都営バス資料館

上01・茶07

[上01][茶07]←[学01][学07]←[51][50]

担当営業所

巣鴨営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
上01 東大構内→上野公園山下→上野松坂屋→東大構内 5.875km 37 22 22
上01-1 東大構内~上野公園山下 3.300/2.575km 2 2 1 1 1 1
茶07 東大構内→神田明神→御茶ノ水駅→東大構内 4.080km 40 27 27
茶07-1 東大構内~(神田明神→)御茶ノ水駅 2.410/1.670km 2 2 1 1 1 1


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
50/学1 S24. 7. 1 大塚 2.056km 御茶ノ水駅~東大が開通
51/学2 S24. 7. 1 大塚 2.296km 上野駅~東大が開通
50/学1 S25. 1.10 大塚 1.738km 本郷三丁目経由から、本郷消防署前通り経由に変更
50/学1 S25. 6.13 大塚 2.457km 東大(構内)~東大農学部を延長
51/学2 S25. 6.13 大塚 3.697km 同上
50・51 S26頃 大塚 *** 東大(構内)~東大農学部を休止
51 S34.12.10 大塚 4.197/ 3.697km 上野駅→上野広小路の経路を変更
50 S36. 7.15 大塚 2.457/ 2.547km 一部経路変更
学01・07 S47.11.12 大塚 *** [50][51]を新番号化、[学07][学01]とする
学01・07 H19. 3.26 巣鴨 *** 巣鴨に移管
学01 H31. 4. 1 巣鴨 5.875km 東大構内→上野公園山下→上野松坂屋→東大構内の循環に変更
学01-1 H31. 4. 1 巣鴨 2.938km 東大構内→上野公園山下を設定
上01 R 4. 4. 1 巣鴨 *** 学01→上01に変更、運賃を一般系統化、湯島4・湯島3・上野広小路に追加停車

路線概要

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 東大関係の元・学バスとして、上野・御茶ノ水からそれぞれ東大構内に路線が引かれている。令和4(2022)年3月までは学バス扱いで、運賃が一般系統より安く、途中停留所をいくつか通過しているのが特徴だった。終点は東大の本郷キャンパスの奥にあるが、誰でも乗車可能である。
学バスと名乗っているが、東大生よりも途中の東大病院への目的の乗客が多い。
[学01]の起点、上野駅は他の路線と異なり、折り返すための経路の都合でJR駅の浅草口の脇、路地裏のひっそりした場所から出発する。
路地を曲がって昭和通りへ出ると、この先の経路も独特的で中央通りではなく昭和通りを南下し、日比谷線仲御徒町駅付近にある台東四丁目交差点を右折して春日通りへ入る。
[都02]の御徒町駅前を通過し、JR線のガードを抜けたところにある上野松坂屋前に停車する。一方、上野駅行きは上野広小路交差点のはす向かいである[都02]の上野広小路停留所に停車するため、往復で停留所名が異なるが、いずれも副名称は「上野御徒町駅前」で、大江戸線乗り換えに便利であることをアピールしている。
この停留所を出発するとバスは東京大学の本郷三丁目側入口である竜岡門までノンストップ。竜岡門からバスは東京大学の敷地内へ進み最初の停留所は東大病院前。通院患者や見舞客で利用客が多い。
東大病院前を出発すると校内をゆっくりとした速度で進み、突き当たりの理学部・第二食堂前のロータリーが終点となる。この場所、ただのバスの発着場にしか見えないが、東京都交通局東大構内操車所という正式名称が付けられており、[学01]と[学07]の運行管理を行う中枢となっている。
[学07]は御茶ノ水駅と東大を結ぶ。東大構内を出発し、東大病院・竜岡門と乗客を乗せた後は御茶ノ水駅までノンストップである。本富士警察署・本郷消防署前の交差点をクランク上に曲がり、通称消防署前通りを直進する。順天堂大学病院を左に見て外堀通りを神田川沿いに進む。
東京医科歯科大学前の交差点を右折すると終点の御茶ノ水駅となる。JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口眼の前の停留所で降車扱いを行うと駅脇の茗渓通りを回送車として走り、乗車場所は本郷通りの聖橋の上となっている。このため、乗車・降車の場所が大きく異なっている。

歴史

 通学の便宜を図り、通常よりも安価な運賃で乗車できる学バス。最初に開通したのは、東大~上野駅・御茶ノ水駅を結ぶ2系統で、昭和24年7月のことであった。昭和22年頃から東大への通学の足を確保してほしいという要望は出ていたようで、ようやくの開通となったようだ。戦前から、白山・本郷通りを通る巣鴨駅~白山上~東大正門~御茶ノ水駅~東京駅のような系統はあったが、東大(旧制一高)構内に入りこむような系統はなく、戦後のオリジナルな設定と言える。系統番号は御茶ノ水駅が[50]、上野駅が[51]を名乗った。以降、50番台は学バス系統となる。当時は一般系統は[28]くらいまでしか存在せず、これくらい番号を飛ばせばよいと思ったのだろう。結果的には、一般系統が増えたことで、[49]の次は[60]を名乗るようになったのだが……。
 当時は地下鉄丸ノ内線もなく、交通機関は都電と本郷通りを走る[105](東京駅北口~東大正門~巣鴨駅~志村橋)系統のみ。開通前は折返系統として、東京駅北口~東大正門の運行を行っていたようで、大変な混雑であったという。通学に役立つ学バスの開通は、大いに歓迎されたようだ。運賃設定も当時が1区初乗り10円だったところに、学バスは5円と半額の設定であり、昭和26年12月の値上げ時は、1区15円に対して学バスは往復で15円と、実質的に半額の設定が続いた。
 さて、開通時から基本的に姿を変えていない東大の学バスだが、実は大きな秘密が隠されている。書類上では、例えば現在の[学07]御茶ノ水駅→東大構内は2.457kmとなっているが、どう測っても1.8km程度しかない。残りの数百メートルはどこにいったかと言うと、東大構内の先に答えを解く鍵がある。実は昭和25~27年頃のわずかな間だけ、今の東大構内が終点ではなく、そこから先の工学部脇を抜けて弥生門から農学部まで達していたためである。
 延長したのは昭和25年6月のことで、途中には「弥生門」「農学部裏門」の2箇所の停留所が設けられた。それぞれ理/工学部・農学部へのアクセスを考えたのであろう。終点の東大農学部は、構内に入って折り返していたと思われる。ちなみに当時は竜岡門停留所はなく、東大構内は安田講堂という名前だった。御茶ノ水駅からこの経路で東大農学部まで行くと、ちょうど2.5kmくらいなのである(下図は昭和26年現在)。
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 しかし、この延長運転は2年と続かなかった。通り抜け車輌が多いことや、理学部の精密実験の邪魔になること、また弥生門前の道路が大型バスが通るには狭く、通り抜けが困難等の理由で短縮されてしまう。これらのことは当時の東大新聞にも掲載されたほどであり、実験の邪魔というのは今からでは考えられないような意見だが、路面も車も今とはレベルが違うのであり、仕方がなかったのであろう。こうして昭和27年度のうちには元の安田講堂発着に戻った。しかし、免許は廃止ということにはしなかったようで、あくまで休止扱いにしたようだ。例えば昭和35・40年度の乗降調査には停留所だけ載っており、安田講堂~東大農学部は運行回数0回となっている。それが今でも亡霊のように残っているのだろうが、現在も免許が残存しているのかは気になるところだ。ちなみに、春木町(現・竜岡門)停留所は昭和27年頃に増設された。
 昭和34年には[51]の上野駅発の乗り場と経路が変更され、現在のように上野駅から北側に大きく迂回して昭和通りに出るコースに変更されたと思われる。
また、昭和30年代までは上野地区の停車停留所は上野広小路・御徒町三丁目(現御徒町)の2箇所だったが、昭和40年代に御徒町が上野駅方面のみ停車に改められた。昭和57年に中央通り上の上野広小路→上野松坂屋への際に、松坂屋前にある東大方面の停留所のみ上野松坂屋に改称された。このため、向きによって停車停留所の名がバラバラになっている。
 [50]は開通時は本郷三丁目・本郷通りを経由していたが、すぐに本郷消防署前を通ってショートカットする経路に変更されたようだ。と言っても、途中には停まらないのであまり関係ないのだが……。
 御茶ノ水駅の乗降場が聖橋と御茶ノ水橋で大きく異なり、その間は回送というのは、少なくとも昭和36年から変わっていないと思われる。それ以前はどのような形だったのか不明だが、折返所を設けるようなスペースもないことから、開設当初からそうだったのかもしれない。
 ※農学部の表示は路線図によっては残っていた
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▲大東京色刷運転系統早わかり(日本地図、昭和31)
 ちなみに、終点が安田講堂から東大構内に変更された時期だが、判然としない。路線図上では行き先表示の「東大」とだけ書かれることが多かったためであるが、少なくとも昭和40年代前半より後は「東大構内」という名前で路線図上でも定着していた。
 昭和47年11月には新系統番号になり、50番台の系統はそのまま[学0x]を名乗ったが、50のみ[学00]では変ということか、末尾に持ってきて[学07]とした。これ以来、2系統は番号が離れた同士となった。
 それ以降は、路線の形は大きく変わっていない。しかし、一般系統の半額ではそもそもの収入面でも乏しく、特に[学01]は赤字が目立っていた。一時期は廃止も取りざたされた(後述)が、昭和50年4月の運賃改定以降は都区内均一運賃から30円引きとするように改められ、均一70円に対して学バス40円とされ、現在に至るまで30円差の運賃が続くようになった。また、学生の多くは地下鉄に移行したのか、東大病院の乗客がメインとなっていった。
 それでも[学01]は赤字が目立ち、昭和末期の営業係数は130~140と都営バスの中でも下位であった。少しでも効率化をすべく、昭和62年度からは燃費が優れる中型車を入れ、さらに病院の閉まる休日は乗客数も少なくなるため大幅に減便し、平成初期からは土曜ダイヤを導入して本数を減らした。車に関しては中型車の除籍後は大型車のみに戻ったものの、平成12年12月の大江戸線改編である程度乗客が移ると見込まれ、本数は2割の減となった。また、土曜も休日と変わらない本数に削減されていった。それ以降は本数にさほど変化はなく、病院利用を中心に堅調と言える。[学07]も大江戸線改編前は平日昼で7-8分間隔と頻発していたが、それ以降の改正で削減されて12分間隔程度にまで拡がった。
 平成19(2007)年より巣鴨に移管されたが、出入庫は回送というところも変わらず、路線形態もそのままで走り続けている。
/上野・御茶ノ水の循環化/
 新型コロナウィルスの影響により大幅に乗客が減ったことや、元から東大病院の乗客が多く通学需要が少ないこともあり、令和4(2022)4月に一般系統化、運賃を一般系統と同じに値上げし通過の各停留所に停車することとなり、系統番号も「学」から改められた。学バスの一般系統化は初めてのことである。

幻よ再び

 歴史の項で記した弥生門を通るルートだが、もう一回だけ脚光を浴びたときがある。昭和37年に、本郷通り等の商店街が学バスの延長を要望した。[50]を循環状にして本郷通りを通してほしいというもので、安田講堂から弥生門・農学部前の交叉点を経由して本郷通り経由で御茶ノ水駅に戻るというものであった。しかしながら上述の短縮理由はまだ生きていたようで、結局この話は流れてしまった。
 学バスの絡んだ路線構想はもう一つあった。都営は昭和50年代より赤字の解消として都心部の大胆な路線廃止を中心とした路線再編を進めていくが、当初の構想では外堀通り・中央通りに都心循環線を頻繁運行し、その代わり都心に直通する系統をほとんど分断・廃止するというものがあった。
 それとセットで考えられていたのが、運賃が通常系統の半額で不採算になりつつあった学バスの一般路線化だった。特に赤字だった上野駅発着の[学01]のテコ入れとして図のような本郷通り・日光街道・言問通りを回る循環線が考えられていた。代わりに言問通りで並行する[上26](上野公園~亀戸駅~今井:当時)を日暮里駅に短縮するなどの案とセットである。まるで本郷・入谷地区の巡回コミュニティバスのような趣であるが、当時としてはマジメに考えられていたらしい(下図)。
 結局これらの案は大胆すぎるということで見送られ、その代わりに学バスの運賃の割引率が少しずつ下がっていくことになった。
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組ダイヤ

 都営バスの伝統的な考え方は、一人の乗務員が担当するダイヤは原則として1つの系統に限るというものである。そのため、[学01]と[学07]のダイヤは独立していた。休日ダイヤに限り、[都02]や[上60]の運用の前後に[学01](まれに[学07])を1~2往復応援で運行するような運用が数個存在したが、車輛台数以上に本数を確保する知恵だったのだろう。
 さらに、平成17年1月のダイヤ改正では休日に限り、[学01]と[学07]関係なくミックスして運行するダイヤが誕生した。今では[飯64]や[上69]等、系統をまたいで混在するのは多くなったが、まだ当時の都営バスでは珍しいことだったと言える。これは巣鴨に移管しても引き継がれ、休日ダイヤのみ運用が一体化している。
 なお、現在は巣鴨移管の副次的効果ということか、一部便の出入庫を[茶51]で行っている。詳しくは[茶51]の項を参照のこと。
東大病院の札
 [学01][学07]のバスは、前面に蛍光緑色字の「東大病院」の札を掲げていた。経由地を分かりやすく示すためだろうが、前面札も他の系統ではすっかり絶滅してしまい、ここで残っているのがむしろ珍しいと言えるだろう。ただし、巣鴨に移管後は活用されておらず、忘れられた存在となっている。

上野地区プロムナード(2)

 [都02]の項でも記した上野地区の歩行者天国だが、[学01]はもう少し複雑であった。昭和47年の設定時は「上野広小路」止まりの扱いとなっていた。現在、[上46](上野松坂屋~南千住駅東口)などが折り返す際に一旦休憩する中央通りの脇の三角公園のスペース(停留所つき)があるが、そこから発車していた。なぜこの系統だけ上野公園止まりにしなかったのかは謎である。この折り返しのため、[上58](上野松坂屋~早稲田)の通る黒門小学校の裏の道を通り、帰りは黒門小学校の前の通りを通って折り返していた。後者はこの系統だけの独自区間であった。
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▲昭和61年までの迂回経路
 昭和53年5月に成田空港の開港のための交通量増大に備えるという名目で、上野公園~京成上野駅~昭和通りの部分の規制が外れ、上野公園山下~上野駅の区間は車が通り抜けられるようになった。ただし、[学01]は昭和61年まではこの規制経路のままで、それ以降に改められ、天神下交差点から上野公園経由で上野駅まで行くようになった。
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▲昭和61年~平成9年の迂回経路
 このときは、上野広小路(松坂屋)の代わりに上野公園に停車するようになり、上野駅行きは[上26]と同じ中央通り寄りの停留所から、東大行きは不忍池向かいの[上26][上60]と同じ臨時停留所から発車していた。また、上野松坂屋に代わり「上野公園」表示の入った専用の方向幕を用意したのもこの時からである。
 平成9年に歩行者天国が休止となって以降は上野公園の臨時停留所もしばらくは表示が残っていたが、後にまっさらなポールだけになった。今はそれもなく、歩行者天国があったことを示す名残もほとんどなくなりつつある。

上野まつり

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 前項でも述べたが、上野地区の歩行者天国が実施されるのは、現在では年に一度の上野まつりの時くらいとなっている。このときは中央通りが上野公園山下~末広町駅まで通行止めとなるため、春日通り・不忍通りから来る上野公園・上野駅発着の各系統([学01][上26][上58][上60][上69])は全て春日通り上の(臨時)上野広小路で終点となり、路上転回を行う。このときは春日通りを使って大胆に折り返す姿が多く見られる。
 [学01]もこの時は上野駅まで行かず、(臨時)上野広小路で終点となる。[学01]の行き先表示はそのままでフロントに紙を貼って対応していたが、ついに平成25年から専用の表示が作られた。柔軟に変更できるLEDならではの利点と言えるだろう。

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