
→419から川重
>N450〜463 いすゞ(川重)BU05D
>N464〜468 日野(富士)RB10
>N469〜478 日野(帝国)RB10
>N479〜494 三菱(三菱)MR480
>N495〜514 日デ(富士)4R94
>N515〜541 日野(富士)RB10←都電代替
>N550〜591 日野(帝国)RB10←都電代替
>N592〜611 三菱(三菱)MR480←都電代替
>N612〜638 三菱(呉羽)MR480
→N643〜645 日野(帝国)RE100があり(品川配置)
>N650〜662 日野(帝国)RE100
→N658〜662は富士
>N663〜683 日デ(富士)4R94
また、練馬ナンバーの目黒車(日野/富士)というのは
M-N467・468の二台のことと思われます。
似たような例では、江東に配置されたL-R658・659の二台が
練馬ナンバーでした。R660以降の足立ナンバー車と同時期に
稼働し始め、かつ営業所記号の書き換え痕もなかった、と
記憶しています。何故なのか当時から疑問だったのですが
ようやく訳がわかりました。
67 hits
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PLせつな
- 05/10/1(土) 22:06 -
|
きつね さん:
仕様変化の補足をしていただき、ありがとうございます。
そうすると、蛍光灯の件は
Z代(昭和47年投入分)−電球
Z代最終(昭和48年春投入分、渋谷)−蛍光灯
A代(昭和49年夏投入分)−蛍光灯
B代前期(〜B509、昭和49年秋投入分)−電球
B代後期(B510〜、昭和50年3月投入分)−蛍光灯
ということでしょうか。確かにB代後期はごく少数で
ふそうが千住・新谷町に4両、日野が品川に2両、いすゞが滝野川と深川に14両
あわせて20両のみだったようです。
また、椅子の件もよく分かりました。なるほど、神奈中にあるような
「ザラザラ」したあのタイプですね。
>いや、距離の短い系統ではV代以降も起終点併記の方向幕のままでした。
>渋谷営業所では、日赤産院系統(渋谷、恵比寿発)とタワー系統がこれに
>あたります。
[渋88]も「短い系統」に該当していたと、なるほど……
また、前面系統幕と弁当箱が同じ規格らしいことになりますね。
ねこまた さん:
はじめまして。貴重な情報、ありがとうございます。
杉並(のち一部青梅など)のN代は日野−富士だったのですか。
江東でも例があったとのこと、これも先に割り当てしてしまった(本当だったら
練馬か志村だった?)のでしょう。R658,659は末期は葛西に行ったようですね。
ところで記録をとっていられるとのことでお伺いしますが、どのような
記録をとられていたでしょうか。現在、車両本の制作途中ということもありまして
昭和40〜50年代の車両に関する記録を募集中なのでありますが……
記録間で矛盾を起こしているもの(転記ミス)や細かいデータが分からない
という部分もありまして、今なおデータをお持ちの方を探している状態で
あります。
78 hits
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こんばんは。
ねこまたさん、はじめまして。
▼PLせつなさん:
>>品川2う928〜937 日野、帝国 セミクロス 目黒(T代投入時半分が品川に転属)
>この条件にあてはまるのはN469〜473(品川)、474〜478(目黒)です。
これは確定ですね。新製時目黒配属、その内、933〜937は目黒配属でT代投入時(代替バ
ス534系統開通時)品川に転属です。
余談ですが、同時転属のM591〜M597(品川2う755〜761)は代替バス534系統開通の前日
まで目黒に居たと記憶しております。前日は転属の準備として局番M-M59?の目黒を表すM
が赤く塗られ消された状態で運用に就いているのを目撃しました。
更に余談ですが、その内M597(品川2う761)は品川転属後、事故?で前面と前扉がRE100
の帝国ボデータイプとなりました。ひさし付きの前面でヘッドライトは原形と変わらず
丸型、ウインカーランプはT代以降のタイプ、外塗装は赤帯という異色車でした。
>これはN550〜591で決まりでしょう。下2桁が揃っているのは偶然?
これについては完全に確定です。下2桁が揃っていたのは記憶にしっかり残っております。
>>品川2う992〜1004 三菱、三菱 三方シート 渋谷
>N592〜611のうち13両。……あれ、1両合いません。
登録ナンバーについては間違いありません。渋谷に品川2う1005は存在しませんでした。
品川2う991は目黒ですので13両です。
あいにく局番との対応が取れません。画像が1枚でもあれば追えるのですがね。
>あとは品川ナンバーで確定しないのは、品川のN464〜468(富士)と
>目黒のN650〜657(帝国)です。N658〜662は杉並分のはずなので……
これについては疑問があります。
杉並分N代日野車のボデーは、ねこまたさんも述べていらっしゃるように富士重工です。
都電11系統代替バスとして登場したと記憶しております。登録ナンバーは練馬2う11??で
した。
楕円のヘッドライトがセンターに寄った形でレイアウトされた独特の顔つきでした。
ヘッドライトの位置はT代の日野(富士重工)でバランスが良いものとなりました。
また、品川営業所に品川2う1060〜1061が配属されておりましたので、N650〜657が
目黒ということになりますと品川営業所分が無くなってしまいます。
品川2う1062〜から目黒ということにしますと台数から逆算すると品川2う1070まで
目黒ということになります。1065〜1070は記憶が曖昧なので未確定ですが、品川営業所
に比べて目黒に配属された台数はかなり多かったと記憶しております。
>N464〜468 日野(富士)RB10
で5台となりますが、
品川2う938〜939 品川営業所 と、
練馬2う1111〜1112 目黒営業所
がその中に含まれる可能性は極めて大ですが1台足りません。
練馬ナンバーでは
練馬2う1109〜1110 いすゞ(川重)BA20 新宿営業所
が存在しました。また、
>練馬ナンバーの目黒車(日野/富士)というのは
>M-N467・468の二台のことと思われます。
とねこまたさんが05/9/30(金) 0:54 で記されており、練馬ナンバーは前が塞がってお
り、局番対応では後ろも塞がれた形、品川ナンバーも前に述べた通り前後が塞がれた形と
なっております。
当方の記憶である品川2う940三菱(三菱)渋谷営業所が日野(富士重工)で品川営業所
配属であったとしたらつじつまが合う形(計5台)となります。品川2う940については
記憶に自信が無い状況に陥りましたので保留ですね。
>N612〜638 三菱(呉羽)MR480
>そのほか、N612〜617(呉羽)も渋谷にいたようですが新製時からいたのかは
>分かりません。
新製時から居たのは品川2う1080〜1081の2台です。1082も居た可能性がありますが
やや記憶に自信がありません。1082(または1083)〜は法則崩れで杉並に新製配属
されました。時期は都電11系統代替バス開通時です。記憶では〜1085まで確定です。
運用は511系統指定ではなく当時のワンマン系統である5系統でもよく見かけました。
局番はしっかりD-と記されておりました。その後渋谷と早稲田に分かれて転属しました。
早稲田に行ったものはその後練馬ナンバーとなりました。転属は美濃部色の時代であ
り方向幕が青文字となり1080〜1081の黒文字と明確に区別がつきました。
>ワン・ツーマン兼用車導入以降は法則を守っていると思っていたので
>結構驚いております。よろしければ、この件についてはぜひお伺いしたいと
>思います。
当方記憶している大きな法則崩れは上記杉並の例です。
その他、法則崩れというわけではありませんが、
1.602系統(池86)開通時はR代投入まで暫くの間、各営業所から集められたツーマン車
であり、メーカーは各社存在しました。
2.113系統、高速道路経由開通時、小滝橋のR代(当時の120系統専用車)を使用。開通
記念に美濃部色の新車を借用したのでしょう。方向幕、系統幕は正式のものであった
ようです。当時の読売新聞に写真が載っておりました。
3.509, 510系統開通時、新車の数が不足したのか、大塚のM代いすゞ/川重(登録番号
練馬2う95?)、江東の日産デ/富士N代(登録番号 足立2う27??から推定)が76系統
に、巣鴨のいすゞ/富士P代が1系統で使用されておりました。系統指定であったよう
です。局番はB-に書き換えられておりました。その他、三菱/三菱N代(登録番号 足
立2う27??)もさり気なく混ざって代替バスの運用に就いておりました。
>1.代替用としてN代日デが21両配置される
>2.P代いすゞが21両配置される
>3.N代日デが練馬に転属
後にN代日デが練馬で運用に就いていたのは目撃しておりますが、転属の時期については
記憶なしです。
86 hits
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ねこまた
- 05/10/4(火) 17:21 -
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▼PLせつなさん:
こんにちは。お返事遅くなり恐縮です。
>ところで記録をとっていられるとのことでお伺いしますが、どのような
>記録をとられていたでしょうか。
S39年度のG代ワンマン車以降についての局番と車種の一覧表、および
S43年以降の全乗車記録です。
ただ如何せん小中学生時代に作り始めたモノですから、「局番・車種一
覧表」の特にS40年代の部分に関しては、以下のようにいろいろと不備
な点や欠落があります。
★登録番号については記録なし。したがってG〜K代の改番前の局番
との対照も不明です。ただ、地元の江東・(旧)江戸川・今井・葛西
の各所の車については上2桁分の「記憶」くらいならありますが。
★転属については、上記地元4営業所・支所にからむものは一部記録
していますが、年月が不明になってしまっているものもあります。
★S代(S43)までは、局番自体の記録に一部欠落あり。滝野川・練
馬・小滝橋・千住など乗車機会がほとんどなく縁の薄かった営業所の
部分が中心です。
何しろ、自分一人の「目視」によってコツコツ作った代物に過ぎません
ので、まぁこんな具合なのですが。いかがなものでしょう?
86 hits
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PLせつな
- 05/10/6(木) 7:43 -
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▼ねこまたさん:
お返事ありがとうございます。
>S39年度のG代ワンマン車以降についての局番と車種の一覧表、および
>S43年以降の全乗車記録です。
>ただ如何せん小中学生時代に作り始めたモノですから、「局番・車種一
>覧表」の特にS40年代の部分に関しては、以下のようにいろいろと不備
>な点や欠落があります。
まめにされていたのですね。
なさった記録は十分に素晴らしいものと思います。
現在、ご存知かもしれませんがこちらでは都営バス車輌全集というのを同人で
作っておりまして、車両の記録を集めております。最近のはだいたい集まって
きたのですが、昭和40年代は色々なところが穴あき状態で、昭和50年代は穴は
あまりないものの転属や一部の車号の記録が怪しいものや欠けているところが
虫食いのように存在しており、比較対照となる車両のデータを参考にしたいと
いう状況です。(各々の資料にも当然のように記憶違いや書き間違いが
ありますので、複数のものにあたることでより確かなものにしたいと思って
います)
ご相談というか、お願いになるのですが、それらを
ご提供してはいただけないでしょうか。
(お礼はいたします)
よろしければ自分のメールアドレスpluto@pobox.ne.jpまでメールをくだされば
と思います(メールがない場合はこちらに返信いただければ)。
昭和40年代後半以降は江東から葛西・今井に行った車がぽろぽろと存在していて、
それぞれの時期がいつなのか等、なかなか詳細がつかみづらいところです。
93 hits
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