情報交換・投稿・交流のための掲示板・第3版です。
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とうこうしゃ
- 03/9/15(月) 14:18 -
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▼PLせつなさん:
>浜松町駅(浜59・四98)…S49廃止。現在の少年運動広場のところらしい。
これは都バス資料編纂委員会発行の「営業所」という本のなかに、大正時代に開設された浜松町営業所の跡地であるという記述があります。
>有明終点(門19)…H7廃止。経験者の体験求む。
これは、有明コロシアムからお台場海浜公園駅に向かって、のぞみ橋交差点を右折した埠頭の奥のほうです。現在、中古車販売会社がある付近です。
>北砂七丁目(東21)…S63廃止。折返所、と呼べるかどうか。
路上転回との見方が多いですが、1台分だけ駐車できるようになっていました。
折返し時間のない場合は、路上転回しただけですぐ発車してしまいますし、駐車する際はバックでしか入れられないため、路上転回というイメージが強いのではないでしょうか。
>下田橋はどうでしたっけ。
こちらは、転車台が設置されていたと記憶していますが、ご存知の方いらしたらご教示ください。なお、廃止後は月極め駐車場になっています。
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てるてる
- 03/9/15(月) 21:50 -
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以前、亀29の宇喜田ニ段階右折について書かせて頂いた者です。
>とうこうしゃ様
>北砂七丁目(東21)…S63廃止。折返所、と呼べるかどうか。
>路上転回との見方が多いですが、1台分だけ駐車できるようになっていました。
>折返し時間のない場合は、路上転回しただけですぐ発車してしまいますし、駐車する際はバックでしか入れられないため、路上転回というイメージが強いのではないでしょうか。
たしかに、1台分駐車スペースがあったと思います。小学生の頃なので記憶が曖昧なのですが、駐車スペースに頭からバスを入れて、誘導でバックをしていたような記憶もあります。
>みなさま
それと、折返所の追加です。
西葛27の開業当時、まだ陸上競技場(現・清新第三小学校)までしか走っていなかった頃、西葛西方向から進行して左側に陸上競技場の折返所がありました。
と言っても、空き地の一区画にあって、ぐるっと転回できる程度のスペースの小さなものでしたが…。
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てるてる
- 03/9/15(月) 23:31 -
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>>みなさま
>それと、折返所の追加です。
>西葛27の開業当時、まだ陸上競技場(現・清新第三小学校)までしか走っていなかった頃、西葛西方向から進行して左側に陸上競技場の折返所がありました。
>と言っても、空き地の一区画にあって、ぐるっと転回できる程度のスペースの小さなものでしたが…。
もうひとつ、書き忘れました。同じく西葛27の紅葉川高校にもありましたね。(臨海町二丁目団地に延伸前。)現・二丁目団地行のバス停の先、臨海町コミュニティ会館の隣にあったと思います。これも、陸上競技場の折返所と同じ作りでした。
有明終点の折返所も、この二ヶ所と同じ様な作りだったと思います。
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>右上の第一京浜と線路にはさまれたひときわ大きい建物が浜松町営業所であったと
>思われます。今の広場の場所とも一致しますし。
改めて確認すると、上の真ん中付近にありますね。
誠に申し訳ありません。
82 hits
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とうこうしゃ
- 03/9/17(水) 21:16 -
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▼まっきいさん:
ありがとうございました。大変参考になりました。
ところで、業平や寺島町車庫のことをご存知ないでしょうか?
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▼とうこうしゃさん:
>ところで、業平や寺島町車庫のことをご存知ないでしょうか?
業平営業所については、あまり詳しい資料もないので、想像が含まれてしまうのですが、大正14年に自動車事業が軌道事業から独立した当時は目黒・桜田門・駒込・業平に車庫があったと「東京市勢総覧概要 昭和10年版」には記されています。
一方、交通局60年史にも大正14年6月の事業概要が紹介されていますが、こちらには目黒・桜田門・上富士・横網に車庫があった旨記されています。交通局40年史には上富士から駒込に移転改称したのが大正14.12.23とのことですから、この前後に横網から移転改称したのでしょうか。
(位置については特に記されていません。)
その後昭和3.2.22に新谷町に移転改称した、との記述が40年史にあります。
ですから、長くて2年半しか存在していなかったようです。
寺島町車庫は、京成の寺島営業所(→奥戸営業所)のことでしょうか?
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とうこうしゃ
- 03/9/19(金) 14:19 -
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▼まっきいさん:
ありがとうございます。
業平の件は私もほぼ同じような内容しか把握できていません。
現在見ることができる資料では、まっきいさんがご存知のこと以上の歴史は解明できないようですね。
寺島町車庫については、戦時中か終戦後の墨田区関連の書物(誌名は失念しました)に付録として付いていたバス・電車の路線図にあった停留所名で、位置的には現在の東向島駅付近のように表示されていました。
これについては、正確な地図上に表示された路線図ではないのと、バス会社名の表示がなかったため都バスに関係あるのか定かではないのですが、寺島町車庫が墨田区内にあったと思われることから、業平や横網との関連もあるのでは?と気になっていました。
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PLせつな
- 03/9/20(土) 3:08 -
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戦前や戦後3年間ほどについては、まだまだ調べが足りないので
今後は充実させていきたいな……と考えています。
そういえば、同じく営業所本からになりますが、
青山分車庫がおよそ半年間支所になっていたとの記述があるのですが
これも本当なのかどうか分からずじまいです。
寺島町車庫ですが、S22.5現在の都営バス路線図にはなく、昭和12年や15年ころの
青バス・市営バス路線図にもありませんでした。
墨田乗合自動車を買収して自社路線とした京成がちょっと怪しいですが、
当時はそうとう小さくても「車庫」と名乗るケースがあったようですので
真相究明は難しそう……?
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PLせつな
- 03/9/20(土) 4:22 -
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補足ありがとうございます。
大島車庫は、昭和15年の路線図によると
大島車庫前−大島町2−五ノ橋−亀戸町6−亀戸駅前−…となっていて
現在の西大島駅よりも北側であるような描写になっているので
写真の「いかにも」な場所で間違っていなさそうですね。
現在は次回の本の構想で、戦後すぐの系統変遷をまともに調べなくては……と
思っているところですが、まだ15〜17の3兄弟系統や8系統など、謎があります。
以下はけっこう前のメールの続きになりますが……^_^;
8系統は、
S20.9.4現在 4系統 江戸川橋〜練馬
S21.3.15で 8系統 目白駅?〜練馬となって、
S21.4.1で 8系統 江戸川橋〜練馬。
で、その後21系統として改番しているはずですが、それがいつなのか。
前後の20・22系統ともS21.8.1開業なので、その日かなとも思いますが。
そしてS22.5現在の路線図では、練馬方面の路線としては
豊島園口−練馬車庫−椎名町4−目白駅−鬼子母神…
丸山−+
となっていて、S23.3発行の日本交通公社刊「東京地方」の系統一覧では、
そこではS22.8現在として
20 丸山〜江戸川橋
21 目白駅〜新宿駅西口
となり、S23.7現在の事業概要による路線一覧では
20 丸山〜江戸川橋
21 練馬車庫〜目白駅
となっています。S22.8現在の表の転記ミスか、S22.5現在の路線図自体が
間違っているのか(休止線を記載していたなど)、結構悩みます。
15,16,17についても、
S20.9.4現在とS21.3.15改編で、
9 亀戸駅〜洲崎 を15 錦糸町駅〜大島とし、
10 錦糸町駅〜東小松川〜三角 を16 亀戸駅〜東小松川〜三角とし、
11 境川〜葛西橋〜新田 を17 亀戸駅〜葛西橋〜新田として、
15系統を21年度中に廃止して、16系統を15系統にして、S22.5現在の路線は
15? 錦糸町駅〜東小松川〜三角
? 錦糸町駅or亀戸駅〜境川〜新田
それが、S22.8現在の一覧では
(カスリーン台風の直前)
15 錦糸町駅〜三角
16 錦糸町駅〜浦安
17 錦糸町駅〜新田
となっています。この時点で17系統は16系統に変更されて浦安まで延長され
(S22.7.20)、17は16の折返しであると考えるのが妥当のような気がします。
船堀・東小松川方面から新田に回る系統ができるのはもう少し後の話ですし。
その後、S22.9のカスリーン台風で葛西橋が流失、16・17は集約されて
16・錦糸町駅〜葛西橋に短縮され(S22.11の錦糸町駅〜浦安全線復旧後に短縮?)
S23.7.31の運転をもって休止となった……でいいのかな。
それにしても、浦安への乗り入れは一旦途切れていたことになりますね。
次に乗り入れるのはS24.8の22系統ですから、知られざる乗り入れ路線と
いったところでしょうか(浦安がどこを指すか不明だが、浦安橋東詰か)。
87 hits
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▼とうこうしゃさん:
>寺島町車庫については、戦時中か終戦後の墨田区関連の書物
>(誌名は失念しました)に付録として付いていたバス・電車の
>路線図にあった停留所名で、位置的には現在の東向島駅付近
>のように表示されていました。
京成の寺島営業所についてはこちらのサイトからリンクが張られてる
「みもみ相原のページ」の京成タウンバスの項に詳しく出ています。
http://homepage2.nifty.com/mimomi_aihara/t/kd/04T.html
これを見ると東向島の駅の付近にあったようですから、後の京成の車庫
の可能性が高そうです。
▼PLせつなさん:
>当時はそうとう小さくても「車庫」と名乗るケースがあったよ
>うですので真相究明は難しそう……?
当時は個人経営で一路線だけ、とかいうのもありましたし、
会社組織だったとしても、記録が残らないということもあったかと思います。
個人的に気になるのは洲崎でして、
江東区関連の歴史書物(誌名は失念してしまいました)には青バス開業と同
時に洲崎〜堀ノ内に路線が開業し、今の都バス車庫のところに車庫があった
と記述があるのですが、後の資料(例えば昭和16年の深川区地図)では「城
東バス車庫」になっています。
遅くても昭和12年には城東バスは青バスと同一資本系列になっていますから、
その際に城東乗合名義にされた可能性もありますけれども、(ちょうどその頃
青バスの江東営業所が開設されています)実際のところはどうだったのでし
ょう?
132 hits
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▼PLせつなさん:
>補足ありがとうございます。
>大島車庫は、昭和15年の路線図によると
>大島車庫前−大島町2−五ノ橋−亀戸町6−亀戸駅前−…となっていて
>現在の西大島駅よりも北側であるような描写になっているので
>写真の「いかにも」な場所で間違っていなさそうですね。
交通局60年史に大島営業所の住所(城東区大島町3-110)が出ていましたが、古い地図と照らし合わせるとあの場所ですね。
「大島車庫前」という名称は営業所ができる前から使われていたようで、江東区年表を見ると、昭和11.6.1に千住車庫前〜亀戸駅と三ノ輪〜亀戸の系統をそれぞれ大島車庫まで延長と記されています。既に操車場の機能があったのでしょうか。
>S20.9.4現在 4系統 江戸川橋〜練馬
>S21.3.15で 8系統 目白駅?〜練馬となって、
>S21.4.1で 8系統 江戸川橋〜練馬。
>で、その後21系統として改番しているはずですが、それがいつなのか。
>前後の20・22系統ともS21.8.1開業なので、その日かなとも思いますが。
S21.9発行の「コンサイス・東京都区分地図帳」には[21] 目白駅〜練馬
になっていますし、S21.4.1の[8]江戸川橋〜練馬を[20][21]に分割再編した、
という解釈も成り立ちそうです。
>そしてS22.5現在の路線図では、練馬方面の路線としては
>豊島園口−練馬車庫−椎名町4−目白駅−鬼子母神…
> 丸山−+
>となっていて、S23.3発行の日本交通公社刊「東京地方」の系統一覧では、
>そこではS22.8現在として
>20 丸山〜江戸川橋
>21 目白駅〜新宿駅西口
>となり、S23.7現在の事業概要による路線一覧では
>20 丸山〜江戸川橋
>21 練馬車庫〜目白駅
>となっています。S22.8現在の表の転記ミスか、S22.5現在の路線図自体が
>間違っているのか(休止線を記載していたなど)、結構悩みます。
昭和22.9.1に[108]豊島園〜目白駅〜新橋駅が開業していますが、当時の新聞(朝日新聞の東京版)には、「豊島園〜目白を豊島園〜目白〜新橋に延長」という表現になっており、これが正しいとすれば旧[21](S21.11.1に豊島園まで延長済み)が[108]になり、その後新[21]がS23.5.9に開業、という流れかと思います。
問題はS22.8現在の表ですが、このころはかなり頻繁に改編は行われていますから、S22.8現在かどうかは別として、実際運行されていたかもしれません。
長くなってしまったので、[15]〜[17]は別発言にて。
#しかし、江戸川橋〜練馬の路線は、交通調整実施直後のS18.4発行の日本統制地圖(株)発行「最新大東京案内圖」にも[27]豊島園〜江戸川橋として掲載されており、休止も大きな変更も無くしぶとく生き残った数少ない系統といえますね。
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▼PLせつなさん:
>15,16,17についても、
>S20.9.4現在とS21.3.15改編で、
>9 亀戸駅〜洲崎 を15 錦糸町駅〜大島とし、
>10 錦糸町駅〜東小松川〜三角 を16 亀戸駅〜東小松川〜三角とし、
>11 境川〜葛西橋〜新田 を17 亀戸駅〜葛西橋〜新田として、
>
>15系統を21年度中に廃止して、16系統を15系統にして、S22.5現在の路線は
>15? 錦糸町駅〜東小松川〜三角
>? 錦糸町駅or亀戸駅〜境川〜新田
戦時中のS19.5.5に三角発着のバス([29]亀戸駅〜船堀橋〜三角)が開業したのですが、このときは船堀橋経由でした。(S20.6.16に錦糸町駅まで延長)ですから、S21.3.15の再編は、
[10]錦糸町駅〜三角を[15]錦糸町駅〜大島7・[16]亀戸駅〜東小松川〜三角に(形の上は分割)再編という形でおこなったものの、乗客数が伸びず、[15]錦糸町駅〜三角に再統合という形をとったかもしれません。であれば、S21.9発行の「コンサイス・東京都区分地図帳」で
[15] 亀戸〜東小松川〜三角
[17] 亀戸〜新田
となっているのも理由が成り立ちます。(すでに[16]は廃止済み)
>それが、S22.8現在の一覧では
>(カスリーン台風の直前)
>15 錦糸町駅〜三角
>16 錦糸町駅〜浦安
>17 錦糸町駅〜新田
>となっています。この時点で17系統は16系統に変更されて浦安まで延長され
>(S22.7.20)、17は16の折返しであると考えるのが妥当のような気がします。
>船堀・東小松川方面から新田に回る系統ができるのはもう少し後の話ですし。
S22.7の時点では[16]は空き番号でしたから、[16]を新設して、[17]を折り返し系統で残した、という可能性もありそうです。短期間の間空き番号が放置された例はこの時期他にもありますし。
>その後、S22.9のカスリーン台風で葛西橋が流失、16・17は集約されて
>16・錦糸町駅〜葛西橋に短縮され(S22.11の錦糸町駅〜浦安全線復旧後に短縮?)
>S23.7.31の運転をもって休止となった……でいいのかな。
葛西橋の流失後、架けられた橋は仮設橋であったそうです(とりあえず歩行者用の仮橋を架け、その後車用の仮橋を架けたとのこと)。仮復旧後、なんらかの理由で橋が渡れなくなった可能性はありますね。特に当時車両が大型になっていたことや、旧橋末期は大型車通行止めが頻発していたことを考えると、バスは通行止めという扱いを受けたのかもしれません。
S23.2.1に[22]が小島まで延長されていますが、これは[16]の江戸川区側を受け持たせる意図があったと考えられます。
正直なところ、戦後直後は事業概要も歯抜け状態ですし、調べるのは困難が伴いますね。旧[25](東京駅〜東荒川)みたいにうまい具合に資料がそろえばいいのですが。
97 hits
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PLせつな
- 03/10/20(月) 21:03 -
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こんにちは。
このツリーの下にぶら下げましょう。
臨海の前の前の東荒川営業所ですが、年表を見る限りでは
S17.2.1に陸上交通事業調整法に基づいて東京市バスのものになり、その後は
営業所のままですが、S21.10.1に江東の分車庫に格下げ、S24.12.10に再び
営業所に格上げされています。
戦中に格下げが行われず、戦後になってからというのが引っかかりますが
昭和42年ごろの交通局報の営業所紹介の中に、「昭和21年に再建、当時の
所管路線は22系統と特区(東荒川〜西荒川)だった」という意味の記述があり
ます。22系統はS21.8.1開通で、特区はS22.12.1開通で、それ以前に
東荒川所管にできそうな路線はありません(15系統(錦糸町駅〜三角)は
昭和46年まで一貫して江東の所管です)。
このことから考えるに、昭和17年に営業所となって、戦時中に所管路線が
全て休廃止されるが営業所という名前だけが亡霊のように残り、改めて
所管路線を持たせて復興するときに分車庫扱いとしたということなのかな〜と
思っています。
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まっきい
- 03/10/20(月) 23:25 -
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昭和21.4.1現在の運転系統一覧には東荒川所管の系統は存在していないですし、60年史に、「昭和20年6月16日には(中略)浜松町、渋谷、新宿、大塚、千住、大島、堀の内、江東の8営業所とし、」とありますから、やはり東荒川営業所はこれより前には廃止になっていたのではないでしょうか。
ただ、60年史には21年10月1日に江東の分車庫に格下げしたという記述もあり、
どちらが正確なのかわかりません。
いつ亡霊状態(あるいは廃止)になったかですが、昭和19年5月の改編を伝える当時の新聞(朝日新聞S19.4.29)に
[25]東荒川〜錦糸堀〜押上
[27]今井橋〜小松川〜平井駅
が紹介されていますから、まだこの時点では名実ともにあったのではないかと予想するのですが・・・。
102 hits
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まっきい
- 03/11/26(水) 23:30 -
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業平営業所の話ですので、一応ここにぶら下げます。
路線資料館の中の昭和17年2月現在、東京市バス系統一覧にて、
>市バスの業平営業所は昭和4年ごろに歴史上に一瞬現れる謎の営業所だが、地下鉄道から引き継いだということでその業平営業所とは関係がなさそう。いつなくなったのかは不明である。
とありますが、交通局60年史の巻末の年表にて、
「昭和19.3.28 洲崎および業平自動車営業所廃止」
とあり以前から不思議に思っていたのですが、ここで廃止されたのは地下鉄バスを引き継いだ2代目の業平営業所のことなのでしょうか。
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