情報交換・投稿・交流のための掲示板・第3版です。
同じ話題への発言につきましては、新規ツリー作成ではなく
その発言への返信という形でご投稿下さい。
投稿者名について、系統番号・局番・営業所等そのままの名は禁止事項とします。
都営バスエリア内のコミュニティバスの話題もこちらでどうぞ。
(一部の漫画喫茶などからの書き込みを制限しています)
運営に関する質問等は掲示板には書き込まず、メールにてお願いします。
|
都電37番
- 09/3/14(土) 7:21 -
|
▼三ノ輪車庫さん:
> 確かに104系統の浅草雷門行は、馬道交差点を右折していたので、架線もそのように張られていたと思います。
私が待っていた停留所へは架線のないところを右折して来たので、可能性が高いのは浅草三丁目か隅田公園です。道路工事か架線工事で迂回したと思われます。私は101系統以外は乗ったことがないので、トロリーバスが架線のないところを走るなんて驚きでした。
102系統と103系統の車両だけ補助エンジンを付けていたと書籍で読んだのは高校生になってからで、あのときからかなり後でした。しかし補助エンジンは排気量の小さいものなので、速度はそれほど出ないそうです。蓄電池を使わなかったのは蓄電池は重いのと、当時は600Vに上げる技術がなかったためでしょうね。蓄電池を直列で600Vにするというのは危険です。
84 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB5)@y195113.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp>
|
三ノ輪車庫
- 09/3/15(日) 10:52 -
|
そうでした。バッテリーではなく、補助エンジンでした。失礼しました。
あくまで補助なので、短区間の走行に使用するだけの出力しかなかったと思います。この車両は戸山営業所に所属していたので、103系統だけではなく、補助エンジンの不要な102や104系統にも使用されていたんでしょうね。
今井営業所の101系統にはそのような機構を備えた車両はなく、前面2枚窓で101系電車のように上部がくぼんだタイプが来ると「当たり」と言って喜んでいました。
都電37番さんには懐かしいお話をいだだいて、こちらも昔を思い出させていただきました。ありがとうございました。
88 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB5; IEMB3; .NET CLR 2.0.5...@softbank126065255135.bbtec.net>
|
都電37番
- 09/3/16(月) 6:12 -
|
新たに一つ疑問が出てきました。
104系統が馬道交差点で言問通りに合流したあとは浅草三丁目で左折しますが、私が立っていた停留所に左折用架線はなかったので、考えられるのは隅田公園ということになります。
馬道で合流して浅草三丁目で分岐する間は1停留所なので、架線は101に合流せずに2組のまま平行し浅草三丁目で分かれれば、付け替え作業を省略できますがご存知でしょうか。
96 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB5)@y195113.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp>
|
三ノ輪車庫
- 09/3/20(金) 12:35 -
|
104系統がポールを付け替えたと言う記憶は(当時は小学生の低学年でした)ありませんでしたので、推測で申し訳ないのですが、並行区間が浅草2丁目〜浅草3丁目間の1停留所でしたので、おそらく101系統用の他に、104系統用の架線も張ってあったと思いますが、これが、池袋〜三ノ輪2丁目間で並行する103系統と、104系統の場合は別架線とは考えにくいです。
さて、トロリーバス自体の話から、表題の本論に話を移しますと、602〜604系統の場合は、最初から代替バスがワンマンで登場したように記憶しています。 601系統は登場当初は車掌が乗務していて、ツーマン専用車で運行されて、後にワン・ツーマン兼用車に変わりましたが、このバス車掌側のドアレバーではドアが半開きにしか開かなかったのを覚えています。
でも、車掌用のレバーは閉じのほか半開と全開位置があったので、多分車掌は全開までレバーを動かさなかったのでしょうね。
ほどなく、ワンマン化されましたが、いい思い出です。
この当時朝の数本のみ、本来二天門経由の604系統池袋駅東口行が浅草3丁目・浅草警察署経由で運転されていましたが、ほどなく統一されました。
また、トロリーバス時代は覚えていませんが、604系統になってからは浅草雷門循環だったので、浅草3丁目〜東武浅草駅方面をスルーで乗ることが出来ました。当時は戸山営業所がバスの車庫になったため、三菱の車が使われていたので、後に昭和町分車庫が戸山(早稲田)持ちから滝野川に変わったので、いすゞ車に変わった時は驚きました。
104 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB5; IEMB3; .NET CLR 2.0.5...@softbank126065255135.bbtec.net>
|
都電37番
- 09/3/20(金) 14:57 -
|
たしかに言われてみると半開きがありましたねえ。バス化された初日に乗ったときはたしか車掌が乗務していたと思います。でも言われるようにすぐワンマンになってしまいました。
男の車掌さんが浅草観音の停留所で停留所名を言ったのちに「国際通り」と補足した記憶があります。当時は正式停留所名のほかに通称を補足することがよくありました。あれはなぜかバス化された後のような気がしますが、バスには男の車掌はいないからトロリーバス時代の話ですね。あるいは運転手が補足したのかなあ。ワンマン化された直後は運転手もワンマン手当をもらえるので張り切っていた可能性もあります。たまたまある運転手が乗客と、ワンマン手当を払ってもワンマン化したほうが経費節減になるかな、と話していました。ということは二人分とまではいかないまでもある程度の手当を貰えたのでしょうね。
ある都電ファンの人から今朝、馬道から浅草観音までは101と104は共同の架線を使い、浅草観音に電気フロックというものがあって分岐したと教えてもらいました。これで私の見たのは浅草観音で決定でしょう。隅田公園は道路が言問橋から西に下降しているので、見た光景とは違うなあとは思ったのですが、架線が1組しかなかったので、もしや、と思ってしまいました。
111 hits
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; GTB5)@y195113.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp>