ある日の記録(昭和60年前後)

撮影=田中敏夫さん

昭和60年前後に撮られた貴重な写真。今となってはなつかしの写真ばかりである。

いすゞ


クリーム色に青帯の、いわゆる「美濃部色」のバス。昭和54年度(G代)までに導入された車がこの色をまとった。どちらも早稲田近辺で撮影したものである。ナンバープレートから推測すると、下はE-F298(昭和53年度導入)であろう。上は先代のX・Y代車(昭和46年度導入)ではないかと思われる。


 上から順にE-H221、E-K388(ってこれはまるわかりか)である。H代からは方向幕が大型化され、冷房化もなされた。黄色に赤帯の塗装は色彩がいまいちということで市民の間に物議を醸したようで、G代の一部とH代に採用されたのみであったようだ。しかしよく考えると、かつての都電と同じ塗り分けなのである。昔は特になにも意見がなかったのだろうか。
 下は昭和57年末に九段下〜東京駅北口が短縮された飯64に入るK代車。九段下から先は、末期は本数も多くなかったようだ。大型幕車と飯64 東京駅北口という組み合わせも、長くは続かなかったことになる。このK代から、現行の緑とクリーム色の塗装となった。

背景の銀行名も懐かしい新宿駅西口ターミナル。短距離で効率のよいこの路線は非常に多くの乗客を運んでいた。この車(C-M306)は側窓も大きく、都会の風景が良く見る事が出来た。

日野

今となってはすっかりおなじみの車体。しかし、日野車体はあまりモデルチェンジをしなかったので初めて見たときは衝撃的だった(撮影者談)。マイナーチェンジをしつつも、今なお同じ車体である。背景の「住友銀行」の書体が懐かしい、新宿駅西口ターミナルにて。ちなみにご存じの方も多いかもしれないが、銀71は後に都03へと昇格する路線である。


葛西橋東詰にて(V-M294)。都心のごみごみしたところとは違う雰囲気があった。といっても荒川河口橋などなかった当時、朝の葛西橋の渋滞は今の比ではない凄まじいものであったらしい。

三菱

この車(Z401)は、廃車1年くらい前の昭和56年頃に早稲田にやって来た。早稲田の車としては異色の存在である。座席はバネ式、後部方向幕の弁当箱が確認できる(美濃部色)。

G代の早稲田型(T-G361)。視野拡大の為、早稲田のみ前面大型窓が採用されたことによる(美濃部色)。

車庫から出庫て新宿駅西口に向かう早77(T-G366)。早稲田のみに2台配置された旧呉羽車体の試作冷房車(鈴木都知事色)である。ちなみに三菱-三菱の組み合わせは、青戸に導入されている(G455,G456)。この次のH代から、全車に冷房が装備されるようになった。

3色そろい踏み。真ん中の車はT-L584で、廃車直前に千住に転出していった。三菱と呉羽では共通設計をしていた、見分けは側面の幕の下の窓で見分けがつく大きい窓が三菱、小さい窓が呉羽である。配置は山手の呉羽(渋谷・早稲田)、下町に三菱(千住・南千住・青戸)というようになっていた。この頃、というか最近までは、都営バスは1車庫1メーカーというのが大原則だったのである。

日デ


 昭和60年代導入のN代車より、適材適所というコンセプトで中型車が導入された。第一期生として導入されたのが青梅支所(日野)、八王子支所(いすゞ)、そしてこの練馬営業所(日デ)であった。練馬にはN821〜N827の7台が投入され、管内でも乗客が少なめで採算があまり良くない宿62(新宿駅西口〜大泉学園駅)にもっぱら使用された。写真の車は投入直後ということもあって新しさが漂っている。宿62は大泉学園まで均一運賃で行けるとあって時間のかかることを厭わない層に人気を誇っていたが、大江戸線の新宿延伸で新宿駅側が短縮され、現在の新江62となった。山手通りを走る西武バス・宿20に「共通定期」の表示がうっすらと残っているのはその名残である。
 練馬には次の年のP代でも中型車が7代投入され、計14台が走り回ったが、平成8年は全車が除籍され、日デの中型は都営バスから消滅した。