都営バス資料館

×橋78

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担当営業所

新宿営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
新宿車庫~新宿駅南口~四谷見附~赤坂見附~溜池~新橋駅 8.002km
折1 新宿車庫~新宿駅南口~四谷見附 3.809km
折2 新宿車庫~新宿駅南口 1.200km
折3 四谷見附~赤坂見附~溜池~新橋駅 4.193km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
111 S23.10. 3 新宿 13.003km 下高井戸~新宿駅南口~四谷見附~新橋駅が開通、京王と相互乗り入れ
111 S45.12 1 新宿 13.052km 永福町~新橋駅に変更
37 S46.11. 1 新宿 8.002km 京王との相互乗り入れを中止、新宿車庫~新橋駅に変更短縮
37折  S46.11. 1 新宿 3.809km 新橋駅~四谷見附を開設
橋78 S47.11.12 新宿 *** 新番号化、[橋78]とする
橋78  S57.12.26 新宿 *** 新宿車庫~新橋駅を廃止

路線概要

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 新橋駅と新宿車庫を外堀通り・新宿通り・甲州街道経由で結ぶ。新宿駅東口・西口のいずれも通らず、新宿駅南口を通るのが特徴。昭和46年までは京王と相互乗り入れを行い、下高井戸(永福町)まで路線が伸びていた。
 新橋駅では現在の[都01]の乗り場付近から発車していた。外堀通りに入り、銀座線の真上を虎ノ門・溜池・山王下・赤坂見附と、赤坂見附から新宿三丁目までは丸ノ内線と沿うように進む。紀尾井町の脇の坂を首都高沿いに登り、四谷見附の交差点を左折して新宿通りに入る。
 新宿三丁目の停留所を過ぎ、伊勢丹前の十字路で左折し、すぐ先の新宿四丁目の交差点を右折すると新宿跨線橋を登る。国鉄・小田急の新宿駅南口の目の前に新宿駅南口の停留所があった。跨線橋を下ってそのまま甲州街道を直進し、初台交差点を右折、新宿車庫を終点とした。
 昭和46年以前は甲州街道沿いにさらに直進し、幡ヶ谷・笹塚・代田橋、明大前を経由して下高井戸まで達していた。下高井戸の折り返し方法については終点の章も参照のこと。末期は明大前の手前で右に折れて井の頭通りに入り、永福町を終点とした。
歴史
 京王との相互乗り入れ路線として、昭和23年10月に[111]新橋駅~下高井戸が開通した。京王と交通局が組んだ路線は初であり、大通りのみを通るシンプルな線形となった。新宿駅南口を経由したのは面白いが、戦後~昭和30年代にかけては、京王の路線は新宿駅西口止まりのものよりも南口から東口・新宿追分一帯を循環する路線が中心であり、それに倣ったものだろう。当時の新宿の中心は伊勢丹のあたりから駅東口にかけてであったため、新宿三丁目に停車すれば十分という考えだったのかもしれない。
 その後も、路線の形はほとんど変化がなく、停留所が多少増えた程度であった。下高井戸の折返所が首都高速の工事もあって使用できなくなるため(折返所の章も参照)、昭和45年12月に終点を永福町に変更したくらいである。しかし、この頃には、従来の街道筋を走る相互乗り入れ系統は渋滞や地下鉄の発達により役割を終えつつあった。最初の契機となったのは昭和34年に並行して延伸した丸ノ内線で、乗客を確保する方策して東京駅への延長も協議されたが、結局まとまらなかったようだ。[111]はさほど長距離であったわけではないが、全体的に鉄道と並行し、残す意義も薄いと判断されたのか、昭和46年11月に乗り入れを解消、都営側は[37](新橋駅~新宿車庫)に短縮され、この時に新橋駅~四谷見附の折返系統が設定された。昭和47年には新番号化され、[橋78]と名乗った。
 短縮された[橋78]であったが、既に地下鉄丸ノ内線・銀座線とほぼ全線で並行しており、乗客は減少を続けていった。昭和50年度の調査で6,300人/日程度あった乗降人員は、昭和56年度には3,500人/日程度まで減少、営業係数も昭和55年度には228と都営バスの中でもワースト10に入る数字であった。昭和52年や昭和54年の路線再編成では生き残ったものの、昭和57年12月の改編で全線廃止となった。ただ、廃止直前でも平日の運転回数は93回、昼間でも10分間隔と高頻度での運転だったことは特筆すべき事項だろう。休日はビジネス街の需要がなくなるため3~4本/時の運転だったが、それでも今に比べたら充分な本数であった。そもそも地下鉄と並行したのはかなり昔の話で、バスと地下鉄はある程度棲み分けが行われていたと考えるのが自然だろう。本数を減らして存続するという考えも今だったらあったかもしれないが、当時は1つの通りに1つの系統というように集約する中で、全線廃止は仕方のない流れでもあった。
 また、昭和40年代以降は新宿駅南口を通る唯一の系統でもあった。かつて京王バスが南口を経由して新宿伊勢丹方面へと至る様々な系統を運行していたが、渋滞や新宿の中心地の変化とともに昭和45年頃までに全廃され、唯一残る存在となっていた。昭和50年代に入ると、新宿駅西口の発展等で新宿の中心が西に移動した時期に当たる。この系統も東口・西口を経由するという手段もあったかもしれないが、変更するまでには至らなかったのだろう。ちなみに、新宿では昭和40年代に最後までツーマンで残った路線でもあった。
 なお、昭和46年の分断以来、朝ラッシュ時には新橋駅~四谷見附の区間運転が行われていた。廃止の際の代替なのか、[四92](品川車庫~四谷駅)に朝ラッシュ時のみ四谷駅→虎ノ門、溜池→四谷駅という折り返し系統が開設され、[四80]の開業後の昭和62年頃まで運行された。そういう意味では、[四80]は[橋78]の末裔と言えるかもしれない。

新宿地区プロムナード

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休日になると、現在でも新宿通りの新宿大ガード~新宿三丁目の区間が歩行者天国となる。昭和46年2月の指定当初は大ガードから新宿追分の伊勢丹の角までの区間だったため[橋78]は影響を受けなかったが、昭和48年6月に新宿通りの新宿追分~新宿三丁目の区間も追加され、大ガードから新宿三丁目の停留所のところまでになった(図の灰色線区間)。交通局の資料では、昭和48年9月に[橋78]の迂回系統が設定された。
 具体的には、四谷側から来たら、伊勢丹角の一つ手前、世界堂ビル角の新宿二丁目交差点を左折し、新宿高校の脇を通って甲州街道に出るようになった。そのままでは新宿三丁目停留所に停まれなくなるので、停留所は移設となった。正確な場所は不明だが、停留所を置けるような場所を考えるに、新宿通りの四谷寄りに移設した可能性が最も高いと思われる。

四谷~赤坂の消えた停留所

 紀伊国坂(外堀通り)の四谷見附から赤坂見附の間の区間には停留所がなく、間隔が開いている区間として有名だったが、昭和40年代のわずか期間、この間に若葉一丁目・元赤坂一丁目の停留所が存在した。
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▲東京都地図地名総覧(人文社、昭35)
若葉一丁目停留所は、昭和42年12月の都電代替時に誕生したもので、都電には四谷見附と赤坂見附の間、ちょうど迎賓館正門前の通りと外堀通りが交わる付近に若葉一丁目電停があった。都電代替となった[503](品川駅~飯田橋→[四92])を含め、並行する他系統も停車した。しかし、この停留所は周囲には迎賓館と上智大のグラウンドしかないこともあり、都電時代から乗降客数は極端に少なかった(昭和35年調査で1日乗降客数200人)。4年も経たずに昭和46年には廃止されてしまった。
 もう一つの元赤坂一丁目は、昭和45年頃、赤坂見附近くのサントリー美術館付近に開設された。新橋方面はお堀に面していたため、四谷方面のみの開設となった。開設の要望があったのだろうか。
 しかしながら、こちらも昭和50年には廃止され、路線図から消えてしまった。それなりの集客は見込めそうだが、道路交通上の問題でもあったのだろうか。こうして再び四谷見附と赤坂見附の間は停留所がなくなり、昭和40年代以前と同じ姿に戻った。
 なお、戦前の都電には、赤坂見附~紀ノ国坂下~四谷仲町~四谷見附と停留所があった。途中の停留所はそれぞれ元赤坂一丁目、若葉一丁目に近い位置にあったが、戦時中の電停統合で紀ノ国坂下は廃止されていた。
これ以外では、官庁街循環バス[62](四谷駅~東京駅南口)のみ若葉一丁目の位置に「国会図書館」停留所があった。昭和23~36年までは旧赤坂離宮を図書館として使っていたためである。この系統のみ停車する停留所であったが、昭和41年7月の廃止により停留所ごと廃止された。

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