都営バス資料館

鈴木カラー騒動

交通博物館でのアンケート[真]

赤黄塗装の登場

 都営バスでは開業以降に何回か塗装色の変更を行っているが、昭和56年の春にH代登場とともに登場した黄色に赤帯の塗色変更とそれにまつわる騒動は、都営バスの歴史の中でも大きな出来事であった。クリーム色と青帯の通称「美濃部カラー」は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された。
 従来の色合いとは180度異なる色彩での登場の表向けの説明としては、「「事故防止」と都営バスの運行がわかる「乗客増加策の一つ」として、「明視性の高い黄色」を基調とすることが議論され「イエロー」を基色に「マルーン」を配したものに変更」した(バスラマインターナショナル No.49 ('98/8) pp.84)とされたが、昭和54年に長らく続いた革新都政である社会党系の美濃部知事から自民党系の鈴木知事へと都政が変わった後であり、スカイブルーは革新の色でふさわしくない、という一部の声から変えられたという話もあるようだ。

▲M-H118 赤黄塗装[n]  H代に続き、昭和56年7月に登場したK代前期車も同じ塗装となった。さらに同時期に前年のG代のうち冷房車として登場した各車も赤黄に塗り変わり、一般車283輌が新塗色となった。G代は冷房車に関しても登場当時は青白の塗装だったが、わずか1年で塗り替えてしまったことになる。H代から冷房車になったとを合わせて、赤黄の新塗色を冷房車とさせる意味合いがあったのだろう。

反対意見続出

 しかし、赤黄塗装は各界から否定的な意見が相次いだ。特に前美濃部都知事など、革新系都議から「どぎつい」「ウンチ色のバス」などと政争の具にもなり、他の色彩専門家や利用客からも「都市景観に合わない」など聞こえてくるのは悪い評判ばかりだったという。
 話はどんどん大きくなり、これに合わせて発足した「公共の色彩を考える会」(委員長:小池岩太郎東京芸大教授)は「首都のバスとしての品位を損なう」と鈴木都知事に提言を行った。黄色に赤帯といえば、昭和40年代以前の都電・都バスと同じ配色であるが、それよりも若干キツ目の配色であったという。
 当時の新聞記事でも盛んに扱われていたことが以下の記事からうかがえる。7月13日の記事で既に話題になっていることから、登場から3ヶ月と少しというスピードだったことが分かる。「町の声は概して芳しくないようだ」として否定的な声が大きいとの記事で、交通局の説明では「景観にマッチしているが目立たず、すぐ近くに来ても気づかないため」となっている。


▲朝日新聞 昭和56年7月13日東京面記事

▲朝日新聞 昭和56年8月22日東京面記事

▲朝日新聞 昭和56年12月17日東京面記事

▲朝日新聞 昭和57年1月21日東京面記事

8月21日の記事では、これら専門家が都知事に直談判し、交通局に見直すように指示したとの内容が掲載されている。前の記事が出てから1ヶ月と、かなり早い動きだったのは間違いないだろう。岡本太郎・イラストレーターの真鍋博など8委員からなる「都バス色彩懇談会」なる団体が作られ、色だけでなくデザインも不可分の存在として、色・デザインを競作することとし、昭和57年1月20日に委員が31作品を持ち寄り相互に投票して入選作を選び、最終的に3案に絞られた。
除籍された車に試作塗装を施し、サンプルカーとして走った。昭和57年3月18~19日は新宿、有楽町、池袋、浅草、錦糸町、葛西など都区内各地を隊列を組んで走ってお披露目し、21, 22日には秋葉原の旧交通博物館で一般公開され、一般客にアンケートをとった。


▲Aタイプ(真)

▲Bタイプ(真)

▲Cタイプ(真)

▲特別出展(真)

 Aタイプが採用されたもので、B・Cタイプの案もあったようだ。Bはどことなく小湊バスを想起させる色分け、そしてCはなかなかないタイプである。ちょっと重苦しい感じかもしれない。BやCだったら、今の東京の感じも結構違ったものになっていたかもしれない。Dは岡本太郎デザインの特別出展として展示されたもので、側面の黄色は東京都の形をモチーフにしたものだというが、斬新とも言えるデザインになっている。

 上のようなアンケートが会場で配布され、9,438人が回答した。A案が5,400票と57%を獲得してトップ、以下B案が24%、C案が15%、どれも良くないが4%であった。また、3.の現行の色については「良い」が33%に、4.の特別出品は「良い」が42%あった。交通局はこれを元にA案を選び、帯のデザインを少々変更し、地色の白をクリーム色に、また帯の緑色を軽快に感じられるよう薄目にして最終決定を行った。

塗装決定と再出発


▲朝日新聞 昭和57年3月31日東京面記事

▲少年誌のカラー記事

 右上は少年漫画雑誌(ジャンプもしくはチャンピオン、掲載号不明)に掲載されたカラー記事である。都バスの新塗装にからめた「世界のバスの色塗り」の特集のようで、今ではまずお目にかかれないタイプの記事だろう。昭和43年からクリーム色+青帯で親しまれてきた都営バスが、突如黄色に赤帯の塗装となったもののあまりに不評だったことを受けて新しい現行の塗装にチェンジする……といった内容の記事が書かれている。色彩が決定されたことが書かれているので、昭和57年5月頃の発行だったのだろう。

 この決定をもとに、導入がストップしていたK代後期車の塗装を行い、年度をまたいだ昭和57年5月より新塗装車が導入され始めた。最初に登場したのは5月25日のB-K464~470で、6月9日までの2週間で131輛が一気に登場した。以来、「ナックルライン」の通称で、都営バスの標準塗装として続いている。

▲B-K466[o]

 なお、K代以前の赤黄・青白塗装についても、これ以降に車体更新したものについては現行塗装へと変更された。車体更新は新車での導入後、おおむね5年から7年ほど経過した時に行なわれる。そのため、B・C代(昭和49・50年度)車については、車体更新を行なった時期により、更新後も青白塗装となった車と現行塗装となった車が混在している。
D代(昭和51年度)以降は全て更新後は現行塗装となった。年度を追うごとに順次更新で塗り替えられたため、最後の青白塗装のG代は、昭和62年4月頃にほぼ全車が更新完了とななり、更新後も青白塗装だった最後のC代は昭和63年6月に除籍されて消滅した。赤黄塗装についても、同時期にK代前期全車の更新が完了したため、塗装の統一化が完了した。このため、G代の冷房車に関しては、登場時は青白、1年後には赤黄、そして更新後は緑と3つの塗色を経験した珍しい車となっている。


▲大まかな年度別塗り替え状況。水色は美濃部カラー、緑は現行塗装、赤・黄の斜線は赤黄塗装。同じ代でも車によって車体更新の時期は1~2年以上差があるケースもある。B代・C代の①は車体更新後も美濃部塗装車、②は車体更新後が緑塗装になった車を示す。


K-K337 最後まで赤黄塗装で残ったうちの1輛。昭和63年夏[き]

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