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○108(廃止)
→一部[8]→[橋68]

練馬営業所×西武

系統一覧

大泉学園駅(←石神井支所、下屋敷→)谷原町2〜目白駅〜江戸川橋〜四谷見附〜新橋駅 22.541/23.291km  
大泉学園駅(←石神井支所、下屋敷→)谷原町2〜目白駅〜江戸川橋
出入 大泉学園駅(←石神井支所、下屋敷→)谷原町2〜練馬区役所

変遷

系統 施行日 所管 距離 概要
108  S22. 9. 1 練馬 16.291km 豊島園〜目白駅〜市ヶ谷見附〜新橋駅が開通、西武と相互乗り入れ
108  S23. 5. 1 練馬 21.411km 石神井公園〜谷原2〜目白駅〜新橋駅に変更延長、豊島園を折り返し系統として存続?
108折  S25.12.25 練馬 *** 豊島園〜新橋駅を8系統として独立させる
108  S31.11. 1 練馬 23.611km 大泉学園駅〜石神井支所〜目白駅〜新橋駅に変更延長
108  S39? 練馬 22.541/23.291km 大泉学園駅→谷原2間を下屋敷経由に変更
108  S45.10.21 練馬 *** 大泉学園駅〜新橋駅を廃止

停留所

(S44.1) (S40.1) (S35.10) (S26.6)
大泉学園駅前 大泉学園駅前 大泉学園駅前 石神井公園駅前
妙延寺前 妙延寺前 妙延寺前 谷原町一丁目
東映撮影所入口 東映撮影所入口 東映撮影所入口 高松町
下屋敷 下屋敷 下石神井二丁目 練馬中学校前
石神井幼稚園入口 石神井幼稚園入口 石神井支所前 中村橋駅入口
稲荷前 稲荷前 石神井公園駅前 豊島園口
北田中 北田中 石神井消防署前 練馬駅通り
中原 中原 谷原町 桜台
谷原小学校前 谷原小学校前 谷原町二丁目 豊玉
都立授産所前 下石神井二丁目 高松町 椎名町七丁目
下石神井二丁目 石神井支所前 高松町一丁目 西落合一丁目
石神井支所前 石神井公園駅前 練馬中学校前 椎名町四丁目
石神井公園駅前 石神井消防署前 中村橋駅入口 下落合二丁目
石神井消防署前 谷原町 白山町 下落合一丁目
谷原町 谷原町二丁目 練馬区役所前 目白駅前
谷原町二丁目 高松町 練馬駅通り 高田豊川町
福祉会館前 高松町一丁目 桜台駅通り 護国寺前
高松町 練馬中学校前 豊玉北二丁目 江戸川橋
高松町一丁目 中村橋駅入口 豊玉 牛込天神町
練馬中学校前 向山町 江古田不動 牛込北町
中村橋駅入口 練馬区役所前 江古田二丁目 市ヶ谷見附
向山町 練馬駅通り 椎名町七丁目 四谷駅前
練馬区役所前 桜台駅通り 西落合一丁目 四谷見附
練馬駅通り 豊玉北二丁目 椎名町四丁目 赤坂見附
桜台駅通り 江原町二丁目 椎名町三丁目 山王下
豊玉北二丁目 江原町一丁目 下落合三丁目 溜池
江原町二丁目 江原町中野通り 下落合二丁目 虎ノ門
江原町一丁目 南長崎五丁目 下落合一丁目 田村町一丁目
江原町中野通り 西落合三丁目 目白駅前 新橋駅前
南長崎五丁目 南長崎二丁目 目白警察署前
西落合三丁目 椎名町三丁目 鬼子母神前
南長崎二丁目 下落合三丁目 高田豊川町
目白五丁目 下落合二丁目 雑司が谷
聖母病院入口 下落合一丁目 護国寺前
下落合二丁目 目白駅前 音羽三丁目
下落合一丁目 目白警察署前 江戸川橋
目白駅前 鬼子母神前 山吹町
目白警察署前 高田豊川町 牛込天神町
鬼子母神前 雑司が谷 矢来町
高田一丁目 護国寺前 牛込北町
目白台二丁目 音羽三丁目 納戸町
護国寺前 江戸川橋 市谷田町
音羽一丁目 山吹町 市ヶ谷見附
江戸川橋 牛込天神町 四谷駅前
山吹町 矢来町 四谷見附
牛込天神町 牛込北町 赤坂見附
矢来町 納戸町 山王下
牛込北町 市谷田町 溜池
納戸町 市ヶ谷見附 虎ノ門
市谷田町 四谷駅西口 田村町一丁目
市ヶ谷見附 四谷見附 新橋駅前
本塩町 赤坂見附
四谷駅西口 山王下
四谷見附 溜池
若葉一丁目 虎ノ門
赤坂見附 田村町一丁目
山王下 新橋駅前
溜池
虎ノ門
西新橋一丁目
新橋駅前

長すぎた系統

 相互乗り入れ開始に遅れること3ヶ月、昭和22年9月に開通した路線。西武と手を結び、初の新橋駅発着路線となった。開通当初は目白から練馬区役所を通って豊島園を終点としていたが、1年も経たないうちに石神井公園駅まで延長、その後に豊島園折り返しを一般系統として独立させている。さらに昭和31年には大泉学園駅まで延長、23区内随一の長さを誇る路線となる(現在の新江62が開通するのはその3年後のことである)。しかし、これだけの長距離を走る本数は少なかったらしく、1日20本程度である。それ以外は、練馬区役所から新橋駅まで完全に並行している豊島園行き(8→橋68系統)がその役目を担っていたと考えるのが良いだろう。実際、路線の成績自体は非常に良いが、これは区間区間の利用が多く、バス利用の旺盛な地域を結んで走っていたからだと思われる。
 これだともう少し残ってもよさそうなものであるが、これだけの長い路線を維持するのは難しかったらしく、また廃止しても他の系統で全てカバーできると考えられたためであろうか、昭和45年に廃止されてしまった。もっとも、カバーする役割を負った橋68系統自体も昭和52年に廃止。結局生き残った白61系統に全て集約されてしまった観がある。