都営バス資料館

×東52

[東52]←[117]

担当営業所

志村営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
常盤台教会~大和町~板橋駅東口~大塚駅~東大農学部~御茶ノ水駅~東京駅北口 13.568km
大塚駅~東大農学部~御茶ノ水駅~東京駅北口 6.968km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
117 S24. 9.15 大塚 12.578km 上板橋(現・前野町2付近)~大和町~東京駅北口が開通、国際と相互乗り入れ
117 S2412. 1 大塚 12.978km 調査により路線長を変更
117 S26 大塚 13.188km キロ程修正?
117 S27. 9. 1 大塚  *** (新)上板橋~常盤台3~前野町~大和町~東京駅北口に延長
117 S31.12.29 大塚 16.376km 東京駅北口~都庁前(←有楽町駅)~日比谷を延長
117 S36. 9.18 大塚 16.326km 一部経路変更
117 S37.12.15 大塚 16.250/16.276km 東京駅北口、丸の内1付近で経路変更
117 S39. 2. 5 大塚 16.150/16.176km 一部経路変更
117 S39.10.10 大塚 16.222/16.176km 一部経路変更
117 S40.1現在 大塚 16.200/16.226km ?
117 S41.12.20? 大塚 (14.538km) 東京駅北口~日比谷を短縮
117 S46. 3.17 志村 *** 志村営業所に移管
東52 S47.11.12 志村 *** 新系統番号化、東52とする
東52 S50. 9. 3 志村 13.658km 東50の廃止に伴い常盤台教会~大和町~東京駅北口に変更短縮
東52 S52.12.16 志村 *** 常盤台教会~東京駅北口を廃止

路線の概要

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 東京駅北口から水道橋・大塚駅・板橋駅を経由して上板橋駅までを結ぶ。末期は常盤台教会発着となっていた。
 東京駅北口を出ると、 [東50]と同じように大手町・気象庁前の停留所を過ぎ、平川門で右折して一ツ橋に停車する。ここから白山通りを北上、神保町・水道橋駅と通り、春日通りを過ぎて文京区役所に停車。左折してこんにゃくえんまの前を過ぎると、現在の[上60](上野公園~池袋駅東口)と同じく千川通りに入る。小石川植物園の脇を通り、千石三丁目で不忍通りと交差。大塚駅のロータリーに入り、山手線をくぐる。そのままくねくねと都道を進み、北大塚三丁目で癌研を横に見ながら上池袋の交差点で明治通りに合流、右折する。すぐに次の滝野川七丁目の交差点を左折、鎌倉橋・市場通りと停留所に停まる。「市場」とは滝野川市場通り商店街のことで、交差する道路に今でも商店街が栄えている。
 板橋駅東口を横に見ながら突き当りを左折、赤羽線を渡る。板橋駅では東口と板橋駅の2箇所に停まる。板橋二丁目の先で中山道に合流して三田線の真上を走り大和町で環七を左折。[王54]と同じようにすぐに環七を逸れて北豊島工業高校の横を進む。ここから道路を直進し、前野町を経由する。中央通三丁目という住所でもないやや不思議な名前の停留所を過ぎると東上線沿いの道路に転じて上板橋駅の北口近くで終点となる。なお、末期は現在の[王54]と同じく、公園入口(現・富士見台小学校)の先で左折、常盤台駅前を経由して常盤台教会で終点となっていた。

路線の歴史

 昭和24年に東都乗合との相互乗り入れで、[117](東京駅~上板橋)として開業した。鉄道交通の混雑緩和の目的のほか、休止免許の有効活用という面もあったようで、戦前に路線を持っていて休止状態だった東京都の春日町(現・春日駅)~大塚駅と東都乗合の板橋区役所~大塚駅の路線免許を活用し、既存交通機関からやや離れた板橋から大塚エリアの都心方面への足の確保を図るとともに、郊外は常盤台まで足を伸ばすかたちとなった。路線申請時は「常盤台」が終点とされていたが、実際の開業時の終点は「上板橋」となった。
現在の前野町停留所付近と思われるが、詳しい場所は不明である。
 運行当初は大塚駅~板橋駅が都電に沿って新庚申塚まで北上し、そこから旧中山道に入って板橋駅まで直進するという今ではバスが走れなそうなルートを取っていたが、昭和31年に路線概要に記した癌研経由に変えられた。
当初計画は2者合わせて約70往復であった。昭和27年9月に上板橋駅まで延伸され、このときの所管は大塚で、出入庫は大塚駅や教育大学下(現・白山三丁目)発着となっていた。
 昭和31年には東京駅降車口~日比谷が延伸された。東京駅降車口を出た後、乗車口(現・南口)のバス乗り場に入り国電沿いに南下、右折して都庁前(現・東京国際フォーラム)に停まり馬場先門を左折、帝劇を横に見ながら日比谷交差点を左折して日比谷停留所で終点となった。復路はガード下を左折、有楽町駅からそのまま直進して東京駅降車口まで戻る8の字のループである。都庁・有楽町方面への通勤需要を見越したのかもしれない。当時の乗降調査では、板橋~常盤台・上板橋、板橋~大塚・都心方面、大塚・小石川~神保町・東京駅とそれぞれ山があり、まんべんなく乗客が乗る様子だったことが分かる。ほぼ全便が日比谷発着となっていたが、東京駅乗車口以南は利用が半減しており、やや空いていた。昭和40年の調査では東京駅で半数が降り、下り方面は東京駅で乗る客と東京駅以南を比べると1/5程度しかおらず、定着していなかったのかもしれない。これも昭和41年には東京駅北口発着に戻った。
 日比谷延伸と同時期に大塚~板橋の経路も変更されており、従来は大塚駅を出ると都電に沿うように庚申塚交差点まで出て左折、中山道旧道を直進して堀割・滝野川郵便局経由で板橋駅の踏切に至っていたものが、癌研・上池袋から明治通りを僅かに走り鎌倉橋経由に変わっている。従来経路が狭すぎたのだろうか。
 昭和40年代の財政再建の時代には変化がなかったが、昭和50年9月の[東50]廃止により経路を変更、常盤台教会発着に短縮された。[東50]とは常盤台側の経路が全く異なるため、この改編の意義が何だったのかは謎だ。これも長くは続かず、昭和52年12月の第一次路線再編で全線廃止された。
 廃止区間のうち、文京区役所~大塚駅は[茶60](池袋駅東口~御茶ノ水駅→[上60])が千川通り経由に振り替えて存続した。大塚駅以北は[常03](常盤台教会~大塚駅北口)として国際興業単独で残ったが、この区間だけでは存続は難しかったのか、昭和53年には廃止されている。このほか[赤30](赤羽駅東口~大和町~西巣鴨~大塚駅北口)が国際興業の単独路線で存在したが、これも昭和48年には廃止されており、大塚駅北口の乗り場もひっそりと消えた。
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▲交通局報(昭和53年1月号)の廃止案内
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▲昭和47年、50年の配布路線図

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