大森の宿91(昭和58年〜昭和59年2月)

撮影=まこっちゃんさん(ま)、市岡秀基さん(市)、中村篤史さん(中)、naganoさん(n)

 現在は新宿駅西口と世田谷区の駒沢陸橋を結ぶ都営バス[宿91]系統。20年前の昭和59年までは、東急と相互乗り入れを行ってさらに南下し、大森駅まで至る長大路線を形成していた。現在でも新代田駅より南側では東急バス[森91]系統が走っており、乗り継ぎいてたどることは容易である。その[宿91]が一本で繋がっていた時代の最後の姿をお届けしたい。

そもそも東急バスの[森91]系統が現在でも「環七線」と名乗っているように、この路線は環七をひた走る路線である。新宿駅から環七に出るまでは青梅街道を走ることを除けば、路線のほとんどが環七上にあり、現在でも残る[王78](新宿駅西口〜王子駅)とは線対称の姿になっている。環七は昭和39年の東京オリンピックを機に今の形に整備され、新たな需要の創出ということで新規路線が計画された。特にこれを受け持つ都営バス杉並営業所では、従来の青梅街道を中心とした路線網が営団丸の内線(当時は荻窪線)の全通により維持が苦しくなってきており、従来のドル箱路線5系統(新宿追分・新宿駅西口〜代田操車所(新代田駅))はあったものの、高円寺陸橋から新たに南北に延びる環七に新たに路線を伸ばすことは急務だったと思われる。一方の東急も昭和39年10月に駒沢営業所の開所とともに大森操車所から環七・上馬を経由し、駒沢営業所(駒沢公園)に至る駒沢線を開通させており、当初はオリンピック輸送という意味合いも強かったものと思われるが、これを発展的解消させて両者が手を組むことになり、昭和42年6月25日に138系統として、新宿駅西口〜大森操車所という19.4kmの路線が開通した。杉並営業所の車が大森にやってくるのも珍しければ(一応大森には古株路線の東京駅八重洲口〜池上駅がやってきていたが)、新宿駅に東急がやってくるのも珍しい姿である。東急としては、新宿駅乗入れ自体は129系統(新宿駅東口〜野沢龍雲寺)が果たしていたものの、西口ターミナル乗入れはこの系統が初となった。上記の都営バス5系統とはほぼ完全に経路が重複するが、相互乗り入れ系統と一般系統ということで分けられた。上は開通から1年したときの路線図であるが、長原付近を除けば、ほとんど現在と停留所の位置には変化がない。この時点でほぼ完成された路線となっていたことがうかがえる。

 都心から直接放射状に伸びる路線ではない相互乗り入れ路線として誕生した138系統だが、やはりネックは渋滞であった。今よりも環状交通が整備されていない当時では青梅街道や悪名高き大原交差点での渋滞はなかなか酷いもので、定時でも全線80〜90分という設定であったものの、それよりも多くかかるのが常であった。営業成績自体はあまりよい方ではなかったが、鉄道では1本で行けないところをうまく結んでいたため、どの区間も乗客はそれなりに多かったようだ。おかげで、昭和52年や54年の路線再編成でも手をかけられることなく、そのままの姿を維持することができた。

 昭和58年の大森操車所である(中)。都営バスはナンバープレートから推測すると昭和54年度車のG480号車、日野K-RE101WRである。最後の小型幕・クリームアイボリー塗装車でもあった。当時は現在も残る大森線こと[森05]・[森04]洗足池行きと荏原町線の[森02]荏原町駅入口行きの他、昭和56年に[渋33]渋谷駅〜雪が谷〜大森操車所という長大路線を分割した下丸子線[森10]田園調布駅行きや、荏原町線の折り返し系統である[森01]万福寺行きが発着していた。当時は東急は大きな系統板を前面に掲出して走っており、幕はもっぱら行き先の表示としてのみ使っていた。

 さてしかし、これだけの長い路線を維持するのは限界に来ていたのか、ついに昭和59年2月15日をもって都営と東急の2路線に分断されることが発表された。東急は大森操車所から新代田駅まで、都営は東急エリアに食い込んだ野沢銀座から新代田駅を経て新宿駅西口までと決定された。普通なら、新代田駅を境に分割しそうなものだが、野沢・上馬から方南町・新宿方面への需要が大きかったという理由もあるのだろう、野沢銀座から新代田駅までは相変わらず2社局のバスが併走する姿が見られることとなった。これは今でも基本的に変わっていない。

 上の写真の1年後、分断直前の昭和59年2月11日に撮影したものである(市)。今度は東急・都営とも大型幕車での登場で、今とは違い、途中経由地の表記がなかったことが分かる。写真の都営バスは上のG代の1代後、D-H128(日野K-RE102WR)である。東急のほうの行き先の上にこまごまと書いてあるのは、「共通定期券・回数券取扱車」とでも入っていたのだろうか。


 同じ日に大森駅山王口で撮った都営のD-G479と東急のK1105号車(ま)。どちらの車も、この行き先を掲げて走るのはあとわずかだ。

 ちなみに東急は、側面に板サボを差し込んで行き先表示としていた(市)。よく見ると、東京医大前が入っていたり、数百mも離れていない新代田駅前と代田四丁目が併記されていたりと、ヘンな間隔である。もっとも、代田四丁目のほうは、ここ始発の系統([蒲13]代田四丁目〜夫婦坂〜蒲田駅)があったための処置かもしれない。そのおかげで、上馬から馬込駅前まで盛大にすっ飛ばしているが……。


この2枚は同じく分断直前に撮ったものである(n)。1時間あまりの旅を経て新宿から到着した都営バス。大森操車所の終点ポールにて(D-L681)。このバス停から発車する東急バスは[品94]と[井03]、今とまったく変わりがない。


夫婦坂(めおとざか)交差点(n)。都はるみがそんな名前の曲を歌っていたような……というのはさておき、交差点南側からの撮影。左手にみえるビルやマンションも今と同じだ。D-H130が残り少し、大森駅に向けて走る。

 そして昭和59年2月16日、分断が行われた。同時にもう一つの東急との相互乗り入れ路線だった[東82]東京駅八重洲口〜等々力も渋谷駅を境に分断され、東急との相互乗入路線は東98(東京駅南口〜目黒駅〜等々力)を残して全てなくなった。余談ながら、東急はこの日に駒沢営業所の閉所を含む大改編を行っており、分断された路線は大橋営業所へと引き取られていった。改編の概要は以下の通りである。

改編前 改編後
短縮 宿91 駒沢 大森操車所〜新宿駅西口 森91 大橋 大森操車所〜新代田駅
廃止 蒲13 駒沢 蒲田駅〜代田四丁目 ×
短縮 東82 駒沢 東京駅八重洲口〜等々力 渋82 大橋 渋谷駅〜等々力
廃止 渋22 大橋 渋谷駅〜経堂駅 ×
一部
短縮
渋70 大橋 渋谷駅東口〜世田谷野沢 渋70 大橋 渋谷駅〜世田谷野沢(朝9時以降)
中目01 大橋 中目黒駅〜世田谷野沢(朝9時まで)
短縮 渋73 弦巻 渋谷駅東口〜目黒駅〜弦巻営業所 恵73 弦巻 えびす駅〜目黒駅〜弦巻営業所
短縮 向02 高津 用賀駅〜向丘遊園駅東口 向02 高津 二子玉川園〜向丘遊園駅東口
移管 等11 駒沢 等々力操車所〜祖師谷大蔵 等11 弦巻 (同左)
移管 コーチ 駒沢 自由が丘駅〜駒沢営業所 コーチ 弦巻 自由が丘駅〜駒沢折返所
廃止 反10 瀬田 五反田駅〜丸子橋 × (品90:品川駅〜丸子橋は存続)

 分断後は前述の通り野沢交番止まりとなり、東急の折返所を間借りして折り返すことになった。東急も[森91]が都の新代田の折返所を使っているので、ちょうどこれであいこなのだろう。これはそのときの写真である(中)。東急は上の表にもある[中目01]がここを使って折り返していた。分断から2年後には共通定期券の優遇措置も終了して完全に別路線にはなったが、今でも乗り継ぎのアナウンスが野沢で流れるなど、元は1つの路線だったという面影を色濃く残している貴重な路線である。

 この折返所も平成5年3限りで廃止されることになり、ここを使っていた[宿91]はそのまま南下して駒沢陸橋まで営業し、陸橋下でUターンして折り返すように変更され、[中目01]は下馬一丁目から現在の[渋32]と同じように野沢龍雲寺を循環して戻ってくるように変更された。駒沢陸橋で折り返す路線といえば、小田急の[下61](北沢タウンホール〜駒沢陸橋)も挙げられるが、そっちは元から陸橋を使って折り返しており、この折返所は使っていなかったらしい。現在は、この折返所はスーパーマーケット、サミットストア野沢店の駐車場になっている。