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nagano
- 04/11/23(火) 13:00 -
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▼きつねさん:
はじめまして。よろしくお願いいたします。
>田70(当時は70系統)の一ノ橋折返の件は良く知っております。
>当時の新宿駅西口行きは麻布十番商店街経由でして、折り返しは新一の橋〜一の橋のループで行なわれておりました。
>また、一の橋から谷町方面への道路が未開通工事中であり、時々新一の橋交差点の谷町側右端で、時間調整なのか待機しているのが見られました。
貴重な情報ありがとうございます。
かつての新宿駅行はあの麻布十番商店街の中を通っていたのですか。
驚きです。確かに冷静に道幅だけを見れば大型バスがなんとな通れそうですが、
現状は、違法駐車車両などで小型バス運行のちぃバスさえも麻布十番商店街
経由を断念したくらいの状況ですから想像もつきませんでした。
思えば、田70の一ノ橋〜六本木間の経路は何度も変更になってますね。
私が知ってる一番昔は、芋洗坂を双方向運行していた頃です。
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きつね
- 04/11/23(火) 22:19 -
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こんばんは。
田70の麻布十番付近の変遷について頭の中に記憶していることを載せておきます。
70(田70)系統は自分としては最も馴染みの深いバス路線でした。幼少の頃になりますが、開通当時のことも知っております。
鳥居坂下(当時は港福祉事務所前(鳥居坂下))の新宿方面行きバス停のポールは開通直前には現在の更科堀井あたりに仮に置かれており、開通時に現在の紅虎餃子房あたりに移動されました。
一の橋バス停は商店街に入ってすぐの場所にありました。
> かつての新宿駅行はあの麻布十番商店街の中を通っていたのですか。
> 驚きです。
そう思われるかも知れませんが、開通当時、環状3号線は無く、広い道は赤羽橋から鳥居坂下までで、その先は日ケ窪町まで狭い一方通行路でした。
ですからどちらかと言えば麻布十番がメインの通りであり、田町方面行きの道路は裏通りと呼んでおりました。
麻布十番通りを経由しなくなったのは、当時のT代が新車であった頃です。ちょうど一の橋から都電が姿を消した頃ということになります。
当方、当時麻布十番が通学路であり、環状3号線経由となった初日朝のことを良く覚えています。何と、来るはずの無い新宿駅西口行きのバスが麻布十番商店街に入って来てしまったのです。多分運転手が経路を間違えてしまったのでしょう。豆源の交差点でたいやき屋方面へ右折して行きました。都営の路線バスがたいやき屋の前を通ったのはそれが最初で最後の出来事でしょう。
芋洗坂の件ですが、こちらのHPの資料館の田70変遷に興味深い記事があります。
> S39.12. 1 目黒 9.742/ 9.592km 日ケ窪町(現六本木中)←六本木の経路変更?
の部分です。
開通当初の新宿方面行きは、芋洗坂の変則Y差路で右折してそのまま直進して大通りに出ておりましたが、いつの日か右折後更に右折して突き当たりを左折して大通りに出るという経路になりました。その時期はS39年であったかどうか、記憶している時期とはちょっとズレがあるのが気にはなりますが、HPの記事はそれを指しているのかも知れないです。
それ以降の六本木周辺の変遷は記憶に新しいところなので述べることも無いでしょう。
その他、札の辻から田町駅東口までの経路にも大きな変遷があったことを記憶しております。
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PLせつな
- 04/11/24(水) 0:44 -
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続きです。
麻布十番商店街をまさか通っていたとは……と驚きなのですが、
そうすると、開通時は下に添付した図のように走っていたということで
よろしいのでしょうか。
>麻布十番通りを経由しなくなったのは、当時のT代が新車であった頃です。ちょうど一の橋から都電が姿を消した頃ということになります。
T代が入ったころ…というと昭和44年度ですね。
さきほどのM代は昭和41年度導入、僕が生まれた少し後には廃車になっていた
はずです。そういえば、今度入るのが2回りした先のM代ですね。
>芋洗坂の盾ナすが、こちらのHPの資料館の田70変遷に興味深い記事があります。
>
>> S39.12. 1 目黒 9.742/ 9.592km 日ケ窪町(現六本木中)←六本木の経路変更?
>
>の部分です。
>開通当初の新宿方面行きは、芋洗坂の変則Y差路で右折してそのまま直進して大通りに出ておりましたが、いつの日か右折後更に右折して突き当たりを左折して大通りに出るという経路になりました。その時期はS39年であったかどうか、記憶している時期とはちょっとズレがあるのが気にはなりますが、HPの記事はそれを指しているのかも知れないです。
で、もう一回資料をひっくり返してみたのですが、路線資料館の記述は
どうも間違いでないかなと思うようになってきました。
S39.12. 1の経路変更は、
「運転系統一部経過地変更
70甲 田町駅東口〜(三ノ橋)〜新宿駅西口 往9,742m 復9,592m
70乙 田町駅東口〜(赤羽橋)〜新宿駅西口 往9,572m 復9,477m
」
です。で、その下に、
「上記により、港区赤坂青山南町1-1先〜1-4先 250mを運輸開始。」という
記述があったのを見落としていました。とすると、これは今の(といっても
廃止されましたけど)青山一丁目駅南口〜青山一丁目駅の間で経路変更が
あったことを示唆しています。
また、昭和40年の統計では、日ヶ窪町〜六本木の停留所距離で
日ヶ窪町→六本木 660m/六本木→日ヶ窪町 510m
となっていて、上下間で140mの差がありますが、この差は
>芋洗坂の変則Y差路で右折してそのまま直進して大通りに出て
(下図の赤線を通る経路)だと、上下間の距離差は90m
>右折後更に右折して突き当たりを左折して大通りに出るという経路
(下図の緑線を通る経路)だと、上下間の距離差は210m
帯に短したすきに長し状態で、この当時はどっちだったのか判然としません。
さらに、十番商店街を通らなくなったときですが、T代の話からすると
昭和45年5月1日(路線資料館に書いてあった4月1日は誤りです)の
「系統の延長 田町駅東口〜新宿駅西口9.156km→田町操車場〜新宿駅西口9.174km」
のときに同時に行われた可能性もありますね。
それ以外は都の記録に残っていないので、いつ経路変更が行われたのかは
よく分からないというのが正直なところです。
>その他、札の辻から田町駅東口までの経路にも大きな変遷があったことを記憶しております。
それは、どのような変遷があったのでしょうか。
田町駅東口から南の芝浦工大のほうに向かって、旧海岸通から藻塩橋に出る…
という経路でしょうか?
港区スポーツセンターあたりの終点の変遷も、中途半端に書きっぱなしに
なっていることの一つです。
昭和35年の統計では
西芝浦1〜140m〜田町駅東口〜350m〜西芝浦3〜260m〜藻塩橋〜350m〜田町4〜280m〜三田2〜660m〜赤羽橋…
昭和39年の路線一覧では「田町駅東口〜新宿駅西口」
昭和40年1月の都の告示によれば、70号系統は「西芝浦一丁目〜新宿駅西口」
昭和40年末の統計では
田町駅東口入口〜140m〜田町駅東口〜350m〜芝浦3〜260m〜藻塩橋〜350m〜田町4〜280m〜芝5〜660m〜赤羽橋…
昭和44・46年の都発行の路線図では70系統の終点は「田町操車所」
昭和47年11月の都の告示によれば、70号系統は「田町操車所〜新宿駅西口」
毎年の事業概要に乗る路線一覧は昭和47年度まで起点が「田町駅東口」表記で
昭和48年度から「田町操車所」表記。
−−−
ということで、成り立つ仮説としては、「少なくとも昭和35年から終点は
田町駅東口の次の停留所、現在の港区スポーツセンターにあたるところだが
旅客案内上は「田町駅東口」としていた」が有力です。
ただそうすると、上で書いた事業概要の記述の
>昭和45年5月1日(路線資料館に書いてあった4月1日は誤りです)の
>「系統の延長 田町駅東口〜新宿駅西口9.156km→田町操車場〜新宿駅西口>9.174km」
との整合性が全くとれなくなってしまいます。しかしながら、乗降客統計では
田町駅東口止まりであったようには書かれておらず、また統計のほうが
記述の信頼性が高いので、事業概要のほうに記述ミスがあったと考えるのが
妥当かもしれません。
なんだかほかの人がおいてけぼりな話になってしまいましたが、
とりあえず資料をあさって考えてみたことを記しました。
きつねさんには、昔の情報を提供していただき本当に感謝します。
この路線でのほかの情報や、また他の路線でも何かご存知のことがあれば
是非遠慮なく書き込みしていただけたらと思います。
(スミマセン、他の返信はまた明日以降に)
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こんばんは。
【7303】では、
1.麻布十番から芋洗坂付近
2.青山一丁目付近
3.田町駅東口付近
の3点が話題となっておりますが、それぞれ覚えていることがあり、一度に全部記すと
長くなってしまいますので適当に分けでお話したいと思います。
当方、資料等一切持っておらず頭の中にしまってあることを書きますので誤りもあるか
と思いますがその際はご指摘下さい。
1.麻布十番から芋洗坂付近
麻布十番の経路につきましては載せて頂いた画像の通りです。一の橋から赤羽橋方面へ
の経路も当時は確か都電の走っていた通り(現在の都06のルート)を経由していたと記
憶しておりますので図の通りです。後に赤羽橋方面への経路は新一の橋から直進になり
ませんでしたかね?田70が廃止になったのは近年なのにその近年の記憶のほうが曖昧で
す。
港福祉事務所の建物は裏通りの鳥居坂交差点一の橋寄り左側にあり、バス停はその目の
前でした。よって、画像のバス停位置はやや当方のイメージとやや異なります。
【7303】で、PLせつなさんも、
> で、もう一回資料をひっくり返してみたのですが、路線資料館の記述は
> どうも間違いでないかなと思うようになってきました。
と記されておりますが同意です。画像の朱記されているショートカットルートを70系統
(田70)が通っていた時期は極めて短かったと記憶しており、S.39年には迂回ルートに
なっていたはずです。
その他に当時の芋洗坂近辺における経路変更については考えられることがありません。
夜もふけて参りましたので2.3項につきましては別途とさせて頂きます。
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きつね
- 04/11/26(金) 23:14 -
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続きです。
>「上記により、港区赤坂青山南町1-1先〜1-4先 250mを運輸開始。」という
>記述があったのを見落としていました。とすると、これは今の(といっても
>廃止されましたけど)青山一丁目駅南口〜青山一丁目駅の間で経路変更が
>あったことを示唆しています。
確かに青山一丁目交差点では経路変更がありました。
四谷三丁目から六本木までの間は、都電33系統と並行しておりましたが、昔は信濃町駅
で国鉄中央線を跨ぐ橋と青山一丁目交差点六本木側で都電とは別の経路を辿っておりま
した。
後に両者とも同じ経路となったのが変遷といえば変遷なのですが、距離的には殆ど変わ
らないので250mという数値は符合しないです。
1.信濃町駅付近について
昭和30年代、都電は中央線を専用軌道の橋で渡っておりました。青山一丁目方面から
来ると、都電は中央線に突き当たるとそのまま直進して専用軌道へ。道路はそこで直角
に左折して、明治神宮外苑出口からの道に突き当たりそこで右折して橋を渡るという経
路でした。大通りが中央線で途切れる形でしたが、さすがにネックとなったようで、後
に都電専用軌道の四谷側に1車線の狭い自動車用の橋が出来、田町方面行きはその橋を
渡るようになりました。
当時、東京オリンピックで国道246号線は拡幅工事が行われており、更に赤坂見附は立
体交差化が行なわれておりました。多分その赤坂見附絡みであると思いますが、
昭和38年10月、渋谷〜須田町間の都電9,10系統の経路変更が行なわれ青山一丁目から先、
赤坂見附方面が廃止され10系統は信濃町、四谷三丁目経由となりました。記憶の中に
10系統が信濃町の専用軌道を渡る姿がありますので当時はまだ前述の通りの姿であった
と思われます。
その後、専用軌道は併用軌道となり明治神宮外苑からの道とも一体化され現在の姿とな
りました。新宿方面行きバスも直進で中央線を渡るようになったわけです。道が改修さ
れたレベルであり経路変更とは言えないないですかね。
2.青山一丁目付近
六本木方面かた来た都電33系統は246号線手前で左折して、西麻布方面からの都電7系統
と合流、右折して青山一丁目へ至っておりました。バスは246号線まで直進して左折、
青山一丁目で右折しておりました。
昭和38年、友達同士で青山南町?丁目バス停から六本木まで70系統に乗車したことが何
回かあります。当時、この通りは70系統の他に乃木坂で赤坂方面へ行く40系統(東72)が
通っていたのですが、新宿営業所のいすず車と目黒の日野車の車体の特徴が判別できた
ので、はるか彼方の246号線から右折して来るバスの行先をピタリを当てることが出来た
のが友達への自慢でした。
ということでその頃は246号線の経路をとっていたことになります。いつごろから都電
と同経路になったかは記憶に無いのですが、昭和39年であったのでしょうかね?
もう少し後になってのような気がしないでもないのですが。
この区間におけるその他の経路変更があったとは考えにくいところなので、
>「上記により、港区赤坂青山南町1-1先〜1-4先 250mを運輸開始。」
という話も謎が残ります。
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きつね
- 04/11/26(金) 23:22 -
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訂正:
>昭和38年10月、渋谷〜須田町間の都電9,10系統
都電9系統は、渋谷〜水天宮方面(当時)であり、赤坂見附経由を六本木、溜池経由
に改めました。(その後、飯倉経由となって廃止)
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きつね
- 04/11/28(日) 10:58 -
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続き(最後)です。
>それは、どのような変遷があったのでしょうか。
>田町駅東口から南の芝浦工大のほうに向かって、旧海岸通から藻塩橋に出る…
>という経路でしょうか?
ご存知であったのですね。路線資料館にそれらしき記述が見つからなかったので。
田町駅東口方面行き乗車の記憶を辿ると、札の辻から国鉄東京機関区を右に見ながら橋
を渡り、藻塩橋で左折せずに直進。広い通りの交差点(四つ角かT字路か忘れました。)
を左折。この広い通りは旧海岸通りではないかと思います。当時この辺り、倉庫が立ち
並び、車の通行量が少ない、寂しい雰囲気の場所でした。バスはその後すぐに再び左折
して田町駅東口方面へ直進、というルートでした。
>昭和35年の統計では
>西芝浦1〜140m〜田町駅東口〜350m〜西芝浦3〜260m〜藻塩橋〜350m〜
>田町4〜280m〜三田2〜660m〜赤羽橋…
> --中略--
>ということで、成り立つ仮説としては、「少なくとも昭和35年から終点は
>田町駅東口の次の停留所、現在の港区スポーツセンターにあたるところだが
>旅客案内上は「田町駅東口」としていた」が有力です。
この仮説は合っていると思います。
昭和40年頃まで、田町駅東口方面行きの前面方向幕は「田町駅東口」であり車内での
旅客案内(車掌の肉声)も「田町」でした。乗客の大半は田町駅東口で下車するので
すが、バスは次の西芝浦一丁目で折り返しておりました。
折り返し場所は田町駅東口から見て道路右側にありました。
その後はあまり田町駅東口方面へバスを利用する機会が無かったので記憶が曖昧です。
バス停の案内に田町操車所という記述があったのは覚えておりますが前面方向幕は田町
駅東口と記されており、操車所の文字が小文字で併記されていたかどうかも覚えており
ません。
また、西芝浦一丁目の折り返し所と田町操車所が同じ場所であったのかもわかりませ
ん。
>昭和40年末の統計では
>田町駅東口入口 以下略
田町駅東口入口というバス停は全く記憶の中に無くわかりません。
ということで、昭和40年代以降の田町駅東口〜田町操車所間の克明な記憶が無いので変
遷を述べることが出来ないというのが正直なところです。
その他、都電の第1次廃止(昭和42年:N代)からS代が導入される頃までの期間、目黒営業
所の田町分車庫が存在していたことはご存知でしょうか?
かつて、芝浦に都電の工場があり、国道1号線から線路が分岐しておりました。
更に途中から西芝浦一丁目へ向かって単線の線路が分岐しており、終端では西芝浦一丁目の折り返し所と道路を隔てた側の車庫のようなところに入るようになっておりました。
一体何の施設であったのかわからないのですが地図で見ると中はループ状に線路が敷か
れているようでそこそこの広さがありました。田町分車庫の位置はその施設の位置と一致していたように思います。代替バスとして増備されたN代のみ約50台が配置されていたと
記憶しております。
その田町分車庫が存在した頃、折り返しは相変わらず西芝浦一丁目(田町操車所)
を使っていたのか否か、思い出したいところなのですが残念ながら ....。
ちなみに、田町分車庫の受け持ちは、70, 503, 504系統であり、これらの系統には稀な
例外を除き目黒営業所の車両が配車されることは無く、3方シート車で統一されていて趣
味的には面白く無かった期間です。
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PLせつな
- 04/11/30(火) 2:22 -
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きつねさん:
詳細なお返事ありがとうございます。
路線資料館の記述は6〜7年前に調べたことがベースになっていて、
その後の調査でぽろぽろと分かってきたことを反映していないケースも
色々とあります…(本当は全部書き直したい…)
かつてトップページに掲示していたこともある幕を添付します。
(東武指令さんご提供の品です)
これは、幕内容から時期的に昭和41年以前に使われていたものと思われるのですが…
1.麻布十番から芋洗坂付近
まず一ノ橋〜赤羽橋間ですが、手元にあった昭和60年の都バスガイドブックでも
都電通りを経由しているかのような描き方でした。これよりも後のようです。
[橋86]についても開通時は同区間を都電通りを経由していたかと思うのですが、
これについては何かご記憶はないでしょうか?
六本木付近については新情報がありまして、免許の記録をひっくり返してみたら
S37.12.16 港区麻布六本木町1先〜麻布六本木町45先(50m)を廃止
という記述がありました。これは前図の赤線の部分に符合します。
ということは、これよりも前にこの区間は経路変更されていたことになり
記憶と一致しますね。
一ノ橋折返の廃止がS46.1.1は記憶と符合しないとの件ですが、それ以前に
本数が激減して1日1本とかの扱いになっていたか、もしくは休止状態に
なっていたことが考えられます。
S46.1.1付で、営業路線の項でも
「70系統経路変更及び折返系統廃止により
港区麻布十番2-1先〜六本木6-11先(600m)を廃止」となっているので
日付は間違いなさそうです(もっとも、これを全面的に信じるならば
[70]が十番商店街を通らなくなったのはS46.1.1からということになるのですが
そうではないのですよね……)。
2a.信濃町付近
そんな変更があったのですね。線路のところで途切れていたとは知りませんでした。
橋の架け替えや軽微な経路変更でも記録に残る場合が多いのですが、
これは単なる道路拡幅ととらえられたのかもしれません。記録には少なくとも
残っていないようです。
2b.青山1付近
S39.12. 1の変更ですが、同時に青山一丁目から乃木坂方面に向かう[40][126]に
ついても経路変更となっています。その後、S40.4.27付で
港区青山南町1-1先〜新坂町25先(110m)の免許廃止という手続きがとられて
いるので、この区間をこの日付に経路変更したフは多分間違いないと
思われます。
3.田町付近
その後の調べで、S40.9.15に西芝浦一丁目→田町駅東口入口に改称、
S44年度に田町駅東口入口→田町操車所に改称となったようです。
お話いただいた田町駅付近の経路ですが、まずまちがいなく旧海岸通経由とみて
よさそうですね。
田町分車庫の件は全く知りませんでした。品川配下の芝浦分車庫以外にも
存在したとは……歴史に現れない分車庫ですね。
昭和36年の区分地図でも、おっしゃった都電の線路は描かれておらず
どういう用途なのか謎ですね。
[503]は出入運用として目黒駅〜品川駅〜四谷見附が存在しただけに、
全てここで操車していたと思い込んでいましたが
いやはや、記録に残っていないということは、これは実際に見た方でないと
存在も分からないということですね…ありがとうございました。
最後に作りかけですが、路線関係の年表をアップしておきます。
記述が細かいところが多いですが、ご了承ください。
各文献の明らかな誤植以外はそのまま記してあります。
http://pluto.pobox.ne.jp/bio_s30.html
116 hits
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きつね
- 04/11/30(火) 18:16 -
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PLせつなさん、当方の記憶を資料でいろいろ裏付けて頂き大変有難く感謝申し
上げます。
>[橋86]についても開通時は同区間を都電通りを経由していたかと思うのですが、
>これについては何かご記憶はないでしょうか?
あいにく、時期的なところが記憶にございません。
ある時乗車したら、「あれ?経路が変わっている。」と気づいた記憶はあるの
ですが時期が特定できません。
>一ノ橋折返の廃止がS46.1.1は記憶と符合しないとの件ですが、それ以前に
>本数が激減して1日1本とかの扱いになっていたか、もしくは休止状態に
>なっていたことが考えられます。
ひょっとしたら、
当方が書いた、
>また、一の橋から谷町方面への道路が未開通工事中であり、時々新一の橋交差点の
>谷町側右端で、時間調整なのか待機しているのが見られました。
は、麻布十番商店街を経由しなくなった後に目撃していたことなのかも知れない
ですね。
麻布十番商店街経由の頃は新一の橋〜一の橋ループで折り返し、それ以降は谷町
方面へ左折してUターンとか。
通学路が麻布十番商店街でしたので、一の橋から遠くを見ていたものでよくわか
りません。
近くまで行って確認しておけば良かったですね。
>[70]が十番商店街を通らなくなったのはS46.1.1からということになるのですが
>そうではないのですよね……)。
はい。これは断言できます。
間違いなく時期はT代です。最終日、鳥居坂下の新宿方面バス停で確認したのが
当時新車のT代(品川2う17-34か17-35)であったと記憶しております。
直後の新車は同じT代で、都電34系統(S.44.10廃止)の代替バス(現在の都06)
です。
>昭和36年の区分地図でも、おっしゃった都電の線路は描かれておらず
>どういう用途なのか謎ですね。
これは是非知りたいです。
芝浦工場への電車は頻繁に走っておりましたが、田町駅東口方面への分岐線を
走る都電は見たことがありませんでした。ただ、庫内に1両電車が止まっている
のを見たことはあります。
>[503]は出入運用として目黒駅〜品川駅〜四谷見附が存在しただけに、
ですよね。
田町分車庫の車両が使われていたのは間違い無いところなのですが、となると
なぜ目黒駅〜品川駅〜四谷見附が存在していたのかが疑問として残りますね。
ちなみに、田町分車庫の車両ですが、登録番号は、
品川2う950〜991
品川2う10-62〜10-64
のN代でした。
前者は台数が非常に多く、晩年は一部葛西へ転属になっております。
後者は日野車モデルチェンジ後最初の車両で、前面にひさしが付き、ヘッドライ
ト楕円、登録ナンバーがバンパー内と当時としてはとても斬新に感じた車両でし
た。ひょっとしたらあと数台10-65とか10-66存在したかも知れないですが忘れま
した。
目黒車庫は、以前はバスの車庫と都電(4,5系統)の車庫が隣同士にあり、バスの
車庫出入口は、山手線側にありました。都電の車庫出入口は、駅ロータリーの高
輪寄りにありました。
田町分車庫が廃止された時期は、都電の車庫がバス車庫に整備されて収容できる
台数が増えた時点ではなかったかと推測します。都電の車庫出入口もバスの出入口
となりました。ちょっと工事期間としては長いような気もしますが。
> 路線関係の年表をアップしておきます。
すっかりタイムスリップしてしまいました。
気づいた点を2点ほど。
>S38. 4. 6 停留所 変更:材木町(日本教育テレビ)→
>材木町(NHKテレビ)([76][101][102][123])
(誤)NHKテレビ
(正)NETテレビですね。テレビ朝日の前身です。
>S36.12.20 停留所 変更:青山1→青山都営アパート([40])、
>青山北町1→青山1([70])
青山都営アパートと言えば、青山1丁目と信濃町の間のバス停を思い出します。
40系統がそこを通過していた時期があったのでしょうか?
方向幕画像、長年親しんでいたもので大変懐かしいです。
101系統は、都営の最終日、桜新町まで乗車して来ました。どちらかというと、
都営バスよりも弦巻(営)時代の東急バスのバラエティーに興味があった系統
です。
119 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; .NET CLR 1.1.4322)@3.0.1.60>
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PLせつな
- 04/12/13(月) 23:15 -
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返信が遅くなりましたが、都電の西芝浦の車庫の謎がだいたい解けました。
都電の掲示板で疑問を出してみたところ、「交通局芝浦倉庫の引込み線」との
ことです。当時の住所は西芝浦1-1、
>倉庫の敷地面積21,413.4平方メートル、建物面積3,608.5平方メートル、
>貯蔵品種類は「軌道材料電路材料 高速電車建設材料及用品」
とのことです。ということで営業をしたことはないようですが、資材置き場として
使っていたようです。現在もこの部分は都の持ち物なのか、ヒマがあれば
調べてみたいと思います。
113 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)@aa163.opt2.point.ne.jp>
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北天 幻龍
- 04/12/14(火) 1:27 -
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▼PLせつなさん:
>都電の掲示板で疑問を出してみたところ、「交通局芝浦倉庫の引込み線」との
>ことです。当時の住所は西芝浦1-1、
>>倉庫の敷地面積21,413.4平方メートル、建物面積3,608.5平方メートル、
>>貯蔵品種類は「軌道材料電路材料 高速電車建設材料及用品」
もしかしたらですが。
西芝浦1丁目は今の港浦3丁目に該当するのですが、過去のレスにある停留所距離から推測するに、
港区スポーツセンターの用地が該当するのではないかと思います。
港区スポーツセンター自体は昭和49年に完成しているので、
昭和40年代中頃に東京都から東京都港区へ譲渡か売却されたのではないかと思われます。
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きつね
- 04/12/14(火) 19:05 -
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北天 幻龍さん、PLせつなさん、お調べ頂きましてありがとうござました。
当方もPLせつなさんがご質問なされたサイト等、都電関係のサイトをいろいろ調べて
みたのですが情報が見つからないでおりました。大きな謎が解けた思いです。
当時周辺は倉庫が立ち並び雰囲気のある場所であり電車の来ない併用軌道はとても
ミステリアスでした。また、入口は木製の門扉で塞がれておりその中に伸びる軌道が
好奇心旺盛な子供心を擽るものでした。
木製の門扉でもうひとつ思い出したことがあるので話が逸れてしまいますが青山車庫
にも触れておきます。
都電の時代、青山車庫には2つの出入口があり軌道も両者から車庫内に伸びておりま
した。片方は現在の青山劇場側であり、電車の入出庫はこちらから行なわれており
ました。もう片方は現在の国連大学を挟んだ反対側にあり常に木製の門扉で閉ざされて
いて、中がどうなっているのか気になってしょうがなかった思い出があります。
そして、都電6系統廃止で504(506)系統が運行を始めた時、この門扉で閉ざされていた
側が代替バスの出入口となりました。N代の時代です。田町分車庫と同時期に門扉が
開かれた形ですね。
青山劇場側からバスが出入りするようになったのは、その後9,10系統が廃止となって
以降です。(S代)
ところで、このN代ですが、渋谷駅〜池袋駅東口の幕がありました。トロリーバス廃止
時、渋谷(青山)が受け持つ予定であったのでしょうかね。結局、戸山支所受け持ち
となり幕が使われることは無かったと記憶しております。
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