情報交換・投稿・交流のための掲示板・第3版です。
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ぽんぽこ
- 05/8/23(火) 22:46 -
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▼PLせつなさん:
>H代1回(冷房車、昭和56年春?)…赤黄塗装
あれ?H代って1回だけでしたっけ?
当時の北営業所では2組(H271〜277とH301〜307?)がいた記憶があるのですが・・・・。当然全部「赤黄塗装」です。
33 hits
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目黒新橋
- 05/8/23(火) 23:34 -
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▼ぽんぽこさん:
>>H代1回(冷房車、昭和56年春?)…赤黄塗装
>
>H代って1回だけでしたっけ?
>当時の北営業所では2組(H271〜277とH301〜307?)がいた記憶があるのですが・・・・。当然全部「赤黄塗装」です。
久しぶりに書き込みます。
お役に立つかどうかわかりませんが、バスラマインターナショナルに気になる記載がありましたので、書き込みます。
バスラマインターナショナル No.49 (1998年8月発刊) 内の84頁
「私の知っているバス達 第37回 東京都営バス(その6)最終回 久保田 喜美雄 ].ご質問に答えて」の中で都営バスの塗装変更の詳細をという質問に答えています。
「記録の確かな路線バスの塗色の変更は6回ありました。」
と記載して、それぞれの塗装のコメントが記載してあります。
88頁には、その第5回目として話題の赤黄塗装が出てきますので、該当部分を引用します。
「第5回目
「アイボリーとスカイブルー」と塗色は、バス利用者はもとより広く親しまれその評価も高かったのですが、「事故防止」と都営バスの運行がわかる「乗客増加策の一つ」として、「明視性の高い黄色」を基調とすることが議論され「イエロー」を基色に「マルーン」を配したものに変更しました。
この塗色は1980(昭和55)年8月に更新したミニバス(13両)に試行し、翌年の3〜4月納入の一般乗合車228両に採用しました。
しかし、この色はバス利用者や色彩専門家から、品がなく都市の景観としての色彩に対する配慮が足らない、などのご指摘もありその評価は低く、巷に「公共の色彩を考える会」が結成されるまでになり再考することになりました。」
引用以上です。
27 hits
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お好み玉子
- 05/8/24(水) 4:15 -
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▼ぽんぽこさん:
>▼PLせつなさん:
>>H代1回(冷房車、昭和56年春?)…赤黄塗装
>
>あれ?H代って1回だけでしたっけ?
>当時の北営業所では2組(H271〜277とH301〜307?)がいた記憶があるのですが・・・・。当然全部「赤黄塗装」です。
これは多分、数字が違うだけで同時期に入ったのでは・・・
登録時の問題とか。
95年度の日産車B598〜B607・B723〜B734みたいな。
43 hits
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ぽんぽこ
- 05/8/24(水) 10:14 -
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>「アイボリーとスカイブルー」と塗色は、バス利用者はもとより広く親しまれその評価も高かったのですが、「事故防止」と都営バスの運行がわかる「乗客増加策の一つ」として、「明視性の高い黄色」を基調とすることが議論され「イエロー」を基色に「マルーン」を配したものに変更しました。
そうですね。「公式見解」的にはこうなるんでしょうね。
実際はやや政治的にドロドロした裏があり、ちょうどこの時期、永年続いた美濃部氏(革新)から鈴木氏(保守)に都政が変わり、その際、鈴木派の一部から「スカイブルー」は革新の色であり、保守都政になったこの時期にふさわしくない・・・。的な声が上がり、突然予告なく都バスの色を変えたものですから、保守都政の誕生を快く思っていなかった革新系の都議らを中心に「目がチカチカする」「都市の景観にそぐわない」「ウ○コ色のバス」など連日論争になり、「じゃあ一体何色なら納得するんだ?」とのことで、サンプルカラー3タイプと審査委員の一人であった岡本太郎氏が「どうしても」と推した自身のデザイン「参考出品(太郎バス)」を廃車予定の深川車4台にテスト塗装し、都内各地をアンケート巡回した人気投票の結果と審査委員の見解により、3タイプのうちのA案(だったかな?)をベースにアレンジしたのが現在に至っており、当時のことを皮肉って一部では「スカイブルー」を「美濃部カラー」、「イエロー」を「鈴木カラー」などとも言われていますね。
50 hits
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ぽんぽこ
- 05/8/24(水) 10:20 -
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>>▼PLせつなさん:
> これは多分、数字が違うだけで同時期に入ったのでは・・・
>
>登録時の問題とか。
>
うーん、前・後期ほど離れていたかは自身がないけど、時期的には離れていたような記憶があるのですけどね・・・。
確かナンバープレート的にも離れていたような・・・。
その頃の資料とか、写真とかどこか探せばあるんだけどね・・・。
家の中でどこかに埋もれています。
47 hits
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はたぼう
- 05/8/24(水) 13:03 -
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>確かナンバープレート的にも離れていたような・・・。
>
>その頃の資料とか、写真とかどこか探せばあるんだけどね・・・。
>家の中でどこかに埋もれています。
確かに北の先代のH代は番号が離れてましたね。
違っていたら申し訳ないのですが、滝野川、昭和町との
合併が関係なかったでしたっけ??
間違っていたら、ホントごめんなさい。
画像は、私のHPから転用しました。N−H275です。
49 hits
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ぽんぽこ
- 05/8/24(水) 13:41 -
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>確かに北の先代のH代は番号が離れてましたね。
>違っていたら申し訳ないのですが、滝野川、昭和町との
>合併が関係なかったでしたっけ??
H275の画像懐かしく拝見しました。
そこで、残念ながら自分の手元にはないので他の方のHPで探してみたところ、やはりN−H312の画像が見つかりました。
H275のナンバーは「練馬22か2743」ですが、H312は「同2792」になっているんですよね。
で、良く考えて見ると・・・。
昭和町というよりも志村合併の絡みかも?
滝野川が分車庫の昭和町を合併したのは北移転の際です。(滝野川)の表記を経験しているのはF代までですから、合併絡みだと、G代の時のはず・・・。
それに昭和町にはそんなに所属台数はなかったし、昭和町の当時の最新はN−A581でB代以降の所属はなかったような・・・。
逆に、志村合併後に見たUDの当時の新車はK代で、UDのH代は見た記憶がない・・・。等々、当時の記憶を辿ると、そんな感じがしまして、そうなるとH代の2陣は志村分を志村には投入しないで合併前に北に入れた・・・?
などと推測できるのですが、いかがでしょう?
間違っていたらごめんなさい。
69 hits
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PLせつな
- 05/8/24(水) 15:50 -
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まず基礎データ関連ですが、最近色々と車両データにも手をつけておりまして
随時更新中でございます。ということで、車輌データ(仮)
http://pluto.pobox.ne.jp/bus/car
の下のほうにある年度別一覧をご覧ください。
滝野川と昭和町→北の合併移転は昭和55年4月です。
滝野川グループに入った最後の新車はG392〜398のいすゞ−富士重の7輌でした
(その後、北→今井→臨海と動くことになります)。
北になってから初の新車はH271〜277・306〜319のいすゞ−富士重計21輌が
一気に入りました。
滝野川には昭和43年度導入のR・S代を大量に投入(R418〜441、S489〜517の
53輌−いすゞ川重BU05D)していたので、これを置き換える意味もあったのかも
しれません。
で、H代に関する公式1次資料はないのですが、そこから引いた車両データに
よればH代は1回きりということになっていますし、また目黒新橋さんの
昭和56年3〜4月に228両を導入というのも心強い傍証になります。
ちなみに、このときの練馬ナンバーの区切りは以下の通りです。
練馬22か2720〜 H125〜130 杉並
練馬22か2731〜 H220〜226 小滝橋(1)
練馬22か2738〜 H271〜277 北(1)
練馬22か2747〜 H185〜192 早稲田(1)
練馬22か2779〜 H227〜233 小滝橋(2)
練馬22か2786〜 H306〜312 北(2)
練馬22か2800〜 H234〜240 小滝橋(3)
練馬22か2807〜 H250〜256 新宿
練馬22か2820〜 H192〜205 早稲田(2)
練馬22か2834〜 H292〜298 巣鴨(1)
練馬22か2841〜 H313〜319 北(3)
練馬22か2852〜 H299〜305 巣鴨(2)
北は、3回に分けて導入したのでしょうね。
今回のMやN代でも小分けの導入でしたが、全部まとめて1回導入でした。
で、北の番号が2つに分かれている理由ですが……
数字の番号が重複するかとも思ったのですが、当時300番前後の車は滝野川には
いなかったようですし、よく分かりません。志村はH代導入がないですが
H代の番号はメーカー別に分かれていたので、H271〜277はいすゞの番号と
なりますし。
73 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@bd251.opt2.point.ne.jp>