昭和57年12月26日改編(その2)

撮影=naganoさん

廃止4:東96(五反田駅〜高輪〜東京駅八重洲口)→反96(五反田駅〜高輪・一ノ橋循環)
品川営業所→目黒営業所

始発・終発 五反田駅発6:26〜20:55/東京駅八重洲口発7:00〜21:30
間隔 朝5〜7 昼18 夕9〜12
乗車人員(昭和56年度) 3,816人/日
収支係数(昭和56年度) 155(ワースト17)

 [東96]は、五反田駅から衆議院宿舎裏・高松宮邸・御田小学校といった高輪の台地の裏道を抜けて三田に達し、そこからは日比谷通りを御成門まで進んで、新橋六丁目(かつての浜松町一丁目)からは第一京浜・中央通りを進んで八重洲口まで達していた路線である。えんえんと第一京浜を進む[東90](五反田駅〜東京駅、左図の点線)とはかつてどちらも東急と相互乗入を行っていたという点でも兄弟のような関係であり、行き先表示でも[東90]は品川経由、[東96]は高輪経由と呼び習わしていた(さらにそれ以前は伊皿子(今の高輪一丁目あたり)経由と言っていたようである)。

 この路線はもともと昭和25年に[122]系統として東急と相互乗入を行い、五反田駅から国道1号を進んで川崎県手前の多摩川大橋まで路線が伸びていた。それが都営浅草線の西馬込延伸などで利用価値が低下したために、昭和46年に短縮して五反田駅止まりとなったのである。しかし五反田駅から先もかなりの部分が都営浅草線と被っており、また田町駅から都心側は[東90]で十分カバーできるだけの乗客しかいなかった。そういうこともあって、まだ坂も多く利用がそこそこあった三田までの区間を生かして、左図の青線のような路線に形を変え、系統番号も[反96]と形を変えたのである。芝園橋から先は古川に沿って一ノ橋まで進み、そこから先はおなじみのルートで魚籃坂下・明治学院を経由して五反田駅に戻ってくる。さらに補足すると、清正公前〜高輪台駅の部分は昭和54年の[橋99](五反田駅〜新橋駅)の廃止で一旦バス路線が絶滅した形になったのを復活させている。

[東96]は品川営業所所管だったが、新生[反96]は目黒営業所に移管された。本数は1日50本程度とそれほど多くないものの、両回りの路線が同じ本数だけ存在したので、一ノ橋あたりから五反田駅に行くときは両方向の路線が使えたことになる。その[反96]もあまり幸せな路線生活を送ったとは言えず、幾度も路線が変わった上に系統番号の交換も行われ、今となっては[東96]の面影はほとんどない。


東京駅八重洲口で発車を待つA-G494。今でいう[東42]と[東15]の乗り場のちょうど中間くらいの位置だ。五反田駅の下の小さい文字は「高輪経由」と思われる。現在幅を利かせている高速バスは、このときはまだ国鉄が運行する東名高速バスくらいしかなかった。


東京駅を発車したA-E426。こちらは「高輪・五反田駅」と分かりやすくなっている。


銀座通りで車の波に巻き込まれている。銀座六丁目の松坂屋側から撮影したものだろうか?


改編初日の新生[反96]。あいにくの雨だが……。循環ということを示すため、かつての[葛西22]瑞江循環で使っていたような面白い方向幕デザインとなっている。まだ新鋭のM-K454が五反田駅の降車場(現在のモスバーガー前)で休憩中。


側面は思ったよりも普通で、前面にあった「内回り」などの区別はない。しかし「魚籃坂下」はやっぱり誤植されていた。

廃止5:里48乙(日暮里駅〜日本医大病院〜文京区役所)・里48丙(日暮里駅〜根津1〜文京区役所)
巣鴨営業所

始発・終発 乙:日暮里駅発6:30〜21:08/文京区役所発6:50〜21:30
丙:日暮里駅発6:55〜20:42/文京区役所発7:16〜21:04
間隔 *
乗車人員(昭和56年度) 9,426人/日(甲線もあわせた数)
収支係数(昭和56年度) *

 今は住宅地と山手線の駅を一直線に結ぶ路線として一大幹線になった[里48]だが、かつてはもう一つの別の顔を持っていた。それがここで述べる乙線である。もともとは昭和48年に水道橋〜日本医大病院〜日暮里駅〜尾久橋という路線で開通した路線が母体となっており、昭和49年には根津回りが開通、さらに昭和50年には尾久橋通りの整備に伴い扇大橋北詰まで延伸された。それが昭和53年に通りの全通で一気に足立流通センターまで延伸されたときに、日暮里駅を境にして尾久橋通りを走るほうを甲、文京区役所側を乙(日本医大病院回りが乙、根津回りが丙)と分割して上のような路線が出来上がったのである。

 しかしながら甲線のほうが通勤客の増加とともに採算が少しずつ改善していったのに比べると、乙線はいかにも客が乗らない部分だけ切り落とされた格好になってしまった。乗客も少なく本数も少ないという悪循環で、末期は日本医大回りが20.5往復、根津回りはわずかに14往復のみの運転であった。結局、この改編で代替措置がとられることなく廃止されてしまった。根津1(今の根津駅)へ東大農学部の区間は平成に入ってから[茶60]→[上60]の変更で復活したが、日本医大前の通りはこの路線が最初で最後であった。上野公園発着だったり、終点側も国電駅にくっつけるとかすれば多少は変わっていたかもしれないし、今だったら、コミュニティバス的に走らせても良かったのかもしれない。


文京区役所で折り返すP-G383。文京区役所の折返は、菊坂を下ってきた後白山通りを横切って突き当たりのこんにゃくえんまのT字路を左折、春日通りに出たら左折して、すぐ先の白山通りにぶつかる春日町交差点を左折していた。その先の白山通りに文京区役所停留所があり、今はなき[水59](巣鴨駅〜一ツ橋)と共用していた。この先は西片交差点を右折して元の経路に戻るのだが、末期は白山通り上にある小石川一丁目には停車しなくなったようだ。右折レーンの関係上だろうか?
ちなみに、出入庫は[水59]の巣鴨駅〜文京区役所で行っていた。


日暮里駅にて。黄色の電話機もそういえばもう絶滅してしまった。

廃止6:東42乙(南千住〜岩本町駅)
南千住営業所

始発・終発 南千住発6:30〜21:35/岩本町駅発6:55〜22:00
間隔 *

 この系統は、昭和54年に廃止された[草79]新宿車庫〜新宿駅西口〜市ヶ谷駅〜後楽園〜浅草の台東区の廃止部分を代替すべく開通した路線である。今の[東42乙]とそっくりだが、違いは橋場地区を回らないこと、終点が秋葉原でなく岩本町であることくらいだろうか。多分岩本町から新宿側は岩本町で乗り換えてねということなのだろうが、廃止代替といっても台東一丁目〜蔵前一丁目の間の利用者が浅草に出るくらいしかカバーできていない。
 補助もなしでこのような路線が生き残れるはずもなく、3年後にあっさりと廃止されてしまった。非常に短命な系統だった。一応台東一丁目〜秋葉原駅東口の区間は昭和53年に短縮された[上48]秋葉原駅〜竹ノ塚駅の復活ではあったのだが、ここだけ復活しても地味すぎて意味はなかった……。この地区にバスが復活するのはこれから9年後、平成3年に2代目[東42乙]が秋葉原駅まで延長されるまで待たなければならない。


廃止のお知らせ。岩本町駅の停留所は、かつての[秋26]の岩本町駅のポールがあったA3出口・岩本町ビル前ではなく、そこから幾分か離れたA4出口(千葉銀行・山崎パン)向かいの水天宮通り上にあった。秋葉原駅から南下して和泉橋を渡った後、昭和通りの東松下町交差点を左折、すぐ次を左折してこの乗り場につけて折り返していったようだ(降車ポールはどこにあったか不明)。


その東松下町を左折した後の姿。東京衣料会館は今でも健在だ(K-E556)。


側面幕。このときはまだ「浅草松屋」でなくて「東武浅草駅」だった。また、当時は乙表示はなく、あくまで本線の折返線という扱いだったようだ。