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PLせつな
- 02/10/20(日) 22:39 -
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こんにちは。
実はこの発言を、さっきまで見落としていました。大変失礼しました。
S35の大都市交通センサスというと、国会図書館に所蔵されているもの
でしたっけ。朝のみの調査だったやつの。
実はこの資料、ほんのさわりだけしか見られておらず、複写もダメだったので
後回しになっていました。
しかしそんな経路で示されていたとすれば、非常に驚きです。
とりあえず手近な当時の資料からあたってみます。何かありましたら、
また報告いたしますね。台風被害に遭ったかどうか当時の新聞を見れば
わかるかな?
51 hits
<Mozilla/4.78 [ja] (Windows NT 5.0; U)@sy83-018.svc.itscom.jp>
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まっきい
- 02/12/18(水) 20:48 -
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昭和35年の東京都交通局編 乗客調査統計報告書(昭和35年の大都市
交通センサスの元データになっている、と明記されていました)を調
べてみました。こちらには停留所間のキロ程が書かれてるのが特長です。
まず、収録されている路線図(昭和35年9月現在)では29系統は葛西
橋経由となっており、葛西橋経由が正規ルートであることはわかります。
次に調査データでの29系統(小松川橋経由)のキロ程は13.995kmと、
後の29甲(安楽寺経由)と一致します。また、船堀小学校から宇喜田間
の距離1.420kmを考えても、安楽寺経由と考えるのが妥当です。よって、
私が前書き込んだ
>船堀小学校から宇喜田の間も昭和36年以降
>のように安楽寺経由でも棒茅場経由でもありません。
は嘘だと思われます。すみません。
なお、各停留所間のキロ程を用いて29系統の錦糸町駅〜行船公園〜新田
のキロ程を計算すると10.030kmとなり、15乙と一致します。調査当日
(1960年10月19日)、15乙の経路で迂回していたと推測されますが、
いかがでしょうか?
ただ、なぜ迂回したのかがいまだにわかりません。台風の被害を受け
たというような記述がある資料も見当たりませんし・・・。
54 hits
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; en-US; rv:1.3a) Gecko/20021212@nttkyo080213.tkyo.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
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PLせつな
- 02/12/24(火) 4:20 -
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お返事が遅くなりました。
わざわざお調べいただき、ありがとうございます。
まだセンサスの調査が途中で中断しているナマケモノです^_^;
それはさておき、S35版の乗客調査統計報告書も世の中には存在したのですね!
それは是非見なければ。資料にあたって、50・51系統の謎(東大構内の先は
どこ?)も解明したいものです。
うちの大学の蔵書にあるのだろうか……と思って蔵書検索をかけてみたら、
現在ご利用できませんと返されてしまいました…。
本題に戻りますが、29系統は確かにこの時点では(旧)葛西橋経由なのですね。
それは良いとして、15乙経由(すなわち、船堀小〜宇喜田を現在の船堀街道
経由)で運転されているに違いない、というのは、不思議の一言です。
この頃は、もう安楽寺経由の道路は開通していたのでしょうか。
いつもの系統の運行と異なるものが調査されたのであれば、最初に何か
書いてあるはずですし、そもそも突発的に全く違う経路になったというのなら
再調査するはずですし……。
あとは考えられることと言えば、この時期は木造橋の末期で、老朽化により
恒常的に迂回があったのかもしれません。単なる思い付きですが^_^;
うーむ謎です。タイムスリップしたくなってきました。
64 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@h219-110-046-138.catv01.itscom.jp>
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まっきい
- 03/1/18(土) 10:53 -
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納得できる(自分なりに^_^;)答えを見つけましたのでお知らせします。
当時の新聞の縮刷版を調べてみた結果、当時の葛西橋は
●昭和35年の1年間のうち、半分の期間は修理中であり、その期間中は
大型トラックとバスは通行止め。
●修理しなくてはならない原因として、橋脚に船がぶつかって橋げたが
ずれたり、橋に大穴が開き、バスの車輪がめりこむ事故がおきている。
(昭和36年1月5日 朝日新聞朝刊12面による)
という状況であったとの記述がありました。
>
>あとは考えられることと言えば、この時期は木造橋の末期で、老朽化により
>恒常的に迂回があったのかもしれません。単なる思い付きですが^_^;
というPLせつなさんの予想は正しかったようです。
上で大穴が開いたというのは、錦糸町駅ゆきの都営バスの左車輪が40cm四方
の穴にめり込んだという事故で、この事故が起こった昭和35年2月18日から
4月15日までの間、葛西橋は三輪車以上は通行止め、バスも小松川橋経由で
迂回していたとの記述が別の記事にありました。
古い話にお付き合いいただき、本当にどうもありがとうございました。
69 hits
<Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; en-US; rv:1.3a) Gecko/20021212@nttkyo111091.tkyo.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp>
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PLせつな
- 03/1/29(水) 21:25 -
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何だか間歇泉のように返事がつくこのスレッド^_^;ですが、
調査ありがとうございました。改めてお礼申し上げます。
小松川橋経由ともなると、まったく違う系統になってしまう感じです。
末期は半分の期間が迂回していたとなると、もう恒常的なものといっても
差し支えないですね。今は他の橋も整備され、交通事情は格段に改善されたように
思います。
ではでは。
86 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)@h219-110-057-056.catv01.itscom.jp>