トップ路線資料館>東21

○東21(廃止)←[27]
→一応[門21]

深川営業所

系統一覧

東京駅南口〜銀座4〜永代橋〜門前仲町〜東陽町駅〜旧葛西橋〜北砂7 12.104km  
折1 東京駅南口〜銀座4〜永代橋〜門前仲町〜東陽町駅 7.859km
折2 東京駅南口←銀座4←永代橋←門前仲町 6.641km
折3 東陽町駅〜旧葛西橋〜北砂7 4.245km

本線の始終発時刻

東京駅南口発 7:00〜21:30 北砂七丁目発 6:30〜20:39(東陽町駅止22:13)

回数・速度

  運転間隔 所要時間 表定速度
平土 38回 朝14〜18 昼29〜40 夕16〜24 60〜71 10〜12
休日 30・28回 25〜37 50〜57 12〜14

変遷

系統 施行日 所管 距離 概要
27  S22. 8. 5 洲崎 *** 袖ヶ浦〜門前仲町が開通
27  S22.12. 1 洲崎 *** 葛西橋(現旧葛西橋)〜門前仲町〜有楽町駅に延長
27  S23.11. 1 洲崎 10.954km 東京駅南口〜有楽町を延長
27  S26 洲崎 11.054km キロ程修正?
27  S29.12.28 洲崎 12.104km 北砂町5(現北砂7)〜葛西橋を延長
27  S43. 5.27 深川 12.104km 洲崎営業所の深川への移転改称により深川に移管
東21 S63. 6. 8 深川 *** 有楽町線新木場延伸に伴う改編で東京駅南口〜北砂7を廃止

停留所

(S62.10) (S50.12) (S44.1) (S40.1) (S35.10) (S25.6)
北砂七丁目 北砂七丁目 北砂七丁目 北砂町五丁目 北砂町五丁目 葛西橋
亀高橋 亀高橋 亀高橋 北砂町四丁目 北砂町四丁目 袖ヶ浦
東砂四丁目 東砂四丁目 東砂四丁目 北砂町七丁目 北砂町七丁目 砂町小学校通
旧葛西橋 葛西橋 葛西橋 葛西橋 葛西橋 南砂町
東砂六丁目 東砂六丁目 東砂六丁目 南砂町七丁目 南砂町七丁目 南砂町四丁目
袖ヶ浦 袖ヶ浦 袖ヶ浦 袖ヶ浦 袖ヶ浦 洲崎車庫前
元八幡 元八幡 元八幡 元八幡 元八幡 洲崎弁天町
南砂六丁目 南砂六丁目 南砂六丁目 南砂町五丁目 南砂町五丁目 木場三丁目
学校通り 学校通り 学校通り 学校通り 学校通り 富岡町
福島橋 福島橋 福島橋 福島橋 福島橋 門前仲町
南砂三丁目 南砂三丁目 南砂三丁目 南砂町三丁目 南砂町 佐賀町
日曹橋 日曹橋 南砂二丁目 南砂町四丁目 南砂町四丁目 永代橋
江東運転免許試験場前 南砂二丁目 稲荷橋 稲荷橋 稲荷橋 鉄砲洲
東陽町駅前 東陽町駅前 東陽公園前 東陽公園前 東陽公園前 明石町
東陽操車所前 東陽操車所前 洲崎操車所前 洲崎車庫前 洲崎車庫前 勝鬨橋
東陽三丁目 東陽三丁目 洲崎 洲崎弁天町 洲崎弁天町 築地
木場駅前 木場五丁目 木場五丁目 木場三丁目 木場三丁目 銀座四丁目
木場二丁目 木場二丁目 木場二丁目 木場一丁目 木場一丁目 有楽町駅前
富岡一丁目 富岡一丁目 富岡町一丁目 富岡町二丁目 富岡町二丁目 都庁前
不動尊前 不動尊前 門前仲町 門前仲町 門前仲町 東京駅乗車口
門前仲町 門前仲町 永代二丁目 永代二丁目 永代二丁目
永代二丁目 永代二丁目 佐賀町 佐賀町 佐賀町
佐賀一丁目 佐賀一丁目 永代橋 永代橋 永代橋
永代橋 永代橋 越前堀 越前堀 越前堀
新川二丁目 新川二丁目 鉄砲洲 鉄砲洲 湊町一丁目
鉄砲洲 鉄砲洲 湊町三丁目 湊町三丁目 湊町三丁目
湊三丁目 湊町三丁目 明石町 明石町 明石町
明石町 明石町 聖路加病院前 聖路加病院前 聖路加病院前
聖路加病院前 聖路加病院前 築地七丁目 小田原町一丁目 明石橋
築地七丁目 築地七丁目 築地六丁目 小田原町 勝鬨橋
築地六丁目 築地六丁目 築地三丁目 築地三丁目 築地三丁目
築地三丁目 築地三丁目 築地 築地 築地
築地 築地 銀座四丁目 銀座四丁目 銀座四丁目
銀座四丁目 銀座四丁目 有楽町駅前 有楽町駅前 有楽町駅前
数寄屋橋 数寄屋橋 都庁前 都庁前 都庁前
有楽町駅前 有楽町駅前 東京駅丸の内南口 東京駅丸の内南口 東京駅丸の内南口
都庁前 都庁前
東京駅丸の内南口 東京駅丸の内南口

かつての「本線」も…

 北砂七丁目から現在の亀21と同じように進み、東西線の真上を通り、永代橋を渡ると今度は川沿いに進んで築地に出て、銀座・有楽町と進んでようやく東京駅にたどり着くというルート。今から見るとやたらと遠回りだが、それまでバス路線の通っていなかったところを結びながら開業したため、このような形になったのだろうか。路線上の東陽三丁目付近にあった洲崎営業所が担当し、営業所では「本線」と呼ばれていたようだ。開通が古く、また営業所前を通っていた唯一のバス路線でもあったためだろう。北砂七丁目終点というのが多少ヘンに感じるが、当時は丸八通りもまだ未整備で、北砂七丁目以北はバスの通れるような道が存在しなかったのである。

 東西線が開通する前までは1日100回程度の本数があり、非常に利便性が高かったものの、開通後は定時性の低下と相まって徐々に価値を落としていく。昭和49年に東陽町駅〜北砂七丁目で完全に並行する亀21が開通し、東21は本数を減らしていく。こうなると近くを走る葛西橋通りのバスのほうが便利であるし、また東京駅側では東15・東22を使ったほうが便利だということになってしまう。営業係数は上がり、かなりの赤字系統となってしまう。そのような中でも、昭和50年代の路線再編成の嵐を乗り越えたのは、有楽町線が湾岸まで延びていなかったために路線網の冗長性を残しておく意義があったと判断されていたためかもしれない。

しかし、それも昭和63年の有楽町線新木場延伸までのことであった。このときの再編成で廃止され、新設された門21に役割を譲ることとなった。