都営バス資料館

×中77

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担当営業所

杉並営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
中野区役所~中野駅~東高円寺駅~代田橋~新代田駅 5.920km
出入 杉並車庫~代田橋~新代田駅

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
130 S32. 8. 1 堀ノ内 10.200km 江古田駅~新井薬師駅~中野駅~代田橋が開通、関東バスと相互乗り入れ
130 S36. 7.20 堀ノ内 10.280km 江古田付近を丸山終点経由に変更(?)
130 S38.12. 1 堀ノ内 10.260km 方南町・高円寺陸橋付近の経路を環七の現道に変更
130 S41,11,30 杉並 10.260km 堀ノ内営業所の杉並営業所への移転改称に伴い、杉並に移管
中77 S47.11.12 杉並 *** 新番号化、中77とする
中77  S52.12.16 杉並 5.920km 関東バスとの乗り入れを中止、中野区役所~新代田駅に変更短縮(代田橋~新代田駅は高79の廃止により延長)
中77  S57.12.26 杉並 *** 中野区役所~新代田駅を廃止

路線概要

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 中野駅と新代田駅を南北に結んでいた。最盛期と末期とで路線の姿が相当異なるが、まずは末期の姿から。始発は中野駅ではなく、一つ北側の中野区役所となっていた。駅前ターミナルには関東バス・京王バスのターミナルがあったが、都営単独系統だったこともあるのだろう。ターミナルには乗り入れず、中野区役所の周囲を一周するようにして折り返していた。
 区役所を出発すると、コンサート会場としても有名な中野サンプラザを左に見ながら右折し、中野通りに入って中央線のガードをくぐる。南口のロータリーも通り過ぎ、通り上のアーケード街に「中野駅」の停留所があり、駅からは幾分離れていた。[中63](下田橋~国立病院医療センター)もこの停留所に発着していた。
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▲東京都乗合バス・ルートあんない(昭和55年)より
 ここからは、現在もまとまった本数が走る関東バス[中35/36](中野駅~五日市街道営業所・吉祥寺駅)と同じく、中野五差路を右折して大久保通りに入る。片側1車線の道路で、やや手狭な雰囲気だ。急なカーブを過ぎ、段々と住宅街へと雰囲気が変わっていくところで、高円寺南五丁目の停留所を過ぎると左折、東高円寺駅へと出る。ここからは[宿91](新宿駅西口~駒沢陸橋)と合流し、高円寺陸橋を左折して環七に出る。堀ノ内・方南八幡通り・代田橋と過ぎ、新代田駅で終点となる。この区間は[宿91]の項も参照のこと。
 昭和52年以前は関東バスと共同運行で、江古田駅~代田橋を運行していた。このうち、江古田駅~中野駅の区間は関東バスが[中41]として運行を継続している。始発の江古田駅は、西武線の駅の南側、千川通り上にある。駅前が非常に狭く、バスの乗り入れるスペースがないため、駅から徒歩2-3分の路上に設置している。都営バス[白61](新宿駅西口~練馬車庫)は江古田二又を名乗るが、この系統は関東バスに合わせている。江古田駅付近は折り返すためにループ状の経路となっているが、特に江古田駅方面は住宅街の中の非常に狭い道路を通り抜けて行く。
 江古田駅を出ると、江原町二丁目(現新江古田駅)で目白通りと交差し、住宅街の中の片側1車線の道路を南下していく。次は「国立療養所中野病院東口」。住宅街が広がるが、その奥に国立の結核療養所、後に病院となった施設である。平成5年に病院は戸山町の国立国際医療センターに統合され、現在は江古田の森公園として再整備されている。
 さらに南下し、左手に[池65](池袋駅東口~練馬車庫)の折返所が見えるとすぐに新青梅街道の交差点で、左折して江古田二丁目の停留所に停車する。ここからの区間は春になると桜並木の美しさでも有名な所である。ほどなくして左手に関東バスの車庫が見えてきて、丸山車庫の停留所となる。[池65]は通過となるが、この系統は他の関東バスに合わせて停車していた。
 右に緑地が見えてくるが、そこが哲学堂公園。明治39年に精神修養の場として作られたユニークな公園でもある。この敷地を回り込むように右折して新青梅街道と別れ、公園が途切れる辺りで妙正寺川を渡る。神田川の分流の一つで、幾度となく氾濫したことから、付近にはいくつか雨水調整池が設けられるようになった。
 ここから道幅が狭くなり、西武新宿線の踏切を渡る。ラッシュ時は次々と電車が通過し、渡るのも一苦労といった感がある。隣接する駅名は「新井薬師前」だが、バス停は「新井薬師駅」。さらに南下し、「新井薬師口」「新井薬師前」と紛らわしい停留所が続く。最後の停留所のすぐ近くには真言宗の同名の寺院があり、中野界隈では最大の規模を誇る。なお、現在の関東バス[中41]は新井薬師駅で左折して中野通りへと出てしまうが、[中77]は直進し、現在の[中12](中野駅~水道タンク~江古田駅)と同じように経由していた。中野五丁目で左折して早稲田通りに出て、すぐ先の新井交差点で右折して中野通りに入り、中野駅に達していた。ここから代田橋までは末期の経路と同じだが、代田橋で終点となっていたのが異なる。付近に折り返す場所もないため、代田橋~新代田駅は回送となっていた。

歴史

 中野駅周辺から北側の西武線方面のエリアは関東バスの営業エリアであり、南北移動は鉄道が不便なこともあって、戦後の復旧も比較的早く進んだ。昭和22年に中野駅~哲学堂が開通したのを皮切りに、昭和24年4月には国際興業と共同で中野駅~池袋駅(→[池11])が開通、昭和25年には中野駅~哲学堂~茂呂(現小茂根付近、→[中40])、昭和28年には中野駅~哲学堂~水道タンク~江古田駅(→[中12])と開通が進んだ。昭和29年には、中野駅~哲学堂~丸山車庫~江古田駅も開通し、昭和32年にこの路線をベースとして都営と関東で共同運行を行うことになり、代田橋~中野駅~丸山車庫~江古田駅という路線になった。中野駅を貫通し、区の南北を連絡する目的もあったと思われる。両社が1日30往復程度ずつを担当し、計60往復とさほど本数は多くはなかったが、昭和35年の記録を見ると混雑率もそれなりに高く、中野駅で乗客の半数が入れ替わるものの、通しの利用もあったことがうかがえる。堀ノ内~代田橋からは最速で中央線の駅に出られる系統としても使われていたのだろう。
 なお、昭和36年7月までは丸山車庫~江古田三丁目の間が第七中学校の脇の道路を経由していたようだが、新道の開通により、新青梅街道をしばらく走るという現在の[中41]の経路と同じように変更された。また、昭和30年代にかけては中野駅から北上する中野通りの開通が進み、いくつかの系統は新井薬師駅経由から中野通りを経由するように差し替えられたが、この系統は最後まで経路は開通当初と変わらなかった。
 それ以降も乗降客数はさほど変わらずに推移していたようだが、渋滞の影響や、中野駅での入り替わりも多いという事情もあったためか、昭和52年12月限りで分断され、関東バスは[中41](中野駅~江古田駅)、都営バスは[中77](中野区役所~新代田駅)となった。分断時に代田橋から新代田駅まで営業区間が延長されたが、元から代田橋~新代田を回送で折り返していたため、大して変わらないため延長したのだろう。
 中野駅は都営バスの営業エリアからは少し外れていたが、中央線の駅に速達できるという義で残していたのだろう。区役所発着であったが、それは折り返しの都合という側面が強く、区役所連絡の意義はそもそも路線の多くが杉並区・世田谷区であったことを考えるとあまり強くなかったと思われる。
 末期は1日45回程度で、昼間は25~30分間隔と本数は多いとは言えなかった。環七から見た場合、手早く近くの駅に出られる路線であることは確かなのだが、[宿73][宿91][渋66]も走っていたことや、代田橋・方南町近辺では京王バスの中野行きの本数が多く、東高円寺駅以北なら関東バスの中野駅~五日市街道営業所・吉祥寺駅が便利であり、この系統固有の利用客は少数だったはずである。さらに中野駅の乗り場は他社よりも遠いとあっては苦戦を強いられるのは当たり前であろう。収支係数は昭和56年度では172とワースト7を記録しており、採算はかなり悪化していたようだ。結局、昭和57年12月の改編で全線が廃止されてしまった。
 中野駅の都営バスの乗り入れは、この時点では[中63]が残っていたが、これも昭和63年10月に廃止され、これをもって中野駅から都営バスの姿が消えた。

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