昭和57年12月26日改編(その3)

撮影=naganoさん

廃止7:東26(東京駅八重洲口〜葛西車庫)
葛西営業所

始発・終発 東京駅八重洲口発7:30〜10:31、16:38〜19:25
葛西車庫発6:36〜9:40、15:35〜18:34
間隔 朝7〜21 夕8〜20

 [東26]は今も健在の[秋26]の兄弟路線として、昭和45年に[26乙]系統として開設された路線である。葛西から水天宮までは[秋26]と同じように進んだ後、いったん隅田川側に戻り、湊橋を渡って八重洲通りまで出ていた。水天宮からそのまま新大橋通りを進んで八丁堀まで出れば良いと思えるが、八重洲口から水天宮までの区間は同日に廃止された[37]系統(東京駅八重洲口〜両国駅)の廃止代替も兼ねていたので、仕方のないところだろう。開通当初から朝夕のみの運転で、通勤利用を主眼としていたようである。また、朝を中心に葛西橋の渋滞を回避する東京駅八重洲口〜旧葛西橋折返しも存在した。

 しかしながら利用は伸びず、昭和54年に本線たる[秋26]が葛西車庫から葛西駅まで延伸されたときも、この系統は葛西車庫止まりであった。せっかくならこの系統も葛西駅まで伸ばしたほうが利用が上向いたかもしれないのだが、結局その3年後に廃止されてしまった。この系統の廃止で箱崎町〜亀島橋はバス路線が消滅したが、その後平成元年に[東22乙]東京駅北口〜IBM箱崎ビルが開通したことで、新川1〜箱崎町の区間が復活し、同時に湊橋のバス停も復活した(現在は経路変更により湊橋バス停は使用されていない)。


東京駅八重洲口を発車した[東26]。W638(昭和45年度導入)で、当時いた車の中でも古参にあたる。

統合8:
銀86(渋谷駅〜豊海水産埠頭:渋谷営業所)+東16(東京駅南口〜勝どき5:深川営業所)
→銀16(東京駅南口〜豊海水産埠頭:江東営業所)

始発・終発 銀86:渋谷駅発6:30〜21:35/豊海水産埠頭発7:10〜21:57(虎ノ門止22:15)
東16:東京駅南口発7:02〜8:29、16:34〜17:55
東16:勝どき5発7:00〜8:57、17:25〜18:25
間隔 銀86(渋谷駅〜虎ノ門):朝15〜22 昼10〜32 夕15〜28
東16:朝20 夕20
乗車人員(昭和56年度) 銀86:7,235人/日、東16:不明
収支係数(昭和56年度) *

  [銀86]は都電9系統の代替として開通した路線。渋谷から青山一丁目まではR246を、今度は麻布台まで外苑東通りを橋って左折、そして桜田門まで直進し、そこから先は晴海通りを進んで豊海水産埠頭まで達していた。開通当初は豊海水産埠頭行きのほか、勝どき2(現勝どき駅)を逆に右折して新佃島(現・月島駅)に向かう乙線が存在した。一本ではいけないところ同士を結んでいたが、遠回りであり、また数々の渋滞地帯を通るために定時性が守れなくなるのは当然の帰結であった。また、渋谷駅から見て六本木〜虎ノ門や数寄屋橋は[東82](東京駅八重洲口〜渋谷駅・等々力)や[渋88](渋谷駅〜東京タワー)が頻発しており、そちらのほうの利用者が多かったと思われる。そんなわけで渋谷側の利用者はかなり少なくなってしまい、乗客の見込める豊海側に虎ノ門〜豊海水産埠頭という折返線を作ってしまい、末期は全線通し便は20〜30分間隔にまで減少していた。さらに昭和53年には新佃島行きの乙線も廃止されている。

 [東16]系統は歴史のある系統で、昭和27年に開通した路線である。当初は勝どき五丁目停留所近くにあったらしい東海汽船の発着所へのアクセス路線として開通したようだが、昭和30年には朝夕のみの運転に規模が縮小され、以降30年近くこの体制が続いた。昭和57年の改編ではこの2つを合体させることとなり、[東16]の区間と[銀86]の本数を合わせて、新生[銀16]東京駅南口〜豊海水産埠頭経由とすることになったのである。実態は[銀86]は数寄屋橋から西側の部分が全て切り捨てられたわけで、[銀86]に関しては廃止と言っても差し支えないだろう。[東16]しか通らなかった勝どき五丁目付近の区間は朝夕のみ勝どき五丁目を経由することで存続することとなり、これは都市新バス化されて[都04]となった今でも変わっていない。


渋谷駅の乗り場にて、豊海水産埠頭行きのZ576が発車を待っている。のりばの位置は都電乗り場をそのまま流用したもので、かつての[都01]の乗り場の後ろ、並木橋寄りにあった。現在はタクシーが並んでいる場所である。


銀座付近にて(B-H184)。「六本木・渋谷駅」の表示はよく考えると今の[都01]、かつての[橋89]と表示内容が全く一緒だ。


上の写真と同じ場所で「虎ノ門行き」の表示を出して都心を走る最新鋭のB-L575。虎ノ門より海側は10分に1本はあったようだ。


豊海水産埠頭の乗り場。当時は[門33]と[銀86]の2路線が発着していた。虎ノ門ゆきと渋谷駅行きが別々に記載されている。


朝夕しか走らない[東16]の姿をキャッチ(S-G355)。現在の[都05]乗り場のところから発車していた。


今度は東京駅にやって来た[東18](S-B521)といっしょに。[東18]は有楽町線が新木場まで延びるまでは月島地区の住民の足として東京駅南口〜新佃島(〜門前仲町)を走っていた幹線格の路線で、昭和63年にこれが廃止されたと同時に[都05]が開通したのである。そういう意味では[都05]は[東18]の生まれ変わりと言えるかもしれない。

統合9:
海01(品川駅東口〜海上公園:品川営業所)+門19丁(門前仲町〜海上公園)→
海01(品川駅東口〜門前仲町:品川営業所)

始発・終発 海01:品川駅東口発9:00〜17:05、海上公園発9:30〜17:40
門19丁:門前仲町発8:20〜17:35、海上公園発9:02〜18:20
間隔 海01:朝60 昼60 夕60

 [海01]は、もともとは昭和54年にお台場で開かれた宇宙博覧会のための臨時輸送系統として開通した路線である。品川駅東口から[品98]と同じように天王洲アイル(この時は影も形もなし)を抜けて大井火力発電所を通り過ぎた後、首都高に入って海底トンネルを抜けるというところからも特殊性が分かるだろう。一方の[門19丁]は昭和49年にお台場の埋め立てが出来上がり、船の科学館が今の地に完成したことを受けて、この辺一帯の海上公園へのアクセス路線として門前仲町から走らせたものである。開通した当時は足もぬかるむような場所で、施設らしい施設といえば船の科学館しかないという、正に荒涼とした場所であったという。そういうわけでどちらも行楽路線としての役割のほうがまだ大きく、運行時間帯も朝ラッシュ過ぎから夕方前までに限定されていた。それが、将来の発展を見越したのかは定かではないが、お台場地区の基幹路線として海上公園をスルーする形態に改められ、品川駅東口から門前仲町まで達する長大路線となったのである。統合直後は全便品川営業所の担当になり、運行時間帯が多少夜に拡大した程度だったが、翌年には深川営業所が参入して共管となり、昭和60年代に入ると時間2〜3本体制になった。

 この時代は、お台場の道路もほとんどなかったために現在のルートとはかなり違った形になっている。[海01]は品川からトンネルを抜けて13号地出口を出た後すぐに右折を2回してR357に出て今はなき「13号地海底トンネル入口」に停車、そして突き当たりを右折して海上公園(現・船の科学館駅)に達していた。折返方法は不明。今でもホテルグランパシフィックメリディアン裏に都営バスの休止ポールが立っているが、それがこの海底トンネル入口停留所である。[門19]は有明一丁目までは現在と同じように進み、有明スポーツセンター前ののぞみ橋東交差点付近にあった有明橋停留所に停車、その後今は清掃工場の敷地内になってしまって痕跡もわからない道路を通ってR357に抜けていた。ちなみに「建材埠頭入口」は今のゆりかもめのお台場海浜公園駅の真横にあたるR357上に存在した。


旧[海01]を走るA-W507。品川駅東口では、路上から少し引っ込んだところにある[品98]と同じ乗り場を使用していた。


逆側から。つい最近の平成11年ころまで、品川駅東口(港南口)はこんな感じだった。


統合初日の新生[海01]。品川駅東口にて。海上公園折返の設定も一応残され、品川の幕には品川駅→海上公園が、のちに参入した深川の幕には門前仲町→海上公園がそれぞれ入っていた。


小型方向幕の側面。いくらなんでもシンプルすぎるのでは。


門前仲町にて。前面方向幕が往復兼用だが、さすがにこれではどっち行きだか迷いそうだ。