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PLせつな
- 12/2/12(日) 22:08 -
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すみません、都筑です。
> また、車内のウィンカー表示は緑色の丸い表示1個だけで、右折も、左折も同じランプが点滅していました。
> そして、ハンドルとは非連動で、作動させるときも戻す時も手で白いレバーを操作していました。
> これが連動式になったのも、左右の車内点滅が別になった時期も良く覚えていません。
→都バス70年史を参考にすると、以下のような変更になっています。
昭和40年度(K)……点滅式の方向指示器を装備
昭和41年度(M)……降車ブザーと連動した「つぎとまります」表示を採用
昭和43年度(RS)……自動つり銭式料金収納機を採用、側面行き先表示幕を中扉上から前側に移設(S代〜)、扉脇のワンマン入口/出口表示が幕からプレートに(S代後期〜)。
昭和44年度(TV)……車掌席の扉スイッチが簡素化され、中扉の半開き構造を廃止。温水式デフロスタを採用。降車ボタンにメモリー式押しボタンを採用。車内照明を4灯とする。車内時計にスポンサー付きのものを採用。前面幕の巻き取りハンドルを右側に移設
以前は左右の車内点滅はひとつで済まされていたのですね。
多分この時期で変更になったのは間違いないと思うのですが……
> 運賃箱は当時、現金も回数券も同じ投入口に入れ、釣り銭がある時は、丸い筒の上にのせると運転手がそれを見て、払い出し機を操作して、手渡ししていました。
払い出し機は別にあって(切符窓口にあるような、10円・50円・100円が小さな筒に入ってきて下のレバーを押すと1枚ずつ出てくるやつでしょうか?)、丸い筒は単なる運賃を収納する箱、だったのでしょうかね。
> また、都電22番が廃止になってもしばらく東42系統は新谷町の所属で、
>当時小学生だった私が「幻の系統」と呼んでいた東42系統の出庫便が浅草三丁目始発で、上46と同ルートを通り、南千住まで運行されていたので、乗り得バスでした。
これがあったか、ということで調べてみると、運輸統計年報に
S46. 3. 18 [522折]…入谷二丁目〜南千住を開設
となっています。入谷二丁目ということは新谷町車庫の前ですが、停留所の位置の都合で、南千住方面は浅草三丁目始発だったのかもしれません。ちゃんと運行されていたんですね。隅田公園で本線に合流、という感じです。
ちなみに、この都電廃止から南千住営業所が移転してくるまで、千住の分車庫自体は敷地内にあったようですが、新谷町持ちだった[東42]は南千住は単純に折り返す場所というか滞泊はしない終点くらいで、あくまで本拠は新谷町車庫だったのかが少し気になっています。そこのところは何か記憶にあるでしょうか……。
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<Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:10.0) Gecko/20100101 Firefox/10.0@HKRnf1723.tokyo-ip.dti.ne.jp>
▼PLせつなさん:
方向指示器のことで思い出したことがありましたので記します。
>→都バス70年史を参考にすると、以下のような変更になっています。
>昭和40年度(K)……点滅式の方向指示器を装備
上記K代に先立って、G代前期のツーマン車の一部で点滅式が試用されています。
車号がわかっているのは、L-G261(日デ/富士重)とR-G194(いすゞ/川崎/)の二台だけですが、他の営業所にもいたと思います。
二代目G代で冷房試作車が各営業所に二台ずつ配置されたのと同じような感じだったのでは、と思います。
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三ノ輪車庫
- 12/2/18(土) 11:44 -
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▼PLせつなさん:
>→都バス70年史を参考にすると、以下のような変更になっています。
>昭和40年度(K)……点滅式の方向指示器を装備
>昭和41年度(M)……降車ブザーと連動した「つぎとまります」表示を採用
>昭和43年度(RS)……自動つり銭式料金収納機を採用、側面行き先表示幕を中扉上から前側に移設(S代〜)、扉脇のワンマン入口/出口表示が幕からプレートに(S代後期〜)。
>昭和44年度(TV)……車掌席の扉スイッチが簡素化され、中扉の半開き構造を廃止。温水式デフロスタを採用。降車ボタンにメモリー式押しボタンを採用。車内照明を4灯とする。車内時計にスポンサー付きのものを採用。前面幕の巻き取りハンドルを右側に移設
>
>以前は左右の車内点滅はひとつで済まされていたのですね。
>多分この時期で変更になったのは間違いないと思うのですが……
PLせつなさん、ねこまたさん、詳しい情報をいただきありがとうございます。
当時の運賃箱はただの直方体の箱で、現金も回数券も同じ投入口に入れていて、少し溜まったら運転手がレバーで底板を回転させて下にある収納箱に落とす方式をとっていました。
したがって丸い筒は釣り銭の払い出し専用機で、上部の皿に50円玉や100円玉を置くと、それを見て必要な釣り銭を払い出す方式でした。
当時は大人運賃が30円くらいでしたから、子供運賃のために、5円玉も払い出し機に仕込んであったかと思われます。
降車ボタンについては調べていたらすごいサイトを見つけました。
その名も「つぎとまります」です。
URLを入力するより「つぎとまります」で検索したほうがはるかに早いかもしれません。
このサイトは降車ボタンや運転手用の降車ランプなどが大量に見られるサイトで、私も驚きました。今年になってからの更新はないようですが、降車ボタンについては参考になるかと思います。
>
>これがあったか、ということで調べてみると、運輸統計年報に
>S46. 3. 18 [522折]…入谷二丁目〜南千住を開設
>となっています。入谷二丁目ということは新谷町車庫の前ですが、停留所の位置の都合で、南千住方面は浅草三丁目始発だったのかもしれません。ちゃんと運行されていたんですね。隅田公園で本線に合流、という感じです。
この522番折返系統は出庫専用だったようで、南千住からの入庫系統は見たことがありません。運行ルートは隅田公園経由ではなく、浅草五丁目・吉原大門経由で、清川二丁目で本線に合流といった感じでした。大体16番(上46)の続行で運転されていましたが、時刻表に表示されていなかったために、西浅草の交差点を凝視していて、三文字の幕を見たら喜んだものです。
また、当時千住の分車庫があったのはご存じのとおりですが、522番に関しては、あくまで操車場、折り返し場として使用していて、夜間滞泊などはなかったと記憶しています。入庫は16番とともに新谷町まで回送していたのではないかと思います。
当時の千住営業所南千住分車庫は12番(里22)、521番(秋47)、531番(東40)が所属していました。
>
車掌のドアハンドルは開・半開・閉の三段階のときは回転式だったと記憶していますが、半開動作の廃止と運転手用と共通のレバー式になったのは同時だったのでしょうね。車掌席は狭いので取り付け方法が違うので前後ではなく上下式でした。
また、車内のウィンカー表示は左右別々になった時期は覚えていませんが、当初は左折用と右折用の表示ランプが中央に寄っていてどちらが付いているのか運転手にも分かりにくい構造でしたが、
いつのころからか、両端に移動してわかりやすくなりました。移動した時期も覚えていません。
長文の上、返信が遅れました事、お詫びいたします。
77 hits
<Mozilla/5.0 (Windows NT 6.0; WOW64) AppleWebKit/535.11 (KHTML, like Gecko) Chr...@104.67.105.175.ap.yournet.ne.jp>
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PLせつな
- 12/2/22(水) 2:47 -
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▼ねこまたさん:
>▼PLせつなさん:
>
>上記K代に先立って、G代前期のツーマン車の一部で点滅式が試用されています。
>車号がわかっているのは、L-G261(日デ/富士重)とR-G194(いすゞ/川崎/)の二台だけですが、他の営業所にもいたと思います。
ありがとうございます。
当時から試作を平等に各車庫……という考えでやっていたのでしょうね。
この辺りの装備の変遷もマジメに追ってみたいところですが、いかんせん資料が不足しています…。
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PLせつな
- 12/2/22(水) 2:53 -
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▼三ノ輪車庫さん:
>▼PLせつなさん:
>
>
> この522番折返系統は出庫専用だったようで、南千住からの入庫系統は見たことがありません。運行ルートは隅田公園経由ではなく、浅草五丁目・吉原大門経由で、清川二丁目で本線に合流といった感じでした。大体16番(上46)の続行で運転されていましたが、時刻表に表示されていなかったために、西浅草の交差点を凝視していて、三文字の幕を見たら喜んだものです。
何と、それはノーマークの経路でした。[上46]の千束の商店街から吉原大門を抜けるルートでの運転だったのですね。後発で開通した系統ゆえ、隅田公園の右折規制に引っ掛からないような経路にしたのかもしれません。
[522]はそうすると夜間滞泊なしで折り返していただけですね。
当時は[16]の入庫も新谷町行きではなく、汐入終点→新谷町まで回送していたのかが謎です。
ちなみに、千住の分車庫は、敷地にどのような形であったかご存知でしょうか。単純に、今の南千住の敷地と同じところを使っていただけでしょうか。(当時は都営アパートがなかったとは思いますが)
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三ノ輪車庫
- 12/2/24(金) 23:18 -
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▼PLせつなさん:
>
>ちなみに、千住の分車庫は、敷地にどのような形であったかご存知でしょうか。単純に、今の南千住の敷地と同じところを使っていただけでしょうか。(当時は都営アパートがなかったとは思いますが)
返信が遅くなり申し訳ありません。この一件は良く覚えていないのでウィキペディアで追っかけてみました。
まず、都電22番の廃止は昭和46(1971)年3月18日ということで、同系統の単独所管だった南千住電車営業所は、この日をもって廃止されたことになります。
そして、現在南千住自動車営業所の敷地に建つ都営住宅は、「都営南千住二丁目アパート」と称し、完成が昭和46年となっていました。
この昭和46年というのが曲者で、その先を調べることは出来ませんでしたが、
都電が現役のときには都営住宅は建っていなかったので、南千住電車営業所の廃止とともに完成したのか、最大9カ月近いブランクがあったかは私もわかりません。
ただ、千住自動車営業所南千住分車庫として使用され始めたころは、線路もきれいに無くなって電車営業所の敷地すべてがバスに車庫になっていたとお考えになってよろしいかと思います。
そして、南千住分車庫の事務所は昭和46年完成の都営アパートの1階にあったとお考えになってよろしいかと思います。
私の記憶でも、サイトの記録でもバスの車庫=都営住宅は完成しているという図式しか見当たりません。
ただ、禅問答のようですが、昭和46年は当然ながら12月31日まであります。 都電の廃止は3月18日です。この間に都営住宅が完成していたかどうか。そこが謎です。
なお。南千住電車営業所時代の事務所(乗務員詰所?)は木造だった記憶があります。
記憶があいまいなままでは申し訳ないので、ウィキぺディアの力を借りて見ましたが、私の記憶はここまでで限界です。 申し訳ありません。
82 hits
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