グリーンライナー・都02誕生(昭和61年3月)

撮影=naganoさん、提供=想い出の志村さん

 昭和59年に転身を遂げて大成功をおさめた[都01]渋谷駅〜新橋駅に続き、交通局は都市新バスの第二弾を作ろうと画策した。整備効果が大きいことやバスレーンの整備がしやすいことなどの条件を満たす路線の中から選ばれたのは、大塚駅を錦糸町駅結ぶ[塚20]であった。[塚20]は都電16系統の代替路線で、大塚駅から春日通りを茗荷谷・文京区役所・本郷三丁目・上野広小路・厩橋まで一直線に進み、厩橋を渡った先は蔵前橋通りに転じ、四ツ目通りを通って錦糸町駅北口に達するという路線である。

 この路線は地下鉄並行度も低くて沿線のバス需要が大きく、乗客の入れ替わりも非常に多いので都バスの中では優良路線であった。定期外客の比率も高く、商業地御徒町を中心とした需要があること、また豊島・文京・台東・墨田の4区にまたがってPRできることが選定理由となった。
 また、路線中央の春日通り部分の渋滞が激しく、運行管理システムも入れていないので効率的な運行ができず、昼間でも6分間隔で運行しているはずなのに渋滞する度に本郷や上野広小路では20分や30分もバスが来ないことはザラであったという。これは遅れが発生すると大塚駅〜文京区役所の折り返しが大量発生したためで、このへんの運行の是正を行うという目的もあったと思われる。

 交通局では路線を選定すると、さっそく愛称名の募集にとりかかった。そのときのお知らせチラシがこれだ。
[都02]愛称募集のおしらせ(表)
[都02]愛称募集のおしらせ(裏)
裏面のISUZU FFジェミニが懐かしい。昭和60年にフルモデルチェンジを果たし、人気を呼んだ2代目ジェミニである。
ちなみに、1等賞金が5万円(または5万円相当の商品)というのは[都01]といっしょだ。賞金と賞品どちらが贈られたのかが少し気になる。そして昭和60年末に厳選なる審査のうえ「グリーンライナー」に決定した。

 [都02]にも[都01]と同じく、車輌の導入(改造含む)、停留所設備の新設、運行管理システムの導入が行われた。今回はもう国の補助がなく全て自前での支出だったが、投資額はしめて5億5千万円となった。ちなみに、運行管理の停留所が置かれたのは以下の通りである。T型は接近表示つきのもの、T型の★はさらに所要時分表示もついているもの。R型はデータ送信機能のみで旅客向け装置はないタイプである。前車通過時間表示はポール側面の運転士から見える位置に「前車通過時間 xx分前」と表示されるもので、前とどれくらい間隔が開いているかの目安になる(最新式になった今でも残っている機能である)。
 また、大塚駅・大塚車庫の現場指令装置からそれぞれの停留所への出発指令をポールに表示することができ、錦糸町駅のポールには操車所から遠隔指令で出発指示を出すことができるようになった。下5枚目の写真に写っているのがそれで、「車号・発車時刻・前車通過時間」を表示する欄がそれぞれ用意されているのが見られる。

停留所上屋 錦糸町駅方向…大塚駅・大塚3・大塚2・大塚車庫・茗荷谷駅・小日向4・小石川4・文京区役所・湯島3・本所1
大塚駅方向…錦糸町駅・本所1・東上野1・御徒町駅・本郷3・文京区役所・茗荷谷駅・大塚車庫・大塚2・大塚3
バスロケ
T型路上機
錦糸町駅方向…大塚駅★・小石川4・文京区役所★・上野広小路・御徒町駅★
大塚駅方向…錦糸町駅★・本所1・御徒町駅★・上野広小路・湯島3・文京区役所★・小石川4
バスロケ
R型路上機
錦糸町駅方向…新大塚・大塚車庫・小日向4・富坂上・湯島3・元浅草3・厩橋・本所1・石原2・太平3・錦糸町駅
大塚駅方向…太平1・石原2・元浅草1・本郷3・伝通院・大塚車庫・新大塚・大塚駅
前車通過
時間表示
錦糸町駅方向…小石川4・文京区役所・御徒町駅・厩橋・太平3
大塚駅方向…錦糸町駅・太平1・本所1・御徒町駅・文京区役所・小石川4


大塚駅で発車を待つ[塚20]。昭和52年度導入のG-E595だ。[都01]の成功を受けて交通局はかなりの力を入れており、このバスにも前面に開通の垂れ幕を下げている。後ろの都電は7022。塗装が変わり行き先表示もLEDになったがまだまだ現役だ。

[塚20]の乗り場は基本的に都電代替時から変化がないようだ。昭和40年代までは駅北口にも国際興業の路線が発着する小さなターミナルがあったようなのだが、この時代にはもうなくなっている。


側面幕。大塚駅から文京区役所(現春日駅)まで盛大にすっ飛ばしているのは今と変わらない。というよりも、今の幕も基本的に↑を厩橋から本所一丁目に変えただけである。


このお知らせが停留所に掲出された。2月25日ということで、開通の6日前である。


大塚車庫前。車庫にも横断幕が掲出されるというはりきりぶりであった。大塚営業所は非常に歴史ある営業所であり建物も古いが、今でもこの当時の姿と変わっていない。左奥に見えるバスは……?


錦糸町駅の旧北口ターミナルで発車を待つ[塚20]。昭和57年4月に完成したターミナルで、平成2年まで使われた。場所は現在のアルカイーストの建っている敷地部分にあったようだ。[塚20]の乗り場はターミナル出口近くにあったので、写真の右手が四つ目通りに面した出口と思われる。開通直前なので新型のバスロケポールと同居している。


大塚駅前にてG-N553の入庫便。

[都02]に必要な都市新バスの新車は全部で49輌だったが、一度にそれだけの車を購入する金はなかったので、28輌(P250〜P277)を新車として購入し、比較的新しいL・M・N代をそれぞれ7台ずつ(L614〜L620、M118〜M124、N350〜N356)改造して「都市新バス車」とすることにした。その証拠に、方向幕左右の板の色が青になっている(一般車は黒)。写真のN代はまだ新鋭だったことや「本物」のP代とそれほどスタイルが変わらなかったこともあってそれほど見劣りしなかったが、沿線の小学生には愛称名「グリーンライナー」もじって「ボロライナー」と呼ばれていた。いつの世も子供は名づけの天才である。


開通式を控え、テープ前に鎮座するピカピカのG-P256。

そして昭和61年3月3日(月)、[塚20]は[都02]に生まれ変わった。開通式は始発の前に行われることになり、しかも都電の始発時刻を引き継いで大塚駅発の始発が6:00だったため、5時台に行われることになった。空が暗いのは夕方にやったからではなく、まだ日が昇る前だったのである。5:55大塚車庫出庫というのは今でも変わっていないが、このときはもっと早く出庫したものと思われる。


幾分か空が明るくなって、開通式が華やかに執り行われた。といっても早朝すぎてギャラリーの数は[都01]よりも少なかったようだが……。左に鎮座しているのは「ボロライナー」のG-M124。さすがにこれだとグレードが違いすぎ?


その後、錦糸町駅に到着した[都02]。折り返しは大塚車庫に直接入庫してしまうのだろうか? 当時の北口からは[都02]のほかに、[錦11][里23](後の[都08])が発着していた。[錦37]は当時は上野広小路発着であった。後ろに見える国鉄113系も当時はあたりまえのように見えたものだが、今は引退している。

 [都02]はその後乗客数も伸びて、この路線も変身で成功を収めることができた。しかしボロライナーが交じるのは相変わらずで、これが解消されるのは昭和63年にT代都市新バス車が7台、平成元年にV代都市新バス車が14台導入されるのを待たなければならなかった。その後は全車専用車での運行となり、何度か乗客数1位の座にも輝いたこともあった。その後、路線の中心部が平成12年開通の大江戸線と並行することになって一時は分断かとも噂された。しかし何とか減便だけで乗り切り、今でも重要度の高い路線として当時と変わらない姿で走っている。