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PLせつな
- 09/3/11(水) 21:58 -
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▼都電37番さん:
色々と興味深く拝見しました。
トロリー時代は鶯谷駅折返だったのですね。
バスの上野桜木折り返しの意味がよく分からなかったのですが、鶯谷の代替と考えると確かにしっくり来ます。
昭和43年9月の[601]の開通時は、折り返しとして、今井〜亀戸駅、今井〜上野桜木が開設されていますが、上野桜木ゆきの運行がいつ頃まであったのかは分からないです。(多分昭和50年頃までにはなくなっていたと思いますが)
また、手前の鶯谷駅も、今は[上26]は陸橋ができてしまったために停車しなくなってしまいましたね。停まらなくなった後も、しばらく車内の路線図には「休止」の扱いで鶯谷駅の表示がありました。
現在の側面方向幕に(鶯谷駅入口)があるのも、この名残なのかもしれません。
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都電37番
- 09/3/12(木) 6:11 -
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なるほど都バス601系統になったときは、既に上野桜木町ではなく上野桜木だったのですね。
父が上野桜木町は元は寛永寺坂といったと語っていました。古くは京成の駅があり今でもホームが残っています。しかしトロリーバス開通時に駅は既に廃止されていたため、停留所名が寛永寺坂だったのかどうか疑問です。
ちなみに根津から谷中に上がる坂は善光寺坂と呼ばれていました。
父の時代には上野の五重塔と谷中の五重塔が並んで見えたそうです。たぶん農学部に行く坂や権現様(根津神社のことを地元ではそう呼んでいました)の前の坂を上がったところから見えたのだと思います。
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都電37番
- 09/3/15(日) 12:11 -
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たまたま毎日新聞に昭和31年の地図を見つけました。これによると停留所名は上野桜木町ではなく、桜木町だったようです。
http://showa.mainichi.jp/map/?lat=35.72159&lng=139.775926
3年ほど前に、都電ファン仲間数人とトロリーバスができる前の東荒川から今井までの線路跡を歩いたことがあります。当時の写真に写っている東荒川の停留所近くの祠が今でもあったり、線路跡が道路になっていたり、住宅になっていても当時の線路がわかるような区画になっていたりと、当時の面影が多数残っていることに驚きました。途中の一之江に国柱会がありその庭園を見ながら、宮沢賢治と石原莞爾の共通点は何だろうねえ、などと話しながら今井に向かいました。同会の旧本部は鶯谷にあり、私は今でもなぜか上野桜木のバス停前を連想してしまいます。実際は鶯谷駅の南の線路東側にありました。なぜ連想してしまうのか地図を見て今日やっと分かりました。線路の東側の地名も飛び地で上野桜木町でした。
上野公園から今井の路線は、交通局が国柱会の会員移動を乗客数に見込んでいた可能性があります。昔の同会は北原白秋の奥さんや武見太郎など有名人もたくさんいました。同会が鶯谷から撤退したのは昭和45年ころです。
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PLせつな
- 09/3/15(日) 15:29 -
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▼都電37番さん:
こんにちは。
旧住所の上野桜木町は、根岸一丁目の一部、上野公園の一部、上野桜木一丁目・二丁目の大半といったように分割されましたが、上野桜木一丁目・二丁目の住居表示を実施した昭和42年1月1日をもって旧住所の上野桜木町は消滅しました。
停留所名もこの頃には改称していたと思います。
鶯谷駅〜根津駅(逢初橋)の区間にバスが通ったのは昭和7年の路線変更が初めてですが、当時は「寛永寺横」、昭和9〜10年頃に「桜木町」に改称、その後戦中の路線縮小で廃止され、戦後にトロリーバスが開通するまではバスのない区間でした。
トロリーバス開通時の正式名称は「上野桜木町」のはずです。昭和35年の乗降客調査の時の名称もそうなっています。
※この当時は「上野桜木」という地名は存在しないので、そのような名前にする理由がないと思っています
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都電37番
- 09/3/16(月) 6:27 -
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寛永寺横という停留所があったのですか。ありがとうございます。
トロリーバスがバス化された理由はバスが大型化してトロリーバスと差がなくなったことだと思いますが、皆さんいかがでしょうか。石油より電力が相当安くないと架線など設備費が出ない、ということも考えられます。
今、トロリーバスが走っている国は電力が安いのでしょうね。そうすると二酸化炭素収支から考えることもできます。水力発電の比率が高いと二酸化炭素排出が少ないトロリーバスが有利、という理論です。火力だと熱効率が当時は30%くらい。そうするとディーゼルエンジンと変わらなくなってしまいます。
今だったら「バスのハイブリッド」対「トロリーバスの回生ブレーキ」でトロリーバスにも生き残る方法がありそうです。
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都電37番
- 09/3/22(日) 18:16 -
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あと思い出で書いておきたいことは、トロリーバス時代は上野公園の停留所は不忍池の横にあって、今井行きが発車するときは道路をぐるっとUターンしました。道路の信号機に黄色のU矢印がありました。黄色の普通の矢印は路面電車用にあちこちにありましたがU矢印は珍しいですね。
都電は架線のところに通過を検知する装置が付いていて、道路用の信号機と連動していました。つまり、黄色の矢印が点灯して都電が発車し装置をビューゲルが叩くと黄色の矢印が消えて直角方向の道路の信号が青になりました。これは道路の信号機は警視庁ではなく交通局の管理だった時のなごりというか既得権だったのでしょう。
トロリーバス廃止後のバスが松坂屋をループしてUターンがなくなったのも既得権がなくなったのと、黄色矢印を点灯させると道路交通法に合っていないためなのでしょうね。
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都電37番
- 09/4/5(日) 18:11 -
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鉄道ピクトリアルの1969年4月号にトロリーバスとバスの比較が載っていますのでご紹介します。
軽油燃料事情の好転とディーゼルエンジンの発達により、大量輸送機関としての優位性が失われた、とあります。
・トロリーバスは200型が74人、300型が68人
・バスは1956年は日野BH14が64人、日野G590が58人
1967年は日野RB120が96人、日野UR690が72人
そして経済性もバスに対してやや高率であるが差が著しく縮まっている、とあります。
しかし都電、トロリーバスの不良債務は少なく、地下鉄、バスの不良債務は多いため、施設を売却し不良債務を返済するためであった、と結論付けています。
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