昭和40年に開通した115系統:東京駅八重洲口〜(首都高速)〜羽田空港。もともとは東京オリンピックに合わせて昭和39年7月に免許申請されたものであり、オリンピックには間に合わなかったものの、申請後1年での昭和40年8月25日開業と、普通の系統に比べるとスピード開業となった。この系統の開業にあたり、今まで京急との共同運行だった115系統(東京駅八重洲口〜品川駅〜川崎駅)を廃止した。この系統の目新しい点は首都高速を走るという点である。この当時、首都高速は1号線と4号線(新宿線)が開通した程度であり、まだ首都高速上を走るバス路線は存在しなかったようだ。ルートは往路は羽田まで首都高を利用、復路は平和島・大森駅まで一般道を利用した後、鈴ヶ森出入口から首都高に入り、1日20回ずつの計40回運行となった。設定所要時間は往路30分、復路40分で、従来の大森・蒲田からのバス利用に比べて20分短縮と謳われたようで、当時の交通局の意気込みはかなりのものであった。写真は交通局報昭和40年8月号に掲載された記事のものである。しかし、ネックは運賃であった。片道300円の高速料金がかかるため、運賃は70円に設定され、同じような距離となる他の路線に比べ、およそ20〜30円ほど割高になっていた。また、首都高が思った以上に渋滞し、時間通りに走れないことも多かったようだ。
運賃は昭和44年までは70円で据え置かれたが、乗客数は思った数に届かなかったようで、昭和45年11月末の運行をもって廃止された。ルート自体は後年、京急・東京空港交通が[空01]として同じ区間を開通させたものの、都バスの羽田空港乗入れはこれが最初で最後となった。